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馬籠宿・高山・白川郷・五箇山 2011年6月25-26日

震災で中止になった旧町会仲間のバス旅行が復活した。以前の予定は3月12日からで、前日に、つまり震災当日に東京へ出ていたのでフォースト・ビバークをよぎなくされた。そのときは伊豆が目的地だったが復活計画では高山と白川郷になった。観光は二の次で長時間宴会が眼目のような旅だから、どこでもいいのだが、伊豆よりは高山のほうがいい。白川郷はまだ見たことがなかった。

東京近辺から高山が一泊旅行の標的になったのは安房峠の下にトンネルができたからだが、なんと出発の前々日に土砂崩れでトンネルへのアクセスが断たれた。ただ、震災と違うから遠回りを覚悟すれば目的は達成できる。というわけで、中央高速で中津川まで行って下呂経由という大回りになった。帰りは日本海側経由で戻ることになる。

馬籠宿

ここは山仲間と中央アルプスを縦走した帰りに妻籠宿とともに訪れている。宿場というより急な坂沿いに並ぶ土産物屋を見るようなものだが、町会の仲間が以前来たときに藤村の記念館がよかったというのでぞいてみた。前回は藤村の生地とはまったく意識していなかった。

馬籠宿の南端で食事を済ませて急な街道を上ると宿場全体の中間部に旧本陣(藤村生家)がある。その手前で西に入っていったん下って、向かいの斜面を上ると島崎家菩提寺の永昌禅寺がある。

島崎家菩提寺 永昌禅寺
左は永昌禅寺 右は現在の車道へ抜ける三門
永昌禅寺 本堂

寺の前の斜面に狭い段々畑のように墓地が階層をなしている。

島崎家墓園 右端が藤村の墓石

藤村記念館。通常、有料の施設には入らないが小用をたしたかったのでのぞいてみた。展示施設は谷口吉郎の設計だが、隠居所は復元したものらしい。とはいってもこの簡素で直線的な構成はモダンで旧来のママだとは思えない。

左 本陣隠居所奥が本陣? 手前が展示施設

隠居所が藤村の勉強部屋。ここで国学者であった父から四書五経の素読が課せられたという。意味も分からず暗誦するだけだが、この有効さが実感されるのは歳をとってからである。わたしも父からわけもわからぬ論語を強要されて嫌々暗誦したが、いまだにそのとき憶えた語句はすらすら出てくる。

身体髪膚これを父母に受く…………もって父母の名を顕すはこれ孝の終わりなり。

還暦を機に長恨歌だの帰去来の辞だの高市皇子の挽歌だのとやたらに長いのを暗誦してみたが、一時過ぎるとすぐに忘れる。ははは。

藤村が倒れて、その最後につぶやいた言葉が「涼しい風だね」だったとはいろいろなWebページにある。いいねえ、このつぶやき。なんだか藤村を読んで見たくなったぞ。

高山・上三之町

以前訪れたときはそれなりに感銘があったが、今回同じ保存地区を見てもさっぱり。この手の観光地は一種パターン化してしまってどこも似たり寄ったり。土地のひととの触れあいが面白いNHKの旅番組を見るようなわけにはいかない。

上三之町宮川 左手が上三之町

端から端まで歩いてみたが載せるほどの写真はない。

高山の町中のホテルに泊まって宴会。いってみれば、これが旅のメインイベントである。笑顔をたやさない娘さんたちの給仕をうけて一杯。ほどほどのところで仲間の寸劇があって爆笑。それからカラオケとどこにもある宴会風景だが楽しい時間が過ぎて行く。

白川郷(26日)

今回は梅雨の最中で予報もよくはなかったが、移動中は降っても、観光地を歩いている間に雨は遭わなかった。東海北陸道から降りるランプの温度計が33度を示していて、これは参ったと思ったが、バスの外へ出ても暑いというほどではない。温度計が壊れていたようだ。

白川郷は白山の東麓を南から北へ流れて富山湾に注ぐ庄川の上流に位置し、山深い盆地を庄川の氾濫が尽くしてできた平地に形成された集落だ…………とおもう、地質学的な形成過程は知らないが、ま、そんな感じ。バスは東側に合掌造りの村落を見てすぐにトンネルに入り、だいぶ行きすぎた白川郷ICで高速を降りてUターンする。乗用車は越中西街道を経て村落内まで入れるようだが、バスは庄川を隔てて村の対岸にある駐車エリアに駐まる。そこから吊橋を渡って南北3キロにも満たない白川郷の中心部へ入る。さすが世界遺産、異邦人が多い。

であい橋で庄川を渡る村落中央部

明善寺

木曽路はすべて山の中である…………ここはすべて茅葺きである。

明善寺山門
四脚門の鐘楼鐘楼が山門を兼ねている
明善寺本堂

茅葺きの屋根の棟の直下に短い突出部があって目を引いた。棟の上のカヤを抑えるためのアンカーのように見える。Webの資料によるとミズハリといい、普通の梁のように水平ではなく、内部から斜め下に向けて屋根を貫通して設置されていた。屋根の両側でカヤから突き出した先端に縄をかけて棟抑えとして使う。

日本ナショナルトラスト保存民家

八幡神社

八幡神社 右拝八幡神社 右拝殿 左釈迦堂
絵馬の前に若者が

拝殿脇に絵馬を掛けてあったが、見ると新しいものばかりで、マンガかアニメのキャラクターに若者独特の丸っこい文字で祈願文。どうやらここもパワースポットとやらになっているらしい。

部落南端の合掌造り

五箇山

ここはゆっくり見る時間がなく散策したのは入口部分だけ。白川郷に比べて小振りな合掌造りだったが、核心部を見ていないので全体の様子はわからない。

以下、五箇山入口付近の合掌造り群。

 

ますの寿司 源

駅弁で有名な「ますのすし 源」の工場内にある食堂で昼食をとった。電子部品の工場のように清潔だった。いまはどこででも手にはいるが、この寿司との最初の出会いは新鮮だった。

食堂の中央通路工場へ向かう通路
ちりひとつ落ちていないあの弁当はここで作られる

このあと日本海に沿って北上する。親不知の難所は海中に落ち込む崖をぎりぎりのところで削ってトンネルが貫通している。ちょうどこの辺りで、多くの峰々を連ねた北アルプスが海に落ち込むことになる。若い頃に白馬からここまでの縦走(栂海新道)を思い立ったが果たせなかった。考えれば、今日は鹿嶋まで戻るわけだから、日本海から太平洋まで、完全な日本横断の旅だ。

北陸道→上信越道→信越道→関越を経由してバスが鳩ヶ谷に着いたのが夜9時、東京駅10時の高速バスで鹿島神宮着12時、それから2時間歩いて午前2時に帰宅となった。仲間と別れてさらに5時間の行程は楽ではないが、さして気にはならない(いつまで続けられるかは知らぬが)。

いつものように楽しい旅であった。

  
   
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