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江戸崎 2011年2月26日

今日は、前回の茨城空港とは逆に、霞ヶ浦の南に位置する江戸崎を訪ねてみる。“小江戸”などからの連想で地名にひかれたが、江戸とはほとんどが関係ない。ただ、この辺りの領主に旗本が多かったというのが多少のつながりか。個人のページらしいが江戸崎まちなかガイド(笑遊館)というサイトが参考になった。

地図で霞ヶ浦の南岸(右岸)を見ると、その中央に大きく陸地へ湾入するカ所がある。その湾入部の先端に小野川が流れ込んでいて、その河口に江戸崎の町が位置している。稲敷市役所があるのだから、ここが稲敷市の中心となるようだ。また、江戸崎へ行くには途中、浮島を通るが、ここには以前から行ってみたかった景行天皇行在所跡がある。

→ マップ 高度補正+約100m

今日は天気は申し分なし、昨日の春一番から一転冬に戻ってはいるが真冬の厳しさではない。服装も少し軽めにした。稲敷大橋までは霞ヶ浦右岸の堰堤道路を進む。順風だから快適である(帰りは怖いが)。

霞ヶ浦右岸南端鹿行は養豚が多いがこの辺は養牛?

稲敷大橋から先は未知の世界。県道206号にからんで旧道、農道などを選んで西に進む。206号はあまり走りたくない道だが、それと並行して農村のなかを通る旧街道は浜風好み。

宗船寺

旧街道沿いにあった禅宗のお寺。

ウメも見頃の静かな境内
ヘビはスクナヒコナ(淡島さま)の使い
ホトケノザオオイヌノフグリ

旧街道を抜けると浮島の中心地帯へでる。そこではじめて浮島の意味に気づいた。右手には霞ヶ浦の大きな水面が横たわっているのはわかっているが、左手をみても広大な湿地帯になっている。左右どちらを見ても水面なのだ。左の湿地帯にも水が満ちていたころには、浮島はまさに浮かぶがごとき光景のなかにあったろう。残念ながらいまでは、そう想像するしかないのだが。

小野川手前で206号が南下するのを見送って直進し、「信太古渡」で小野川を渡る。この地名は読めなかったが“しだふっと”という。あとで調べてAtokでこの読みを変換させると正しく出るのには驚いた。昔から霞ヶ浦右岸の往来に重要な渡河地点だったのだ。信太古渡を渡ってから広大な田圃の畦道を南下する。もともとここは見わたす限りの湿原だったものを、これから訪ねる旧大日苑の主がリーダーとなって昭和初期に開拓した。

最初に選んだ道は失敗だった。延々と砂利道で楽しくない。しばらくして走り飽きたので、大きくそれて一本右の舗装路を選ぶ。砂利道より幅は狭いが楽ちん。地図では広い長方形の区画に仕切られて縦横に道路が走っているが舗装、未舗装の区別までつかない。

長い砂利道 右手に舗装路が並行していた

開拓地が終わって市街地へ入るとすぐに管天寺がある。背後に山を控えた本格的な寺の配置であり、江戸崎城主土岐家の菩提寺だというが写真を撮る気にはならなかった。

旧大日苑

管天寺の北の高台に大日苑がある。周囲に木立が茂って見晴がきかないが、昔は、いま浜風が走ってきた開拓地を一望できたはず。大日苑の旧当主は人生を賭けた成果である開拓田を見下ろして後半の人生を送ったのだろうか。ちょうど雛祭りのイベントで邸宅内の各部屋に雛壇が飾られていた。

大日苑門大日苑 左は日本家屋

昔の個人住宅によくある和様折衷様式。公的部分は洋館で私的な部分は日本家屋。

玄関日本家屋座敷
一階座敷二階広間 木がなければ開拓地が一望

フルートの神崎愛は旧当主の孫娘にあたるとのことで、家族関係の写真やコンサートの案内が貼られていた。

不動院

旧大日苑の山から町中へ下る道が南北の目抜き通りになる。大日苑から500mほど下った右手、一段高いところに不動院の仁王門がある。そこからえっちら階段を上ると、また細い車道があり、その先に不動院本堂があった。

