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鹿島神宮・護国院 2009年4月4日

今日は鹿嶋城趾(城山公園)へ花見に行ったので、その前に懸案の鹿島神宮を訪ねた。前回は、1991年11月の誕生日前後に“リフレッシュ休暇(当時、流行っていた)”と称して、益子、水戸などを訪ねた最後に鹿島神宮に寄っている。まさか、この近辺に、後日引っ越してくるとは、当時、予測する余地もない。(ややこしいし、理由は調べていないが、嶋と島は、鹿嶋市、鹿島大野(駅名)、鹿島神宮(ホームページ)となっている)。

だいたい神社でも神宮、大社と名がつくものは多くない。元をただすと、歴史的な文書として残っている延喜式(927年)に最古の神社の格付け(神名帳)があり、そこに“神宮”とあるのは伊勢、鹿島、香取だけなんだそうである。話は脱線するが、この編者が藤原時平(ときひら)だが、彼は菅原道真のライバル。歌舞伎の『藤原伝授手習鑑』では時平(じへい)として敵役になっているが、実際には有能な政治家だったらしい。

正月のブログに我が家近くの戸隠神社を載せた。あとでわかったのだが、この戸隠神社は、鹿島神社の北方の一の鳥居があった跡なのだそうだ。すぐ近くの慈眼寺も鹿島神社の鬼門の守りの位置づけがあるそうだ。鹿島神宮と大野はほぼ10キロ離れているが、神宮の守備範囲も相当なものだと感心した。

神宮周辺の植物。我が家の周囲とはあきらかに植生が違う。

クサノオウオドリコソウ
タチツボスミレキイチゴ
鹿島神宮二の鳥居 一の鳥居は北浦湖畔大船津   
随神門(楼門)社務所(随神門を入って左側)

随神門を抜けるとすぐ左手に社務所があって、右手に本宮がある。

札所の奥に本宮拝殿拝殿

本宮(拝殿と本殿)うっかりするともっと先にあるのかと、通り過ぎてしまいそうだ。普通だと、参道をまっすぐ進んで正面に本殿があると思っている。しかし、ここは参道の脇に本殿があって、参道はさらにずーっと奥まで延びている。説明の看板には祭神タケミカヅチの由緒が書いてあるが、国家神道時代の史観を払拭できていないようである。社務所の並びに国宝館もあったが有料なのでパス。

拝殿拝殿の奥に本殿

本殿には近づけないが日光の東照宮を思わせるような華麗な彫刻がかいまみられる。

本殿と対面して仮殿がある。

本殿を横に見て、さらに進むと奥宮との境の垣根がある。この奥は舗装でなくなる。

奥宮との境鹿園

奥宮の神域に入ってすぐに左手に鹿園がある。鎌足の代以降、鹿嶋から出て中央が本拠地になってしまった藤原(中臣)氏が、不比等のときに本来の氏神である鹿島神社を、大和の国に分祀して春日大社を建てたという説がある。そのとき、分祀する神を鹿の背に載せて運んだのだそうだ(祭神タケミカヅチの使いが鹿ゆえ)。その鹿が今の春日大社の鹿の先祖。こちらの鹿は絶えていたが、その末裔を戻してもらったのが、この鹿園の鹿。前回の時はなかったような気がする。いくら縁があるとはいえ、この神域にこの鹿園は不調和もはなはだしい。やめたほうがいい。

参道の突き当たり、これも右側に奥宮がある。

あとから気づいたのだが、いま歩いてきた参道は本来の参道ではないようだ。以前は、本宮、奥宮へは鹿島神宮駅から、直接、それぞれのお宮へ参る参道が付いていて(現在も残る)、本宮と奥宮を横に結ぶ道が、いまの参道のようである。それなら、普通の神社と同じで、参道の突き当たりが社屋ということになる。

奥宮から原生林の中の道を進むと要石がある。

要石要石のへそ?

神域の中央にでべそのように要石がある。これは地表に出たほんの一部で、本体は七日七晩掘っても掘りきれなかったんだそうだ。だから地震を収める働きがある?

要石の前にウラシマソウの群落があった

もとの奥宮まで戻って、神宮駅方向へ下ると御手洗池がある。この澄んだ泉は前回の記憶にある。御手洗池の説明に、もとはここが奥宮への参道とあったので、先ほどの考えを思いついた。 

御手洗池 写っていないが澄んだ水に大きなコイや金魚が泳いでいる
御手洗池を覆うスダジイの古木

城山の近くに北関東三十三不動の護国院があるというので行ってみた。縁日には賑わうのだろうが、閑散としていた。

護国院 大師堂護国院本堂
鹿嶋高校校内の神社

校庭の端にある小さな祠だが、周囲のタブノキの古木を見ると、その歴史が思われる。

  
   
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