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『劔岳 点の記』のことなど 2009年07月20日

山仲間の掲示で話題になっている『劔岳 点の記』をやっと観ることができた。剱は自分の一番好きな山だし、原作も読んでいるから観たくてしかたなかったが、映画館といえば、水戸、成田、東京あたりまで出るしかない。

3連休の最終日、用事にかこつけて観ることにした。鹿島神宮発7時55分の東京駅行き直通バスで9時25分ころ東京駅着。有楽町の東映に着いたのは9時40分前か。10時開演というのに切符売り場にはもう行列ができていた。列にならんで前後を見るとだいたい同年配の男が多い。券売所で最後列の中央の席を選んだが、開演前には最前の数列を残してほぼ満席だった。両脇の席も埋まっての映画など近頃記憶にない。

公式サイト提供画像

結論からいうと、山好きなら楽しめると納得したが、やや退屈。すべて実写という山岳映像は評判通り。この映像だけでもある程度満足できる。しかし、自然美・山岳美だけで引っ張るには長尺すぎるし、ストーリーの展開に興味を持続させるだけの力がなかった。それに、個人的な記憶と結びついている場所が意外な文脈で出てくると違和感をぬぐいきれない。例えば、剱岳登頂ルートを探して周辺を点々とする描写で、裏八ッ峰の錦繍が出てくる。あそこは剱絶景の筆頭であり、映像で見せたい気持ちはよくわかる。しかし、あのビューポイントは仙人池。仙人池は話中の山頂アタックに使われた‘三の沢’(長治郎谷)よりさらに奥にある。当時の陸地測量部があそこまで入っただろうか。

それと山中の行動もぴんとこない。感心したのはグリセードだけ(友人Z氏の指摘どおり。あれは凄いね)。繰り返される風雪中の登高やら、雪崩の遭難やら、滑落やら、墜落やら、次々と繰り出される山岳登攀的エピソードはリポビタンD級アクションが目立って興ざめ。雪の斜面で滑落すれば、停止姿勢はおろか、勢いを付けてわざと回転している様子まざまざ。烈風に耐えるがごとく、いくら姿勢を屈めスゲ笠に手を添えてみせても、背負ったムシロや草履はそよいでもいない。湿雪の雪崩に襲われ、雪から這い出しては飛び回るなんて空想の世界。湿雪の塊は岩と変わらない。この種の映画でいつも感じるが、何も知らない観客に訴えるには見た目に派手なアクションが必要だろうが、山中での過激な行動は危険で体力の消耗をまねくことにしかならない。この辺りの矛盾をじっくり解決してくれる映画は現れないだろうか。

言葉遣いも気になる。現在はみな平等はいいが、あの時代、技官とはいえ参謀本部の軍属が、片田舎のガイドに“さん付け”はない。互いの敬意を表すなら、その時代的制約のなかで別の手法があっただろう。まあ、近頃の時代劇など垣間見るに、そんなこと言いうと石頭のくそ爺といわれるが関の山か。ははは。

俳優では、友人K氏の指摘のように、副主人公のガイド長次郎役、香川照之がいい味を出していた。これまで散見するに(世間の評価は知らず)、どうも両親の血はあまり継いでいないと感じていた。今回は見直しました。一皮むけたというやつですか。

物語からいうと、登高のヒントを与える行者の言葉「雪を背負って登り雪を背負って降りよ」は覚えがあるので原作で読んだのだろう。その行者が主人公に担がれて救助され、回復したあとのご託宣とあっては玄妙さも半減。それと、三角点網敷設という大ハンデのある測量隊がフリーハンドの日本山岳会小島烏水らと初登頂で競い合うというのも奇妙。山岳会は案内人を雇っていない設定になっていたが、ガイドレスが相手のハンデということなのか? いくら西欧スタイルの装備でも明治時代にあれでは軽すぎる。芳太朗夫妻の情愛や長治郎の妻の献身、陸軍参謀本部の人模様などはまったくのステレオタイプ。息子の改心も唐突。この辺りは原作の限界?

音楽はバッハのオルガン曲やビバルディの四季などバロック音楽を大編成の管弦楽に編曲したもの。後で公式サイトを見ると池辺晋一郎 が映像を見ながら指揮して伴奏を着けたとあった。現代音楽なら知らず、耳タコのクラシックはそれ自体に個人的な情感の喚起があり、伴奏に使われるととまどいを覚える。公式サイトの解説には、音楽好きの監督が音楽に力を注いだとあるが、こちらには映像に金を掛けすぎて、音楽まで手が回らなかったと思える。音量と編成でいくら調味しても単調の感はまぬがれなかった。

仲間の掲示では、K氏が 「調査登攀は困難を極めたものの、明治40年の7月17日の初登頂はすんなりというのには不自然さも」と指摘していた。

“すんなり初登頂”は説明がつく。事前調査は秋だった。そのころは雪渓が崩壊して、あの映像のように残雪のピナクルが参差錯落となり、谷筋の登高は極めて危険かつ困難。ところが梅雨の雨で多量の残雪が締まった初夏は雪渓の安定期。初登頂のころなら斜面は急でもラントクルフトやシュルントはほとんどできていない。いまの登山常識なら、雪渓はその時期が一番安全で登りやすい(落石の危険はあり)。確かに演劇的な展開としては物足りないのだが、すでに諸方の三角点の設営をすませ、体力・技術ともに十分な測量隊にとって、剱岳登頂はあっけないほど簡単だったのではないだろうか。つまり、行者の言葉にヒントを得て、雪渓ルートに適した時期を見抜いた長治郎の経験と判断がポイントだろう。

