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出島の椎など(その2) 富士見塚古墳・出島の椎・椎名家住宅 2013年10月27日

 

その1

まだ昼には間があったがザックには店内ベーカリーのあるコンビニで買った焼きたてのパン類と冷えた泡が入っている。一方は冷ましてもいけないしもう一方は温めてもいけないから、などと勝手な理窟を付けて、素鵞神社からはさほど遠くない富士見塚古墳を昼場とした。

富士見塚古墳公園展示館 背後の丘の上に富士見塚古墳がある

以下の写真は、最近、パノラマ写真をPicasaが勝手に作ってくれるのを意識して撮ったもの。

富士見塚古墳(左 前方後円墳)と陪塚(円墳)
富士見塚古墳 合成写真でバランスが崩れているが、右手前が前方部、左奥が後円墳

名前の通りで、視程がよければ富士山が見えるそうだ。左奥の円墳の上がわが昼場である。

昼場(円墳の頂上)からの景色

朝方の北風はこのころには収まり快適な昼場となった。この場所は考古学的な興味というより、もっぱらこの景色のための選定である。まだぬくもりのあるパンと冷えた泡。ふっつふっつふ、ええよ。

出島の椎

食後は、資料館の前を流れる菱木川の堰堤道路に出て遡行する。未舗装だが比較的走りやすい。

菱木川の堰堤 出島の椎は正面左奥の丘中に 一番奥に筑波山の双耳峰が見える

資料館から数えて5つ目の橋で川と別れて、左手の丘に上ると長福寺の出島の椎に至る。

長福寺の山門 椎は山門の反対側にある
古木の通例で主幹は折れているので丈はさほどない

出島の椎がある長福寺は筑波新聞によると「華輪山不動院。真言宗豊山派の寺。1150(保元元)年の開基。江戸時代には、末寺36を数えた由緒と格式のある寺。 1886(明治19)年の火災でほとんどが焼け、当時のものは山門などをわずかに残すのみ」とのこと。

境内から見て右手に椎 ここからは何の変哲もない椎の木だが
間近に見る推定樹齢700年
椎の木の前の祠には仏事ごとに貼り重ねられた供養の札
おびただしい数の供養の札
祠の主 盲しいた眼で何を見つめるか

祠の主の肩の辺りが不自然である。よく見るとセメントで継ぎ接ぎしてある。この像に限らず椎の木の周囲の座像はことごとく首に修理の跡がある。明治維新の廃仏毀釈の名残で、隣国の文化革命はよそ事ではない。

椎を囲繞する座像群

椎を取り囲む座像はどれも異様な怨念が漂う。

青白眼の妖気疑惑の眼差し
無念に虚空を睨む悔悟の思いに枘を噛む

いろいろな巨樹・古木を見ているが、この椎の木の雰囲気は独特である。

椎名家住宅

出島の椎から行くと椎名家住宅は出島の反対(南)側になる。こちらからアクセスすると道が結構わかりにくいが、2度目のことでわりとすんなりたどり着いた。

椎名家入口 左の古木はエノキ

残念ながら入口は閉まっていた。

椎名家

この建物は下山眞司という建築家のサイトに詳しい紹介がある。この方のサイトは当方の愛読サイトでもある。自己紹介にもあるように、ご自身は東京生まれだがいまは出島の住人。日本古来の建築の研究を基盤として現代建築に痛烈な批判を投げ続けている。建築の専門知識がなくとも批判の矛先がどこへ向かっているかは理解できる。発想の自然さとラジカルさが言語学者のノーム・チョムスキーのそれと共底する印象を受ける。おっと、脱線。

目に着くのは構成の単純さだ。雪国でないせいもあろうが、目を見張るような太い柱や梁は使っていない。おそらくは建設当時に身近に入手できた木材を使ったのだろう。必要十分な太さの木で軸組を造り、柱の間を土壁で被い、それに屋根を置いて藁を葺く。その構造全体をそっと簡素な礎石に置いただけかのように見える。