醫王山不動院仁王門 醫王山暮雪
不動院 関東八檀林の一とある不動院からの眺め 暮雪むべなるかな
不動院

目抜き通りの賑わいの初っ端に、冒頭で紹介した笑遊館がある。店の前に行列ができていてなかはオバサンばかりでごった返している。ジジイはたじろいでしまった。雛祭りで観光客を呼び込むのは最近の流行のようで、商店街の店はどこも商品のスペースをさいて雛壇を展示し、そうした店を紹介するパンフレットが用意されている。しかし、表が開いているのは笑遊館だけ。他の店はガラス戸を締めていて、それを開けてまで見たいという気にはならない。町を見通してもガランとして車が通るばかり。ときおり、パンフを手にしたオバサン連とすれ違う程度だ。

江戸崎の……目抜き通り

鹿島神社

そのまま通りを進むと右手に鹿島神社があった。江戸崎の祇園祭りも有名らしく、鹿島神社はその主催神社の一つ。これは昼場によさそうだ。とうに昼は回っていた。道路脇で荷物の積み卸しをしていた若い人にたずねて、コンビニでサンドと泡を仕入れ、神社に戻った。

鹿島神社昼場

前回の茨城空港とは違って日射しは燦々、風もほとんどないし、第一ちゃんと泡もある。絶好の昼場だ。参拝に来た年配のご婦人が、「いい日和ですね」と声を掛けてくれたくらいで、ほとんど境内に人影はない。

拝殿本殿

社殿の脇に奇っ怪な古木がそびえている。幹にある札には「モクツキ」とあるが樹木の和名にそうした名前は聞かない。“ツキ”は“槻”だろうから、ケヤキをこのあたりではそう呼んでいるらしい。

ケヤキその根
モクツキ?

瑞祥院、五百羅漢

昼のあとは道路を隔ててすぐ北側の瑞祥院を訪ねた。

虚空蔵堂力強い虹梁

さしたる印象もなく浜風に乗ろうとして、もう一度案内板を見ると、裏山に「五百羅漢」像があるという。境内の東側の小高い丘の上にある金比羅堂から迂回して羅漢山へ。

金比羅堂 展望よし金比羅堂の奥から続く竹薮の道

竹薮の果てたところ、羅漢像の群落?があった。まさに羅漢山。手帳を片手にしたご婦人連が大勢いたので吟行でもあるかとおもったが、どうやらスケッチしているらしい。気に入った羅漢さんの前に立ち、その表情をのぞき込んでは筆を動かしていた。絵画教室のようだ。

気に入った羅漢をスケッチする婦人連モデルは選り取り見取り
羅漢山眺望
なにが面白いのかのお?
山頂を埋めつくす……羅漢群像

うっかり見過ごすところだった羅漢山、本日最大の収穫。

大念寺

さらに北行すると大念寺がある。

大念寺楼門こちらは関東十八檀林

徳川家縁の寺らしい。

さきほどの不動院は関東八檀林、こちらは関東十八檀林。どうなっているの? ……ってことで檀林について調べてみた。檀林はお坊さんの学校である。それは知っていたが、宗派によって教えも違うから、檀林も宗派ごとに違う、という当たり前のことだった。つまり、不動院は天台宗の、こちらは浄土宗のそれであって、八つと十八の違いはそこからくる。関東十八檀林は芝の増上寺を筆頭に江戸時代に制定されたもので、時代的には新しいが知名度は一番高いかも知れない。

ついでに、檀林の語源についても調べてみた。広辞苑によると檀林は栴檀林の略として、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(檀林皇后)の発願による檀林寺(平安時代、日本最古の禅寺)に始まるが、学問所を栴檀林と呼ぶようになったのは室町末期だとある。しかし、栴檀林がなぜ学問所と呼ばれるようになるかは書かれていない。

