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府馬の大クス 2010年1月30日

浜風散歩の場所探しには、近隣の観光案内サイトを手がかりにする。いくら探しても、なかなか食指の動かないこともあるし、簡単に決まることもある。今回は、後者。“府馬の大クス”という文字にひかれて、写真を見たらたちまち実物を見てみたくなった。

マップ

場所は香取市。JR小見川駅(初代松本幸四郎の墓があるというので、佐原の大祭のおりに下車したことがある)から4キロほど南の丘陵地帯にある。一番簡単なのはわが家のそばを走っている県道を南下し、そのまま国道242号に接続して進めば、ほとんど直線的に到達する。しかし、それでは延々と車の騒音と脅威にさらされつつ、なおかつ排ガスを呼吸しつつ延々とペダルを漕ぐことになる。

今回は、鹿島神宮までは県道を利用し、そこから北浦へ下りて鰐川の堰堤道路を利用することにした。息栖神社に行ったとき利用した経路だ。鹿島神宮駅の手前から鰐川へ出る途中が結構面倒で、もうすこしルートを調べる必要を感じたが、鹿島神宮一の鳥居をくぐって堰堤へ出ると騒音から解放されてほっとする。朝方は雲が垂れ込めていた空がいまは晴れ上がって、視程はいまいちだが風はない。浜風漕ぎは快適である。息栖神社のときは、鰐川から堀割川に引き込まれ、そのまま堰堤道路の一部をショートカットしてしまったが、今回は堀割川の橋を渡ってから引き返し、忠実に鰐川の流れに従った。途中、早めに弁当を仕入れておくために迂回した以外は堰堤道路をたどった。

息栖大橋で常陸利根川を越え、小見川大橋で利根川を越える部分は車と並走せざるをえないが、利根川を渡ってしまえば、また静かな道が選べる。といっても、落とし穴があって、この付近は利根川の支流の黒部川が利根川と並行していて、これを渡りそこなうとえらく遠回りをさせられる。小見川からは県道28号に従って利根川の沖積平野をさらに南下すると丘陵地帯へ到達する。そこが「茶畑」というのんびりした名前のバス停で、ここから県道は丘陵へ入っていく。浜風はここで県道と別れ、丘陵と平野の境界を東に迂回する地方道へそれる。車の通りはめっきり少なくなり、まもなく道路右手に「大クス専用駐車場」が見える。車は一台も止まっていない。

駐車場の案内駐車場から利根川方面を望む 広大な田圃

浜風を駐車場に置いておくか少し迷ったが同伴することにした。道路脇の人家を抜けると、じめじめした山道の急登になる。沢筋を無理矢理通路にしたのだろう。水が溜まって苔で滑りやすい階段を、浜風を押し上げた。薄暗い谷間を抜けると、ぱっと視界が広がって、真新しい園地に飛び出す。大クスのある丘の頂き付近を切り払って公園を作ったようだ。案内にも大クスを目玉に地域振興を狙ったと書いてある。

 
「大クス展望公園」 わが昼飯用のテーブル 正面左側の茂みが大クス

大クス展望公園は、地元の意図とはうらはらに人影もないが、こちらにとっては、もっけのさいわい。先週の涸沼に続いて、最高の昼飯場に恵まれた。全体の配置からするに、いま上って来たコースは実は裏口。写真の奥に見える大クスの根本に宇賀神社があり、そちらが表玄関。大クスは宇賀神社のご神体になっている。ザックを置いて大クスを拝見。

大クス、子クスの解説宇賀神社 奥の木立が大クス

タブノキとクスノキの違いくらい素人でも分かるはずで、地元では俗称のイヌグスを略して“大クス”と呼んでいたのだろう。鹿行地方でいろいろな古木を見てきたが、ちょっとこのタブノキには負けるね。何本かの補強材が見えるが、古樹は“支えなんざあ、しゃらくせーわい”と独りごちているようでもある。一見して、満足。今日の目的は達成。

 
府馬の大クス
一本の木であろうか?

