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大内宿・柳津 2010年3月13-14日

旧居の町会仲間恒例の一泊バス旅行へ参加し、会津若松周辺の観光スポットを巡った。旅行といっても、主目的は宴会である。酒豪揃いだった仲間達も年相応に穏やかな飲み方になったようである。とりわけ珍しい場所を訊ねたわけではないが、記念に2、3紹介する。

会津若松というと宇都宮から猪苗代湖の北を西行するのがこれまでだったが、甲子温泉の奥に甲子トンネルが開通したので、白河から会津西街道へ抜けることができる。甲子トンネルからさきはまだ新しい道路で、塩原から会津西街道へのような曲折はなく、のんびり雪山の景色を楽しむことができた。

マップ

塔のへつり

凝灰岩からなる山体を大川(阿賀野川上流)が削ってできた奇観。以前訪れたときは、対岸へ渡って「へつり」をへつることができたが、いまは崖が崩落し歩道を埋めてしまっている。

展望台より対岸の橋詰め上に「虚空蔵」の岩窟がある

岩窟「虚空蔵」かってのへつり

大内宿・高倉神社

江戸時代の面影を残す会津西街道の宿場。完全に観光化しているので、一度見れば沢山という場所。しかし、以前、真夏に山仲間ときたときに、街道外れによい神社があった。その参道の木立の季節外れの病葉の印象が妙に新鮮に残っている。

大内宿大内宿街道脇の高倉神社鳥居
病葉のあったのは……あの鳥居の奥の木だったか

地元のひとが日参しているのか。観光客の足跡ではないだろう。

高倉神社

観光パンフレットには、“高倉宮(後白河法王第二皇子)”との因縁を書いてあったので調べたみた。Wikiによれば、第三皇子以仁(もちひと)王が高倉宮と呼ばれ(第七皇子は高倉天皇なのでややこしい)、源三位頼政らと謀って平家打倒の令旨を出している。ならばと平家物語を繰ってみると、巻四の「源氏揃え」に“一院第二の皇子以仁親王”が現れ、「高倉の宮園城寺へ入御」、「橋合戦」を経て、「宮の最後」で討ち死にしている。大内宿の説話は、貴種流離譚の一つか。パンフレットは平家物語の第二の皇子を採ったものだろう。なお、一院は後白河法王のことで、当時は上皇、法王が2人いると、先任者を一院と呼んだ。

拝殿

拝殿の奥に杉が見えるが、これがご神木のようで、樹齢800年とあった。大風にでもやられたのだろう皮の剥けた跡が痛々しい。

鈴が落ちてしまったようだ手で吊して叩くか?

賽銭箱の脇に鈴が置いてあった。???と思ったが、どうやらお祈りをするとき、鈴緒を振って鳴らす鈴が落ちてしまったようだ。

東から西から
屋根裏の組み物本殿

垂木などはみるから粗末で、上質、高価な材はまったく使われていないが、なぜか好ましい印象がある。身の回りのものを利用して精魂込めたのだろう。

柳津・福万虚空蔵尊 圓蔵寺菊光堂

このお寺は、只見川の崖の中腹の、狭い台地に建てられている。参道は川沿いに狭い道から階段を上がるのだが、近頃は車の参拝者が多いから、駐車場は崖の上の広いスペースにできている。したがって、上から境内へ降りることになるが、写真は下から順に紹介する。

只見川を背に……急な参道を上る
仁王門鐘楼
圓蔵寺菊光堂

このお堂、平入で左手に入口があるが、本堂内陣は左向き正面になっている。つまり、見えている伽藍の右側に仏壇がある。向拝をくぐって、本堂に入り、右手に向き直って虚空蔵尊を拝す(見えないが)ことになる。

妻面の唐破風と下層の組み物

このお堂の組み物や木彫は壮観。上層の三手先の組み物などは、これみよがしにも思えるが、不思議な安定感がある。

消えがてに福万の文字だれの奉納やら
境内から只見川を望む この少し下手(写真右手)で阿賀野川に合流する

町会の仲間に神社・仏閣などに興味のある同好の士はいないから、こんなお寺を観られたのは望外の幸運であった。

本日はこれまで。

  
   
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