一方、ブリタニカの小項目辞典では橘嘉智子は、檀林寺を開いただけでなく、出自の橘氏のために学問所を設けたとある。檀林寺内かどうかは知らないが、これでなんとなく栴檀林と学問所の関係は推測される。ただし、ここでいう栴檀は植物の和名センダンではなく香木ビャクダンのこと。栴檀は双葉より芳しの栴檀である。広辞苑には、栴檀はサンスクリットでcandana(旃檀那)とある。栴と旃の違いや那の省略はここではおく。

それは別に、栴檀をWebで検索すると、なんとかの龍樹(ナーガールジュナ)の大著『大智度論』「巻第二之上」のなかにあって、勝手に要約すれば“仏の教えはよく香る栴檀のようだ”とするカ所がある。とにかくインドではこの香木を「よきこと」の象徴とする風土があったようである。その他いろいろ見てみると、香しき栴檀を仏の教え、あるいは、仏への帰依の象徴としていたものが、しだいに信仰を具現する僧を栴檀に例えるようになり、さらに、そうした僧が集り仏法の修得に励む場を栴檀林というようになった、の道筋が見えてくる。まあ、これがいまのところの解釈。

それにしても、いまの中東情勢ではないが、Webの威力はすごい。以前なら、こんないい加減な調べで、大智度論の中身まで引用できるとは想像もできない。ただ、Webの情報の真否はつねに検証の余地があり、大智度論そのものも、あんなに膨大な論書を個人でものせるか疑問もあるとか。

閑話休題。

大正橋

町の東側、小野川に架かる橋で、大正元年に架けられ、いまは三代目だという。今年は大正100年にあたるから、というわけでもないが訪ねてみた。

大正橋…から小野川下流方面

これで江戸崎訪問の目標はほぼ達成。まだ見たいところもあるが、それは次回にして帰途につく。来るときは小野川左岸からだったので、帰りは大正橋を渡って右岸から戻ることにした。

帰り道 県道206号と並んで霞ヶ浦南岸を走る

景行天皇行在所遺跡

行在(あんざい)所跡は、県道206号脇の小さな丘の上にある。

この階段の上へ

わずかの距離だが急な階段を上がる。浜風を漕いていると気づかないが、階段を上ってみると相当、脚に疲労が来ている。

丘の上 何もない?景行天皇行在所遺址

上まで上っても踏み跡だけで、何もない。しばらく眺めて、石碑が木立の陰にあることに気づいた。これで念願達成。

また余談になる。この遺跡がそうと知られるのは解説板にあるとおり、『常陸国風土記』「信太郡」(さきの「信太古渡」もこの時代からの地名なのだろう)の条に記載があり、地元にもそれらしき言い伝えが残っているからだ。解説にも、実の子ヤマトタケル(小碓命ーオウスノミコト)を追慕してここに30余日滞在したとある。しかし、古事記などに見る限り景行が小碓を愛していたとは思えない。ちょっと注意をしてこいと命じただけで、兄の大碓を惨殺してしまった小碓の性質の荒さを父は嫌っていた。ろくな兵力も与えずに熊襲、出雲、東の十二国と日本各地の征伐を休む暇もなく命じる。小碓も“天皇はわたしに死ねと思っているのか”と嘆くほどである。結局、遠征がもとで小碓は命を落とすのだから、景行にとっては思うつぼであったはず。それを、わざわざこの遠国まできて追慕するのは奇妙…………とまあ現代的なセンスでは思えるのだが。

来がけに覗いてよさそうだったので、浮島の農産物直売所へ寄って、この辺りの農産物を買い込んだ。たいした量ではないが、へたった脚にさらに負担が増したことはいうまでもない。案の定、往路の順風は帰路の逆風であった。

本日はこれまで。

  
   
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