大クスの北側には、垂れた枝が着生して、後に独立木になった子クスもある。すごいねえ、植物の生命力は。

 
子クスとはいえこの貫禄
 
 展望台から利根川方面を望む

昼食のサンドを泡で流し込みながら、地図を見直してみた。どう見ても、地図にある「府馬の大クス」の位置が大きく違っている。使用しているMapfanの地図では、下の駐車場から少し離れた位置に「府馬の大クス」の記号があり、大分離れて宇賀神社がある。しかし、クスは神社の境内にある、あるいはクスの根元に社がある。地図上の位置としては神社が正しい。恐らく地図の作製者は、府馬の大クス用の駐車場の位置から、適当に判断して「府馬の大クス」の記号を打ったとしか思えない。神社の参道側は車道が通っていて、狭いながらも境内脇に駐車スペースがある。地元の勝手を知った人は、そちら側から公園へ入ってきていた。ちなみに、YahooやGoogleの地図もチェックしたが、それぞれに間違っている。

最初の目的が成功したので、あとはおまけ。

愛宕神社

昼食後、浜風を鳥居へ廻し、地図で真南にある愛宕神社へ向かった。宇賀神社から坂を下り、その南側の別の丘の頂に愛宕神社がある。軽い気持ちで上りだしたが、えらく急登。高度差は東京の愛宕神社の階段よりありそうだ。思いがけない立派な神社だった。おいおい分かるが、この辺り、しらみつぶしに神社を見ると、一日かかっても1キロ四方を抜け出せないだろう。

愛宕神社拝殿

この神社、拝殿が北西を向いている。ここも丘の頂で立地的な制約はないから、何か理由があるのだろう。

由来 創始は定かでない……
神楽の由来神楽殿

本殿の造りがえらく凝っている。

 

やや神経質に造り込み過ぎの感なきにしもあらずだが、相当精緻な木彫・木工に見える。

おおえらく凝っていますねあやや、目が疲れそうだ

巧緻な細工に恐れ入って社前を辞す。

では失礼 急でしょう 曲垣平九郎もいかに

近くにもう一つ、修徳院という天台宗の寺があったが、外から眺めただけで失礼した。

次に目指すは阿玉台(あたまだい)の貝塚遺跡(複数)。利根川流域で最大規模の貝塚の遺跡だという。阿玉台は、大クスのあるこの丘から2キロほど北東の別の丘陵地帯になる。その間に、広い田圃が広がっている。広々とした田圃を横切っていると、見かけない鳥がいたので浜風を止めた。光沢のある暗い緑の羽根と、噴水が吹き出したような鶏冠が珍しい。写真に撮れなかったが、タゲリである。はじめて見た。

編玉神社

田圃から丘陵地帯へ移って、適当に坂を登っていくと編玉神社があった。読みはわからないが、編玉=阿玉なのか? この神社の神木はクスノキだった。鹿行地方にはクスノキが少ない。ないことはないだろうが、これまで見たことがなかった。鹿行地方とはわずかしか緯度が違わないが、影響があるのか。

編玉神社
編玉神社 拝殿神木 この樹皮は間違いなくクスノキ

編玉神社から、以下、阿玉台貝塚、来迎寺、豊玉姫神社、良文貝塚と訪ねるが、これらはみな同じ山道の、ほんの1キロほどの間に点在している。

阿玉台貝塚(縄紋中期)

路傍の看板脇から、暗い木の下道を上ると、明るい丘の上に梅林があって、墓地が広がる。梅林の中に木道が通っている。貝塚の碑があるので、ここであることは間違いないが、どこに貝塚があるのかはっきりしない。

