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出島の椎など(その1) 柏崎素鵞神社・富士見塚古墳 2013年10月27日

古樹、巨木といえば前回のタブノキについで出島の椎を思い出す。「出島」というのは霞ヶ浦の北部を二分している半島状の地形のことだ。ついでだから、出島にある椎名家住宅も訪ねてみたい。

マップ(GPSデータは無修正、マーカーは位置のみ)

いつものように新設の鹿行大橋で渡って、行方丘陵の田園地帯を抜けて霞ヶ浦大橋へ抜ける。

旧鹿行大橋は撤去橋はないが撤去工事はまだ終わっていない

もうGPSナビは使わないことにして地図を確認しながら行方丘陵のわかりにくい地方道を縫う。道には神経を使うが車に神経を使う必要はない。

行方の田園風景 左は収穫の終わったサツマイモ畑
右も同じだが取り残した芋がもうこんなに育っている

柏崎素鵞神社

素鵞(そが)神社の祭神はスサノオ。神社の名は、古事記にあるスサノオがクシナダを娶って住んだ宮殿の地名に由来する。その土地の雰囲気が「清々しい」からとその地に宮を建て、地名が須賀となった(岩波文庫p39)。各地に須我神社や転訛し素鵞神社がある。

初っ端から脱線したが、ここは出島の北東端、柏崎の素鵞神社。

柏崎素鵞神社
神社左側のオガタマノキが有名 右は山車の倉庫のようだ
オガタマノキ 拝殿側から

当方はオガタマノキより参道の右手のケヤキが面白い。

参道右手のケヤキ

今日は拝殿が開扉して新嘗祭とあった。

この神社の本殿は色彩豊か。神社だが、なぜか卍が描かれている。

本殿

神社の左裏手に真新しい末社が2つ。はて對馬神社とは?

對馬神社 子安神社

さてそろそろ次へと退散しようとしてると、神主を中心に大勢の人が参道を進んでくる。

新嘗祭の行列

行列をやり過ごし、後尾にいた同年配の男性に何のお祭か訪ねると新嘗祭だという。拝殿脇の看板は本日のことだった。

神主のあとに村落の人々が
新嘗祭の神事

先ほどの男性は拝殿に上がらずに階段近くに残っていたのだが、問わず語りにこの村落のお祭のことを話してくれた。ただ、地元言葉のくごもりがちの早口で何度も聞き返してやっと分かったり分からなかったり。聞き取れた限りでは、こういうことだ。

この神社の氏子は4つの部落から構成され、鎮守を對馬さまという。昔、疫病が流行ったときに對馬さまのお祭が始まった。多分、この辺りは地下水が高いので病気が出やすいのだ。對馬さまは4つの部落から選ばれた当屋が1年間もちまわりでお祀りする。当屋になった1年間は家の周囲に注連縄を巡らせる。

ところが、近頃は当屋を受けるものがいなくなり、ついに今年から当屋の持ち回りを廃止することになった。そこで、對馬さまを常時お祀りするためにできたのが、先ほど見た末社だということだった。また新嘗祭は当屋の引き継ぎの日だが、当屋がなくなったために引き継ぎの催事を、参道の霞ヶ浦に近い端に對馬さまの仮宮を設けて行うことになった。いま、拝殿で行われている行事が終わると、次は、その仮宮でお祀りをするのだという…………まあ、やっとこの程度が分かった。本当はもっと話しを聞きたかったが、なにせ言葉がなかなか通じないので、このくらいにして、對馬様の仮宮へ向かった。

對馬さまの仮宮

仮宮は川縁の野原を切り開いて設置されていた。アシで作ったアメリカン・ネイティブのティピのようなものの中に、サンダラボッチに把手を付けたような形状のものが安置してある。ご神体か。

仮宮ご神体

当屋の持ち回りという村落の重要な行事が廃止されるということは残念なことだ。行事を支えるべき生活の中心がもはや村落の外に分散してしまったのだろう。何年か後には、地元の人さえ對馬社の意味が分からなくなるのかも知れない。現に、先ほど見た行事の参加者に若者はひとりもいなかった。

 

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