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景清の松・郡家跡 2009年6月7日

鬱陶しい日がつづいたが、今朝はすっきり晴れた。風が少々強いが、もうそろそろ梅雨に入る。でかけておかないと後悔しそうだ。今日の目標は、このあいだ見つからなかった郡家跡と景清の松。これらはわりに近い距離にある。ただし、郡家跡は2カ所あって、もう1カ所は鹿嶋の市内にある。

マップ

「景清の松」もWebで近辺の史跡を漁っていて見つけたものだ。古典芸能では景清は人気キャラ。山仲間とも奈良の転害門(景清門)鎌倉の景清窟を訪ねたことがある。しかし、まさか鹿嶋に景清がらみの名所があるとは知らなかった。行かずばなるまい。

景清の松は、ハマナス公園駅への交差点から北浦方向へ向かい、丘陵を下りきった辺りにあった。道路の脇にある大きな松だが、とくに目立たない。思い出せば、以前にもこの脇を浜風で通っているが、まったく気づかなかった。

こんな道をどんどん走る景清の松

由来は…………ということであった。能、歌舞伎、舞踊などの景清は、名古屋の白拍子阿古屋や、阿古屋とのあいだになした娘の人丸がいることで成り立つようなものだ。能の『景清』は好きで何度も観ている。謡本を繰ってみると、人丸は鎌倉亀が江が谷(かめがえがやつ)の人となっている。謡本に説明はないが、人丸を引き取って鎌倉に住まわせていたことになるか。まあ、このあたりは芸能になるとどうにでも細工されてしまうのだろう。しかし、いずれにしてもここに墓があるとは思いがけなかった。ただ、調べてみると人丸の墓は、鎌倉や宮崎にもあり、どれがどうなのやら…………。

景清の松のところに南側から合流している道がある。これを戻るとすぐに人丸の墓のある大福寺だ。おそらく浜風で来た道は近来できた車道で、こちらが古道だろう。広い舗装道路だが鬱蒼とした森に覆われて交通はまったくない。急坂をあえいで登るとすぐに棚木集落センター入口の標識がある。大福寺も同じ方向にあった。

こんな道大福寺山門
鐘撞堂と本堂 右奥は庫裏サルタヒコノ尊 山門入って右側
本堂

本堂の中に確かに十一面観音とおもわれる仏像があったが、暗くてよく見えなかった。

本堂左脇の僧像 何代目かの住職か鐘撞堂

さほど広くはない本堂の脇の墓地を探したが妙庫塚の案内はどこにもない。古い墓碑は苔生して判読不能。2、3周してあきらめ、最期に墓地を振り返ってみた。ははは、なーんだ、ど真ん中にある塚だ。普通の墓の碑文ばかり探しても見つからないわけだ。草むした塚の上に刻された文字も溶け果てた石塔がある。これ以外に考えられない。

妙庫塚(人丸の墓)

歌舞伎の役者は大きな役を演じるとき、その役に因縁のある寺社に参る。しばしば阿古屋を演じている玉三郎はここに参っているだろうか。

郡家跡へ向かう途中に2つ神社があった。まずは田野辺の塩釜神社。歴史的には鹿島灘に沿って塩釜はいくつもあったので、不思議はないが、ここは大分丘陵の奥深い場所だ。

塩釜神社入口塩釜神社 田野辺
深い木立のなかだが掃き清められていた本殿

次は沼尾の金砂神社。人家は迫っているが周囲に広く社林が残されている。拝殿は町屋風で蛍光灯が点っていた。

金砂神社拝殿

外屋に守られた本殿外屋

前回見つからなかった郡家跡だが、今回もはっきりしなかった。今度は細かな地図を持参したので、その位置に到達したことは間違いないのだが、結局、前回の塚原古墳の周辺がその場所に該当することを確認したのみ。

郡家跡はこの近くか? 墓の奥の森の中に塚原古墳群がある

もうひとつの郡家跡は鹿嶋市の中心地区にある。ここも一応大きな道路に標識はあったが、その先はきわめて不親切。近所のひとに尋ねてたどりついた。町中に突如こんな広大な原っぱがあるところが鹿嶋らしい。

案内を読まれよ! かくも壮大な官衙がここに営まれていたとは。夢のまた夢。

2つの郡家は相当距離は離れているが、どういう関係にあったのだろう。いずれ教育委員会に訊ねてみずばなるまい。

本日はこれまで。

  
   
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