なお、この墓のなかに、千葉氏の開祖、千葉良文(平良文)の墓もある。この一帯が、大和から当地に赴任して、そのまま土着した千葉氏の発祥の地なのか。

墓と梅林 右側の石碑に国指定史蹟阿玉台貝塚とある

木道に誘われるままに、まだ花数の少ない梅林を散策して帰りかけたところに、墓地に軽自動車が入ってきた。お年寄り(失礼、多少先輩)が降りてきたので、声を掛けたが返事がない。無愛想なことだと思ったが、勘違い。少し耳が遠いらしく、気配で気付くとにこやかに挨拶を返してくれた。貝塚のことを訪ねると、わかりにくいだろうが、ここにあるんだと、斜面をどんどん下りてゆく。その斜面の階段やわきの草地に、白い貝殻がたくさん散乱していた。

説明のために土器を探す階段は貝殻だらけ
草地にも貝殻老人の探してくれた土器

老人は、土器の泥を落として日にかざし、キラキラ光るだろう、それは雲母だという。確かに濡れた泥の表面に細かい輝点がいくつか見える。あとで調べると、ここで発掘された土器の様式を阿玉台式というのだそうで、雲母を混ぜるのは土器を焼いたときの圧縮率を低下させるための工夫らしい。

この辺り一帯の梅林も、遺跡の保存のためだけに状態を維持するだけではもったいないと、あとから地元の人たちが植えたのだそうだ。雑談を交わしながら車に戻ると、老人は箒とバケツを取り出した。墓参りですねと訊ねると、意外な応えが帰ってきた。この辺りはみな神葬祭だという。じつはうちも神道ですと返事をすると、この辺りは明治2年に集落全体が一斉に神葬祭に変わったとつづける。それもわが家と同じだ。明治政府が神道を手段に一種の思想統制を計ったのである。一斉改宗には、おそらく、当時この地を支配していた藩主や地域の有力者の意向が反映しているだろう(廃藩置県は明治4年)。偶然の出会いから面白い話しが聞けた。改宗の委細まで触れるとまた長くなりそうだったので、礼をいって別れた。

参考 仏式では位牌に相当するものを神式では霊璽(霊の名)という。白木の札に生前の名前を書き、その下に男は“大人(うし)”、女は“刀自(とじ)”を付ける。この木の札に、やはり白木のケースを被せて、祭壇に置いて祀る。わが家では墓碑にまで大人、刀自はつけていないが、この墓地の墓碑は、軒並み“刀自”か“大人”、あるいは“翁”が付いていた(翁を付けるというのははじめて見た)。

神道の墓碑 女は刀自、男(右石碑)は大人か翁
墓前に 供えてあるのは榊

来迎寺

道路から一段下がった参道を進む。小鳥が参道脇の植え込みに見え隠れする。こっちが歩くと、その分だけ、山門に向かって遠ざかるが、逃げ去ることはない。まるで案内してくれるようだ。よく見るとルリビタキだった。家の近くでも一度だけ見たことがある。山門の階段に至って植え込みが途絶えると、薮の奥に消えた。

来迎寺の参道
浄土宗 来迎寺山門本堂

この寺も明治2年には相当な被害を被ったはずだ、などと思う。軒下を見ると新しく張り出した部分がある。おそらく茅葺きを現在の姿に造り替えるときに、付け足したようだ。中にはまだ萱が詰まっているかもしれない。

山門鐘楼

豊玉姫神社

こちらも道路から下る。それも大分脇道にそれて、200mほど下った広場から、カギ状に折れ曲がって神域にはいる。参道を進むときに、最初から拝殿を直視せず、向き直ってはじめて対面するという形式はよくある。例えば、香取神宮がそうだし、思えば鹿島神宮もそうか。靖国神社のように、わきめもふらず一直線ってのもあるがね。

本殿こちらも凝ってますなあ

写真を見ると神社の屋根を装飾する千木の先端が垂直(外削ぎ)になっている。普通、女神は水平(内削ぎ)になるが、これも諸説あって混沌。

良文貝塚(縄紋後期)

