OJerBlog
 
佐久平・富岡 2011年12月10-11日

掲示に少し間が空いたが、閼伽流山の続きである。昼飯を済ませて佐久平の寺社・史跡などを訪ねた。

旧中込学校

明治期の学舎は登米、伊豆、松本などでも訪れている。どれも立派な洋風建築で、欧化を急ぐ人々の意気込みが共通する。おそらく当時の農村の人々はこの建造物を見て、われわれが子供時代に手塚治虫の漫画に描かれた未来都市を見たときのような感動を覚えたのかも知れない。

旧中込学校

入場券とともに配られた佐久市教育委員会の資料には、この建物の建築費がほとんど住民の寄付によって賄われたとある。撮影年代不明の写真に写るキャンパスが一面の水田で囲まれているのが印象的だった。

佐久市教育委員会の資料からコピーした写真

龍岡城五稜郭

幕末期に、先取の気性あふれる藩主が造営した西洋風の城趾。いまは小学校の一部として保存されている。城壁の一部は失われて五陵の2角を欠くが、原形を想起させるには十分である。城壁が完全であっても、これで戦争ができたとは思えないほどかわいらしい城趾である。日本の城郭には珍しい、浅く折れ曲がった堀割に薄く氷が張っていた。

浅く折れ曲がった堀割に薄く氷が張っていた
サクラのころはよさそう

新海神社

佐久の総社で、三社神社とも呼ばれるように祭神が、オキハギ、タケミナカタ、コトシロヌシ(相殿でホムダワケ)の三柱。タケミナカタはオオクニヌシの次男で諏訪の祭神、コトシロヌシは同長男。ホムダワケは九州宇佐神社の祭神応神天皇。ところでオキハギ(興萩)は知らなかったが、佐久の祖神でタケミナカタの子とあるから、オオクニヌシの孫になる。ホムダワケを別にすると、出雲系の神々ということになる。オキハギとタケミナカタを結びつける説話は一応あるようだが、この地の産土神が出雲の神に習合したものだろう。

社の建物群も大きな構成で、なかでも驚いたのは境内北西にある三重の塔。このあたり湿度が高いらしく木材の腐朽が進んでいるようだが、バランスの取れた見事な塔である。明治維新の神仏分離の風潮のなかで、おそらくは取り壊しの圧力が相当強かったと思われる。が、これを社宝の保存庫として難を逃れた。なんだかほっとする話しである。

新海神社三重の塔

これまで神仏習合と聞くと不純でいい加減な俗習のように思っていたが、各地の寺社を観察するうちに考えが変わってきた。日本人は外来の文化を比較的素直に受容して、この地の風土に順化させ自己の滋養としてきた。それは宗教でも同じで、外来の仏教を同じような精神態度で日本の土着の神の世界と融合させたのではないか。唯一神教といわれるキリスト教でさえマリア信仰がある。あれは、中東で生まれた絶対神が地中海文化に入り込む際に生じた異種神の習合以外の何者でもないと、わたしには思える。まあ、歳のせいでいい加減になったちゅうこっちゃ、と嗤われそうであるが。

曹洞宗貞寺

海外からも研修者を受け入れている有名な禅寺だそうだ。駐車した位置からだと、側面の厨房か宿泊施設のような建物脇から境内に入ることになる。あらためて正面方向から入り直してみた。総門から山門へと、深い木立に囲まれて苔生した庭園を縫う参道の石畳を歩いてみると、奈良や京都の深山の古刹に負けないほどの風情がある。総門は簡素だがガッシリした茅葺きの薬医門(柱に対して屋根が前架かり)、山門は三間の堂々たる楼閣造でこれも萱葺き。山門の茅葺き屋根の棟に、さらに笠を差すように屋根が架かっていて、それがまた箱棟のように面白い装飾になっている。当初は、一番傷みやすいという棟の部分の茅を保護するのが目的だったろう。

