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by ojer |
旧芝川以来、ほぼ一週間ぶりの散歩は、いつもの見沼KPから辰井ゲートにした。 日差しは明るさを増してきているが、まだ早朝の寒さは厳しい。庭先ではスイセンやパンジーが頑張っているが、野の草花はまだ目覚めていない。サザンカやロウバイに代わって、ウメが新しい春の先駆けを告げている。 見沼では植物はまだまだ冬ごもりの最中。またまた、お寺巡りになってしまった。 はーるよ、こい。 文化放送送信所 背景の空の青に強さが蘇ってきた。 今朝は、ことのほかツグミが多かった。電子3倍ズームで撮ろうと近寄っても、すぐに逃げてしまう。この写真はむこうが目の前を通ってくれたので撮れた。 真言宗智山派閼伽井山福寿院 小さなお寺だ。閼伽井山は、この辺りの地名赤井からくるのだろう。 新しく開かれた墓地のようだ。 奥に見えるのは身障者福祉センター「わかゆり学園」 新開墓地の土地の神様を祀る? 神道→神仏習合から出発して、最近、われながら少し仏教に深入りしすぎた感があるが(あくまでも“信”でなく“知”としてだが)、最近また面白いことを知った。 以下は、岩波新書 松長有慶『密教』の受け売りだ。 新しく寺を建てるとき、あるいは他の土地から有名な神を勧請するとき、その土地の神(祇)に敬意を払って、新しい寺社の近辺に末社を建てて土地の神を祀る。これは、あちこちで神社仏閣を観てきた経験から知ったことである。いわば、新興の勢力が地元の顔役に挨拶するようなもので、別の見方をすれば、それは、日本古来の風習が、神仏習合において顕現した事例だろうと解釈していた。 ところが、『密教』によると、この儀礼は、密教の教典に規定されているという。それに従って、“空海は高野山を開創するにあたって…………天神地祇をもって檀主とする結界の文を披露し…………最澄もまた、比叡山の守護のため日吉神(ひえのかみ)に祈願を捧げている”p-44のだそうだ。 ということは、この儀礼は、たんに先住の祇を敬して遠ざけるのではなく、その庇護を乞うて祀るわけである。いささか、わが解釈が浅かったと言わざるをえない。 そしてまた、こうした土着の神と新入の神仏の間の儀礼が、密教の教典に規定されているということは、遠くインドの風土に於いて、すでにそのような習慣が定着していたことを示している。つまり、神仏習合の素地は、仏教の生まれたインドの風土の中にすでにあったのだと解釈できる。 ははは、今朝は、大幅に脱線してしまった。 閑話休題 少し離れたところに、福寿院の古くからの墓地があった。中心の新しい墓石と、左右に並ぶ古い墓石。この一族の長い歴史を示している。 この墓地では稲垣氏が圧倒的に優勢である。うちの前の病院も稲垣某が院長だし、赤井のあたりには稲垣姓が多い。 同じ墓でも、以下はまたひと山越えた、別のお寺、宝厳院の墓所。 無縁仏 宝厳院 歴代住職の墓所 宝厳院本堂の屋根 宝厳院は、この墓所から街道を隔てた向かいの丘の上にある。 見えるかな? 公団の白い建物の手前の三角の屋根。かすかに九輪が見える。 真言宗知山派慈林寺寶嚴院参道 慈林薬師が愛称である。実はこちらの寺は、うちから歩いて5分。近所のマルエツへ買い物にゆくときは、必ず門前を通っている。あまり近すぎて、なにもわざわざという感じだったのだ。 この寺は、聖武天皇の勅願寺というから、この近辺では別格。川口市内(多分、鳩ヶ谷をいれても)では最古の寺だという。しかし、伽藍はほとんどが新しいもので、最古の仁王門も江戸末期のものらしい。あまり興味がわかなかったのも、そのあたりが理由かもしれない。 駐車場から山門(仁王門)を望む。 参道のマツ 仁王門 仁王門から薬師堂 仁王 吽形 仁王 阿形 鐘楼(仁王門の左手) 本堂(仁王門の右手) 仁王門 振り返って見たところ。仁王の裏は、風神、雷神。 薬師堂 山門からはこちらが正面 一組の石灯籠の手前に車道が走っている。ここも、境内を道路が横断しているのだ。 地蔵堂 こういうのが、いちばんほっとしますな。 右に見えるのは薬師堂の屋根。 スダジイ だいぶ以前に頭部が折れてしまったのか。しかし、この幹の存在感はなかなか。 以上 Tags:自然 by ojer | 2008-02-01 11:50 |