途中で気付いたのだが、このあたりの字がそもそも「貝塚」なのだ。車道から少し脇に入った所にあるので、大分行き過ごして引き返した。

この説明板は、豊玉姫神社の入口にあり、貝塚全体の分布が広いことを示す
 この斜面一帯が貝塚

斜面の段差の一画にアルミのドアがあり、それ自体は開かないが、その窓から保存された貝層が見える。窓ガラスが黴びて、極めてわかりにくいが、ネットの奥に貝殻が詰まっていた。

石碑の根本に白く見えるのは貝殻
拾い集めて象徴的に撒いたように見える
保存された貝層

以上で、帰途に就く。この阿玉台の山村の風情はなかなかいい。大規模な貝塚といい、千葉家発祥の伝承といい、風格ある寺社といい、この地が古来から人の住みやすい所だったことを示している。なだらかに続く山道に浜風を走らせていると、なにかそうしたゆとりのようなものが感じられた。残念ながら、鹿島は、ちょっと負けている。途中、樹林寺という禅寺もあって覗いてみたが、ここに載せるほどの印象はない。

県道265号でゆるやかに丘を下り、広い田圃の中を横切って小見川へ戻る。町中を走るのを避けて、適当に利根川へ出ようとして、黒部川に阻まれた。黒部川がコの字型に小見川の町を取り囲んでいるので、渡るべき橋を渡り損ねて、町中まで引き戻されてしまった。

同じ道を戻るのがつまらなかったので、利根川土手を遡行して佐原から利根川を越えることにした。大迂回になるが、霞ヶ浦・北浦と違って、堰堤に車を入れないのでのんびり走れる。途中、佐原まで利根川を渡る橋はない! 少なくとも地図上はそうなのだが、実は渡れた。小見川と佐原は12キロほどあるが、その中間に高速東関道が走っている。この東関道が渡れるのである。高速道の下に、ぶらさがるように歩道が付いていたのだ。たまたま通りかかった同年配のひとが、浜風を止めて考えていたこちらをみて、どこへ行くのかと声を掛けてくれた。そのひとの説明では、対岸の水郷・十二橋の人たちが、東関道の用地を譲るにあたって、利根川の架橋に通学用の歩道橋を付けることを条件にしたのだそうだ。これは渡ってみずばなるまい。

小見川大橋から麻生へ

東関道の上手すぐにJR鹿島線の高架が通っている。それに沿って十二橋駅方向へ進んだ。利根川と常陸利根川の間は日本離れした広大な田園地帯だ。地図で見ると、北を常陸利根川、南を利根川、西を横利根川に限られ、その中央を与田浦が流れている。道路はやや北西上がりの広い升目をなして縦横に走っている。十二橋駅の手前で与田浦左岸沿いに道をとり、与田浦が終わったところで、北西に向かう田圃の中の一直線の道をひたすら漕いだ。飽きるほど漕いで最後に横利根川にぶつかって、橋がないので常陸利根川までもっていかれた。常陸利根川の堰堤道路を北上していると、常陸利根川と横利根川の境の水門が開いて、通船するところだった。

青信号 水門が開いて船が横利根川へ赤信号 水門が閉じた

北利根橋を越えたところで、突如、わが家の味噌が少なくなっていることを思い出した。そういえば、麻生町に味噌屋がある(潜在意識は、逆かも知れない。麻生が近いという思いから、麻生の味噌屋を連想し、味噌の不足を思い出したか?)。わざわざ味噌を買いに麻生まで行くき気は起きないが、ここからなら霞ヶ浦を少し北上すればすむ。浜風を漕ぐのも大分飽きていたが、おかげで霞ヶ浦に沈む夕陽をたっぷり眺めながらの走行となった。

霞ヶ浦左岸から

麻生町の公民館の向かいにある「ヤマヨ」という味噌屋で麹味噌を2キロ仕入れ、夜道の山越えとなった。進路を東に取ると、今度は大きなお月様が昇ってきた。どうやら、今夜は満月。

北浦大橋東の長い坂道から

やれやれ疲れた。本日はこれまで。

  
   
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