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さよなら鳩ヶ谷 2011年10月10日

現在は茨城の鹿嶋市民だが、人生の半分ほどを埼玉の鳩ヶ谷市で暮らした。東京に生まれて戦時の大空襲をそのど真ん中で経験し(幼児で記憶はないが)、子供から社会人になるまでを神奈川で育ち、社会人としての大半を鳩ヶ谷市で生活した。こちら茨城へきても、鳩ヶ谷の仲間達との交流は途切れず、なにかというと出掛けていって一緒にわいわいさわいでいる。その鳩ヶ谷市が今日でなくなり、明日から川口市に合併される。

鳩ヶ谷市 HATOGAYA CITY
HP本日(10/10)で閉鎖 

地図を見ると鳩ヶ谷は周囲をほとんど川口に抱囲されてわずか数キロほど東京の足立区に接しているにすぎない。以前のわが家も裏の崖の下は川口市だった。

鳩ヶ谷市HPより

手元にある平野清著『鳩ヶ谷歴史往来』(文芸社)によると、鳩ヶ谷と思われる地名、人名が現れる最古の文献は鎌倉時代の『吾妻鏡』や『良忠譲状』だという(後者は当時の証書類)。ためしに、Webでデータベース化されている吾妻鏡で“鳩谷”を検索すると、次のような情報が得られた。

吾妻鏡データベース

冊数名 18    59頁

  1行  十二日△戊子△被行臨時評定鳩谷兵衛尉重元、

  2行  參其砌、有庭中言上事是就武藏國足立郡内鳩谷

  3行  地頭職事、先日出懸物押書訖縡已明之上、可執申

  4行  之由、雖之懇望、奉行人、不許容〈云云〉有其沙汰、可被下

正確な意味はわからないが、鳩谷兵衛重元という人物が武蔵国足立郡鳩谷の地頭職に就くことを申請したが“不許容”だったということらしい。当時は、「地名=領主の家名」のことが多いが、鳩ヶ谷もそうだったろう。その後も、室町、安土桃山、江戸と鳩ヶ谷の名前は歴史にときおり顔を見せる。明治に入って市町村制が施かれると、明治22(1889)年、近隣を合わせて鳩ヶ谷町となり、昭和15(1940)年に川口市と合併している。当時の国策に従う合併で鳩ヶ谷が希望したものではないという。戦後、昭和25(1950)年には分離・独立の運動が起きて鳩ヶ谷町に戻り、同42(1967)年に市に昇格。今日まで鳩ヶ谷市であった。

鳩ヶ谷と川口の関係は微妙である。江戸時代の鳩ヶ谷は日光御成道(いわゆる日光街道とは別で将軍家が日光参拝に使う専用街道で一般の大名は利用できない)の宿場町として、また見沼通船堀による舟運の発達により定期的に市の立つ町として特別な地位にあった。当時の宿場は今でいえば経済特区のようなもので、大名行列の宿泊・休息を義務づけられている代わりに免税や他の村(助郷)から人馬を徴用するなどの特権が与えられていた。しかし、明治になって宿場の機能は失われ、川口に鉄道の駅ができると地域の中心は川口に移る。川口と鳩ヶ谷が合併と分離を繰り返すのは、こうした繁栄地域の推移という事情も背景にある。とくに昭和15年の合併のときは、賛成派・反対派が町を二分する大騒動になったと聞く。

今回の合併もいったん白紙に戻るなど紆余曲折はあったが、前回ほどの騒動は起きなかったようである。交通・物流・情報の発達でどこの地域でも均一化が進み、以前のように土地に固有の特色が失われている。鳩ヶ谷・川口もその例外をまぬがれない。だから、昔のように強固な反対はなかったかもしれない。こうして鳩ヶ谷の名前は失われていく。もちろん、地下鉄の駅名や一部町名に残りはするが、“鳩ヶ谷”という地名の帯びた固有の歴史や行政的な機能をもつ実体としての意味は失われる。

合併とはいっても、面積、人口、経済、どこからみても実際は吸収である。ほとんど埋没しそうな鳩ヶ谷市の市民が、失うものを補ってあまりある恩恵が得られるよう、茨城の片隅から願っている。

  
   
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