帰途の災厄

椎名家を出て少し走ったところで、後輪のタイヤの異音に気づいた。パンクだ。新しいタイヤに交換して1,300キロくらいは走っている思うが一度もパンクはなかったので、少し慌てた。常時持参している新しいチューブと交換したが、久しぶりの作業で段取りが悪い。最後は炭酸ガス・ボンベで空気を送り込めば一瞬で終わるが、今回に限ってガス・ボンベと空気ポンプの接合がうまくいかない。最後までボンベをねじ込めないうちに炭酸ガスが漏れてしまった。ボンベは2本あったが2本ともだ(あとで調べたらネジの切り方が正常のものと微妙に違っていた。家にあった別のボンベでは問題なく合体。そんなことあり?)。ぶつくさいいながら、携帯ポンプで空気を送るが、これがかなりの重労働である。それにいくら空気を入れても4気圧ほど必要な正常値にはとうてい届かない。あとはゆるゆる走らないとチューブを傷める。

無印(1本240円)は正常 メーカー製(同446円)は不良

出島の丘陵部を下って霞ヶ浦の堰堤へ抜ける。だいぶ走ったころに、またタイヤ音が高くなった。もう交換チューブはない。さいわい霞ヶ浦の水面がそばにあるのでパンク位置を確認し、パッチを当ててポンプアップ。これでいいだろうと走り出すと、さほど走らないうちにまたバクバク音がする。さっきまでの快適なサイクリング気分は吹っ飛んでしまった。

あとはだましだまし空気を補給しながら走る状態になる。ポンプアップしてしばらく走り、タイヤが鳴りだしたらまたポンプアップの繰り返し。霞ヶ浦大橋を越えれば大きなHCがある。もううんざりだし、夕暮れも迫っているからプロに修理を頼むかと飛び込んだ。無人のカウンターで待つことしばし。やっと出てきた係は、今日は修理担当がいないから直せないという。いやでも自分でやるしかない。修理用のゴムパッチや接着剤も残り少なくなっていたので新しいパンク修理キットを購入して、店先の水道とバケツを使わせてもらう。パッチしたところから空気が漏れていて、なんだか自分の修理方法に自信がなくなった。堰堤での3回目のパンク修理のとき予備チューブも修理しておいたので、パンクしたチューブは修理せずに、予備と交換して出発した。もうそのころは日も傾いて、先が急がれた。しばらくは保ったが、行方丘陵の最後の峠を越えるころにまたタイヤが鳴りだした。浜風を降りてはポンプアップの繰り返しで数回は凌いだが、やがてすぐに空気が抜けるようになり、ほとんど走れなくなる。もう夜の戸張は降りている。最後は明かりを求めて北浦近くのコンビニのあるところまで押して歩いた。

最初のパンク霞ヶ浦の堰堤で2〜3度目のパンク
4度目 HCにて

コンビニで5回目の修理。店員の若者に、事情を説明して頼むと快くバケツ一杯の水を奥から持ってきてくれた。店の窓から漏れる光を頼りに、コンビニの客の好奇の眼差しを受けながら、今度は相当念入りにチューブにパッチを当てた。若者に好意を謝して飲み物を仕入れ、店を出る。

これでなんとか夜道を家までたどり着くことができた。GPSのログを見ると、帰りは移動時間が3時間ほどで、経過時間が6時間46分。この間、休憩のための停止はしていないから、3時間以上もパンクがらみて止まっていたことになる。渦巻く想念はただ一点、なんでこんなに何度もパンするの? というか、わたしにはパンクを直す術もないのかという苦々しい思い。

それでもまあ、シャワーを浴びて一杯やれば、ご機嫌で寝ましたけどね。

翌日、朝起きて浜風の様子を見ると、またタイヤが潰れていた。なんてこった! チューブを調べてみると、コンビニで直したのとは違う場所に空気漏れの穴が見つかった。コンビニから家までの間にチューブに穴が開いたことになる。数えてみると2本のチューブで5カ所の穴を補修していた。推定ではあるが最初に畑の脇でチューブを交換したときに、砂利などの異物がタイヤのなかに入り込み、それが最後までたたったのではないか。途中でタイヤの内側は掃除はしたのだが、道路脇などに自転車を寄せ、物を置けば泥が着き、風がホコリを巻き上げる条件下で、タイヤとチューブを汚さずに修理するのは容易ではない。ま、言い訳。

今回の走行距離は80キロほどだったが、走ったことよりパンク修理に疲れ果てた感があった。とくにパンクしたのがチェーンの掛かる後輪だったせいもある。なにはともあれ、パンク修理なら任せておけという自負が吹っ飛んだことだけは間違いない。徹底的にパンク修理を極めねばなるまい。

パンク修理、反省の記

本日は、これまで。

  
   
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