以下、Webで検索し引用させてもらった写真は、キャプションにオリジナルへのリンクを張ってある。個別に許可を受けたわけではないが、ご容赦。

残雪がべったりで登高は容易剱沢を下り長治郎谷末端へ取り付く

個人的には、若い頃に、6月の長治郎谷(ちょうじろうたん)を独りで滑降したときの思い出と重なる(記録を調べると1982(S57)年6月4−7日、39歳、若くもないか)。あのときは前日に剱山荘(けんざんそう)に泊まった(たしか剱沢小屋は閉じていた)。梅雨時なので宿は閑散としていた。宿泊者はわずかだからすぐに客同士話しあうようになった。もちろん明日の行動予定などが話題だったはずである。なかにもう一人同じ目的のスキー客がいたが、そのひとは後で話しを聞くと、長治郎谷を登って適当なところから同じコースを滑り降りたと言っていた。こちらは、どうせなら剱岳山頂を踏んでからフルに長治郎を滑る心算だった。

当日は、スキー靴を履き、板はザックに背負ってまず剱沢を下った。板も靴もゲレンデ用。下りなら滑ればと思うかもしれないが、早朝の剱沢の、岩くずだらけのシュカブラを滑る気にはなれない。平蔵谷(へいぞうたん)出会いから雪渓を登り返し、剱岳山頂を経て滑降開始地点の長治郎谷左俣の頭へ下りるという行程。平蔵谷を登ると右手は、いわゆる「剱岳南壁」。岩場としては初心者向けのゲレンデだ。剱の岩壁はほとんど登っているが、ここはやっていない。南壁は、途中に何本かのルンゼを刻んでいる。普通に平蔵谷を登り切って縦走路へでるとスキー靴で延々と岩場を歩くことになる。そこで、適当なルンゼを詰めて直接剱の山頂へ出ることにした。南壁から源治郎尾根に抜ければ上半は比較的容易だ。しかしこの選択は若さの勢いと言うべきで、遭難してもおかしくない決断だった。登攀装備ならともかく、スキー靴で板を担いでいたのでは、運良く上部へ出られたと言うしかない。前もって計画したわけではないので、いまだにどういうルートを取ったかはっきりしない。

この写真は秋だろう
初夏のルンゼは雪渓で埋まっている
剱岳南壁ルート図

あの映画には剱の南面のアップ(したがって平蔵谷と源治郎尾根)が数回でてくる。これに触発されて、どういうルートを取ったか調べてみた。あれこれWebの写真を検索して見比べたすえ、なんとかあのときの登りのルートが確認できたような気がする。結論は、剱岳南壁のA1、A2リッジの間のルンゼを詰めて「剱の帽子」(雪田)へ出たようである。途中、雪渓が切れて、かぶり気味の岩壁に行く手を阻まれ、ザックに叉手に組んだスキーの先端が岩につっかえて往生した。これを抜けないと生きては帰れない。かろうじて登れたトレールを降るのはさらに困難だ。そのときは右へトラバースして壁の弱点を探し、なんとか岩を乗っ越したと記憶している。雪渓ではステップを刻むのに快適だったスキー靴が、岩場では足首を拘束して、まさに足かせとなった。結局、最後はリッジA1の上部へ抜けたようだ。岩場が終わって、「剱の帽子」の雪田へ出たときの安堵感は忘れない。山頂に近づくと剱山荘で同宿した人たちがすでに休んでいて、思いがけない方向から板を担いで登ってきたぼくを拍手で迎えてくれた。

剱岳山頂から北方稜線へ向かって岩場を下ると、長治郎谷左俣の頭(コル)へ出る。あの時期、残雪は多く、すぐそこまで長治郎谷の雪渓が迫っていた。本当のところはどうだったのか知らないが、測量隊が登頂に先だち、雪渓上部に集結している場面は、実際にあのコルで撮影したのではという印象をもった。

板を付ければあとは、滑るだけ。用心はしたが6月頃だとシュルントがでることはほとんどない。さして上手くもないスキーでよくもあの斜度と距離を滑ったものだ。雪面は悪くなかった。すでに登りで腿に相当疲労がきていて数回立ち止まりはしたが、無事に剱沢まで滑り降りた。滑りの快適さ、達成感、終わってしまった寂しさが錯綜する。登りは半日かかっても下りはあっという間だ。しかし、剱沢の出会いから小屋への登り返しは地獄だった。朝取り付いた平蔵谷出会を通過して同じルートを戻るわけだ。数歩登っては息を整えないと足があがらない。そんな経験はこのときがはじめてで、本当に“バテる”とはこのことかと、その登りで実感した。

前の晩は、悪天がつづいてヘリが飛ばず食料が不足していた。そのせいで、いくら山小屋でも、これはないよという夕食だった。2日目の晩は一変。ヘリで届いたばかりのキトキトの刺身が出た。宿泊客も少なかったし、前日の埋めあわせもあっただろうが、あれは美味かったなあ。

  
   
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