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白河、白水、勿来 2009年12月16日

山仲間と年末恒例の日だまり山行。12〜13日と、一泊で那須へ出かけたが、天気が思わしくなく、山は中止して、観光旅行で終わった。

白河の関

白河の関跡は、田圃の中の小さな丘の麓にあった。周囲は関連の開発で観光スポットの体裁をなしているが、それがなければ通り過ぎても気付くまい。芭蕉→奥の細道→白河の関の連想で名前を知っているくらいだが、解説版によると歴史は古い。これもまた、意次→定信と連想する松平定信が調査する(1800年頃)まで、関所跡の位置さえ判然としなかったという。江戸時代の関所ではなく、7〜8世紀、まだ東北が蝦夷の勢力圏であったころの最前線の防衛拠点だ。

白河の関

定信の建てたという『古關蹟』の石碑の脇から参道がのびていて、丘の上に白河神社がある。

白河神社へ白河神社 拝殿
本殿土俵の跡

『由緒』には式内社とあるが、この日本語なかなか難解? 文言明晰にして意味不明。大相撲の二所ノ関の由来など書いてあり、境内に土俵の跡もあるのでもっともらしいが、どうもよくわからない。

白河神社 由緒

拝殿の南側に空堀とそれを巡る土塁の跡がある。神域全体は鬱蒼とした杜の中だが、落葉高木が散在しているので、冬枯れて光りを通す。その落葉が敷き詰められた土塁の散歩はなかなか楽しい。

土塁から神社空堀と土塁

なかでもすっかり葉を落とした大木が何本かあり、その周囲にミズナラ様の形状でカシワのような大きさの落葉が降り積もっていた。 つまりこれはナラガシワかと類推してあとで調べたが正解だった。

ナラガシワ葉の大きさが分かる
板根状になっている樹皮

それと樹齢800年という『従二位の杉』は圧巻。二本の杉が合体したようにも見えるが、日当たりの良い丘の縁にあって、これからも長い寿(樹)命を全うするだろう。

従二位の杉

白河(小峰)城跡

小峰城(通称、白河城)はJR白河駅の近くにある。阿武隈川はこの辺りで北にふくらみながら西から東へ流れている。その南岸の丘陵地帯に城郭は築かれている。遠望すると、再現された三重櫓(本丸?)は、定規を当てて青空から切り取ったように整然とあるが、置かれただけの積み木のように存在が希薄である。三重櫓の上まで登れるようだが、見張り番のようなオバサン達がいたので中には入らなかった。

小峰城 再現三重櫓遠望 
三重櫓の中も見学できる

白水阿弥陀堂

以前、町会の旅行で行ったことがあるが、まだ寺社建築にそれほど興味も知識もなかったころで、かねがねもう一度観てみたいと思っていた。平安末期の木造建築をそのまま残す国宝である。

→下山眞司氏「建築をめぐる話・・・・・つくることの原点を考える 」 記事1記事2

マップ

小さな橋を越えて寺域にはいると、一直線に延びた参道の遙か正面に宝形造りの屋根が見える。数百メートル手前の駐車場に車を止めて、あとは参道を歩く。参道の右側に広い芝生公園を見て、朱塗りの橋を渡って境内へ。阿弥陀堂の周囲に池を巡らせ、背後にさほど標高のない経塚山が横たわる。近くまで人家が迫っているようだが、ここまで来ると視界には入らない。浄土式庭園の典型的な風景が、当時のままに再現されているようで心地よい。

木立の緑を背景に、宝形造りの柿葺きのなす水平な線を、緑青を吹いた下り棟の曲線が限っている。そのどっしりした屋根を、漆を掃いたような焦げ茶の板壁が支える。創建当時は色鮮やかな彩色に塗り込められていたはずのお堂だが、われわれにとっては現在の姿が好ましい。

白水 願成寺阿弥陀堂

古建築に興味があると、どうしても軒下が気に掛かる。とくに斗栱(ときょう)の出組(でぐみ)や垂木(たるき)の構成に目が向く。詳細は、記事1、2にまかせるにして、二軒(ふたのき:二段構成の垂木)の上段(飛檐垂木-ひえんだるき)の曲線の柔らかく優しいこと、その印象は下山氏の「非常に繊細で優美、洗練された穏やかな形」の表現につきる。

飛檐垂木の優雅な曲線

堂内に入ると、中央に阿弥陀三尊と、左右に四天王のうち持国、多聞の二天のみが安置されている。以前、来たときに訊ねてみたが、なぜ二体だけなのか今となってはわからないという。拝観者が少しまとまったところで、お坊さんの解説がある。仏像はおくにしても、「折り上げ小組格(ごう)天井」と呼ばれる天井の構成は撮ってみたかったが、お堂の内部は撮影禁止。かつては極彩色に荘厳されていたであろう天井、欄間、周囲の壁面はくすんだ茶色に静まっている。黒く沈潜する阿弥陀像と対比的に、その左右で、伎楽面酔胡王もどきの表情で袖を躍動させる四天王二体が印象的だった。

勿来の関

今回は白河に次いで勿来、これで安宅をおさえれば、“関ずくし”も極まるが、あちらは日本海、そうもいかない。海岸沿いの6号から右折して常磐線のガードをくぐり、急な坂を登ると、ミニチュア寝殿造りの『吹風殿』や文学歴史館、土産物屋などのある一画に辿り着いた。この辺りだろうと、吹風殿の前の駐車場に車を入れた。以前、訪ねたことのある友人もあまりに変わりすぎてわからなという。

とりあえず、吹風殿(すいふうでん)を一巡し、周囲を見わたすと、“関所跡はこの先300m”の看板がある。車を置いてしばらく下ると、義家の騎馬像との大きな石碑があった。白河の関のように地形的な特徴が残っているわけではなく、いまでもその所在は諸説あるらしい。われわれは車道を歩いてきたが、ここから稜線通の松並木を文学歴史館まで戻ることができる。帰り道の左右には、茂吉など多くの句碑が並んでいた。文学歴史館は覗かなかった。

ミニチュア寝殿造り『吹風殿』『奥州勿來關趾』の石碑と源義家騎馬像

『奥州勿來關趾』の石碑を撮ったところで、携帯の電池が尽きた。

本日はこれまで。

  
   
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