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加藤周一の洗礼 2009年10月23日

KI兄へ

貴兄のメールで加藤周一がクリスチャンの洗礼を受けたと知り意表を突かれました。しかし、彼に対する畏敬の念には何の変わりもない、とも申し上げました。

先ほど資料を探していて、朝日夕刊『夕陽妄語』の切り抜きを二片見つけ読み直しました。切り抜いてあったのはこれだけですが、いずれも追悼文で、ひとつは@辻邦生へ、もうひとつはA鶴見和子とシュヴァルツコップフへのもの。辻邦生への文章は確か、貴兄とFAXでやりとりした憶えがあります。たった二片残しておいたものが、ともに人の死に関する文章というのが、われながら意外でした。はじめて読んだときと同様、@には失った親しい知人に対する染み通るような哀惜の念が感じられます。またAでは、痛切な喪失感に駆られて「なぜ死に抵抗するのか」を考察しています。

@辻邦生、キケロー、死A随筆 何くれとなく

これらをいま読み直してみて、彼が最期にクリスチャンの洗礼を受けたことが、暗示されていたのでは、との印象を受けました。

それは、@の下記キケローの言葉

「生きているかぎり、私は私にとってかくも優しいこの《誤り》を奪われることに抵抗しつづけるであろう」

…と引用し、彼自身の解釈として、

「本当の問題は、その説が正しいか、誤りかではなく、彼自身にとっての必要性だというのである」

…と書いているからです。

またAでは、「唯一の普遍的価値が生命そのものだろうことを示唆する」として、「死」を「生の否定」と定義しています。

しかし、「生」はきわめて複雑で、それを定義する…ことは困難である。しかし遅かれ早かれ死が避けられないことだけは確かである。

要するに「生」がよくわからなければ、それによって定義された「死」もよくわからない。では、よく分からないことに対して、人はどういう態度で臨むかと設問し、2つの可能性を示しています。

@    宗教的態度     「死」は他界への移動 → 彼岸、浄土、天国

A    論理的態度     わからないこと「死」については判断を停止する(孔子、ヴィットゲンシュタイン)

加藤周一は、Aの判断停止に対して「凛然として明快な宣言には、一種の爽やかさがある」と羨望のまなざしを送っています。ここから、また、先のキケローの解釈から、彼は、自身の論理的な帰結ではなく、心情のありかたとして@の立場にあったのではないか、と推測できるような気がします。加藤周一にとって、宗教は正しいか、誤りかではなく、また、論理が整合するか否かではなく、彼自身にとっての必要性だったのではないでしょうか。

  
   
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