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傾城反魂香 2010年7月16日

辺境に引きこもり「松門独り閉じて…清光を見ざれば」の情況であるが、歌舞伎のご招待があった。新橋演舞場七月歌舞伎の午後の部、眼目は吉右衛門の『傾城反魂香』である。もっけの幸い。遠路をいとわず馳せ参じた。景清と違って、こちとら、脂っ気が抜けたわけではない。本稿は、その感想を少々。

演目と配役みどころ

『暫』團十郎、段四郎

この芝居を観ていて“予定調和”という言葉が浮かんだ。すべてに極端なまでの様式化が進んで、もうこれ以上いけば崩壊するジュラ紀末の恐竜のようだ。立ち回りで何人もの下人のクビを撥ねるところなど、残忍きわまりない場面が様式化されて喜劇的ですらある。すべてが勧善懲悪の価値観に沿って“約束通り”に進む。この芝居の初演が元禄10(1697)年というから、江戸幕府の安定した政治が100年近く続き、儒教をベースにした階級的な道徳観が人々の根底まで染み渡っている。何のハラハラ、ドキドキもなく約束通りで満足という観客の評価は、そうした共通の価値観があってこそ成立したのだろう。それが現在のわれわれが観ても面白いのは、舞台の完成度が高いこともあるが、水戸黄門のTV番組がいまだに一定の人気を保っていることと通底するかもしれない。まあ、よくもこんなにバカバカしい芝居をまじめに作ったもんだとあきれながらも、結構楽しめるのだから、わたしも日本人である。

團十郎、花道でのセリフに力がなく、この先どうなることか案じたが、本舞台に立てばだんだんに調子も出て、それなりに鎌倉権五郎をこなしていた。大病が尾を引いていることもあろうが、彼の年齢で60キロ近い衣装で動き回るのはきつかろう。この手の芝居では悪役の清原武衡に存在感がないと、舞台が締まらない。どうも段四郎では役不足。しきりに、羽左衛門が思い出された。舞台中央にドシッと腰を下ろし、さほどのセリフもないのにそこに舞台の中心があるような存在感が懐かしい。

『傾城反魂香』吉右衛門、芝雀、歌六、歌昇、種太郎(歌昇息)

花道に出てくるなり吉右衛門、おどおどというか、ひょうきんというか、その所作と表情で又平の性格がすべて描き出される。主人公、土佐派の絵かき、ども又のモデルは岩佐又兵衛だというが、おそらく実在の又兵衛が土佐派の流れを汲んでいること以外は何の関係もなさそう。話しのポイントは石切梶原にも共通する(こちらも吉右衛門の名演で観たことがある)。筆一本で石の手水鉢に描いた自画像が石柱の厚さを浸透して背後に浮かび上がる奇跡と、刀一本で石の手水鉢を真っ二つに切り割る奇跡が重なる。ただし、ども又は、石切の重厚な梶原源太景時とはまるで正反対の役柄だ。そのどちらでも絶品の演技を見せる吉右衛門の力量には驚くしかない。というより、その芝居の前に何の想念もなく楽しんでしまった。

それにもまして驚かされたのは、師匠(歌六、思いやりと困惑を滲ませて好演)に石を沁み通す筆力を認められ、土佐の名字を許されたども又が、女房お徳の小鼓(これは芝雀が自分で打っていた)に合わせて舞う「祝いの舞」だった。吃音のもどかしさから喉元を掻きむしる又平が、舞い始めると一変して流れるような舞を舞う。見せ場だから当然なのだが、その舞の内容が歌舞伎のものとは思えない。例えば、歌舞伎の踊りでは、所作を決めるところで、しなやかに手を反らすが、吉右衛門はそうしないですっきりと直線的にさしのべる。能の仕舞を観る想いがした。岩佐又兵衛は絵かきとはいえ戦国大名の末裔だから仕舞の心得があってもおかしくないが、この芝居の設定ではむしろ町人に近い。それが突如、ぴたり、ぴたりと型を決めて仕舞のように(しかしより闊達に)舞うのだから、その意外さにビックリ。この芝居は、以前に何度か(実演は一度)観ているのだが、祝いの舞の場面があったことすら記憶にない。もちろん、当時はそこまで見えなかっただけなのだろうが。解説書のインタビューで、吉右衛門がこの芝居を演じて楽しいと評していたが、観ている方は、それ以上に楽しい。

『馬盗人』三津五郎、歌昇

三津五郎が演出し、自分も演じる舞踊劇。ぬいぐるみの馬が、演者とともに踊る奇想天外な舞台。馬が見事に立ち上がる場面まであるのだが、馬の頭はともかく、それを支える足は大変だろうなあ。今夜の芝居の最後を締める楽しい一番だった。

観劇後は近くの飲み屋で一杯となったのは、いうまでもない。招待いただいた友人に多謝。

本日は、これまで。

  
   
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