 
貞寺山門
  
茅葺きの山門

山門の左右に内郭の回廊が接続していて、その折れ曲がる位置に鐘楼がある。回廊の角に鐘楼のある光景はどこかで見たが思い出せない。この三間幅の山門の左右各一間に像が安置されているので仁王さんかと思ったが違った。阿吽の形象は共通だが、持国天、増長天と説明板が架かっていた。この像のできばえもなかなかの水準に達しているように見える。

持国天増長天

さらにここにも三重の塔※があった。新海神社のものより時代は下るようだが、最上部の宝輪から各層の屋根が織りなす重層的な構造と、壁面を飾る複雑な木組みや欄干の取り合わせがうまく均衡している。

※ このサイトに、松原湖近くにあった松原神光寺の解説があり、この寺が明治期に廃寺となったとき三重の塔が「信濃貞祥寺に明治3年金112両2分で売り渡される」とあった。明治維新も罪なことをしたものだ。廃仏毀釈の傷跡がいまも各地に残されている。

松原湖畔から移築された貞寺三重の塔多様だが整然とした木組

境内を出がけに友人から、近くに藤村の旧宅が保存されているときいた。近くとはいっても離れた場所かと思っていたが、実際には境内の一部にあるそうだ。

上野一之宮貫前神社

最終日には帰りがけに富岡に立ち寄った。貫前神社は富岡市街西端の丘に位置する。参道前の駐車場に着くと、ここでも参道の階段や並行する坂道をトレーニング場にしている生徒達で賑やかだった。この地区は12月に七五三を祝う慣習があるのか、駐車場には七五三の幟が立ち、それらしき子連れの参拝客を多く見かけた。

貫前神社参道総門

貫前神社の祭神はフツヌシ。佐原の香取神宮と同じである。鹿島神社や八幡~社などは、本社があって全国各地に勧請して末社を置くという系列形式をとることが多いが、フツヌシの神社の場合は、あまり系列は聞かない。同じフツヌシを祭神とする貫前と香取や石清水などにとりわけ関係はないようだ。この違いはどこからくるのか興味が湧いた。この神社は社殿の配置が変わっている。丘の上に神社があるといえば、麓に拝殿と本殿があって頂上に奥社があると考える。ここでは、正面の参道の階段を上ると普通の住宅街へ出てしまい一般道に車が走っているので一瞬おやおやと思う。その先に神社らしい総門が見えてやれやれである。

階段の下に社殿が正面 楼門

総門をくぐると、なんと下りの階段があり、その降りきったところに社殿が見える。寺社の主要な構造物が参道から下った位置にあるのは、ぼくの経験では、京都東山の泉涌寺と比叡山延暦寺の根本中堂くらいしかない。階段を下る途中、左側に月読神社がある。「つきよみ」とあったが「つくよみ」と読むことが多い。ツクヨミはアマテラスの弟(妹?)、スサノオの兄(姉?)で、月あるいは夜の神とされるが、古事記でもイザナギのミソギで誕生したという話以外に出てこないのではなかったか。不思議な神さまで神社もあまり多くない。

月読神社楼門 なぜか七五三の参拝で賑わう境内

残念ながら修復工事中で本殿や拝殿は保護幕で覆われて全容を見ることはできなかった。本殿の修復は一部終わっているようで、足場の奥にその片鱗をうかがうことができた。徳川将軍家の庇護を受けたというだけに、日光東照宮や鹿島神宮などと共通する華麗な様式が見える。東照宮と比べるのは酷だが鹿島神宮と比べても、壁面装飾、檜皮葺の屋根の厚みなど、どれをとっても縮小・簡略化された印象があった。

 
楼門 裏側改修が済んだか 本殿の一部

貫前神社のあと、富岡製糸場へ行くにはいったが、一見の価値ありというレンガの壁面が工事用のシートで覆われていたのでパスした。

本日はこれまで。

inserted by FC2 system
  
   
現在の閲覧者数:
inserted by FC2 system