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by ojer |
神道への興味から『国家神道』(村上重良)、『神仏集合』(義江彰夫)を読んで、神仏習合へ視線がむかい、相手の仏教を知りたくなって『日本宗教史』(末木文美士)、『仏教入門』(三枝充悳)を読んでいるところだが、昨日、『日本宗教史』で豁然として思い至ることがあった。 仏教における釈迦(ゴータマ・シッダールタ)の位置づけをまったく誤解していたということだ。“仏教の開祖は釈迦”であるからして、“すべての仏教は彼を原点として派生してきた”と考えてきた。というより“感じて”きたというのが正しいかな。しかし、昨日突然気づいたのは、その後の二千数百年の仏教史のなかで、釈迦自体がとっくに相対化されてしまっているということである。 すでに空海の時代から、釈迦は、超越的な“仏性”の具現の一例であり、あるオカレンスに過ぎないと考えられているのだ。それは、キリスト教におけるキリストともパラフレーズできる。あちらでもいろいろな考えはあるようだが、キリストは至高の神が人として具現したと解釈できるのだとすれば、そうであろう。 酷似しているが、まったく異なる点もある。キリストの具現は1回限りであるが、釈迦(一般化して仏)は、無限に具現する。あるいは、仏の数だけ世界がある。そうなると、あくまでも感覚的にだが、現代物理の最先端である多重宇宙論を思い浮かべてしまう。 つまり現在の仏教は、“お釈迦様、あんただけじゃなかったのね”って世界だったということを、昨日、突然、気づいたのだ。ははは。 Tags:雑文 by ojer | 2007-11-15 11:15 |