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中根ジオ散歩 2014年4月19日

阿字ヶ浦ジオ散歩の続編である。なかみなと海浜鉄道湊線の中根駅を起点に虎塚古墳、十五郎穴、釜上神社などを訪ねる。虎塚古墳と十五郎穴は浜風の単独行で来てはいるが、ジオな知見を拝聴したいと参加することにした。

昨日は雨で、今日は晴れたものの風が強い。天気予報は風速6mを告げている。これでは自転車は楽しくないので浜風を諦めて公共交通を利用することにした。鹿島臨海鉄道(KRT)で水戸へ出て、JRで勝田、それから湊線で集合地の中根駅へ至る。中根駅はKRT大洗駅の真北になるが公共交通機関を使うと、水戸、勝田を結ぶコの字型に大きな迂回となる。直線距離で計測すると約6キロのところを20キロかけて移動する。そのうえJRからへ湊線の乗り継ぎで1時間ほどムダになるが、天候に文句を付けるわけにもいかない。

 →マップ(Googleマップ) →マップ(Google Earthファイル)

勝田駅で時間を潰すために駅の周囲を散歩した。閑散としてあまり見るものはなかったが、こんな外灯があった。

虎塚古墳の装飾をイメージさせるデザイン

これがジオ子さんのサイトに載っていた写真の実物であった。今回は昼食を摂れる場所がないというので駅ナカでサンドイッチとお茶を仕入れ湊線へ向かう。JR勝田駅上りホームの脇に、垣根を隔てて居候のように設置されている湊線のホームで下り列車の到着を待つ。 

湊線勝田駅のベンチ 駅名の説明標

中根駅に10時12分着。広い無人駅でホームの一角に受付が設置されている。2回目の参加なのでジオ子さんをはじめ顔見知りのメンバーも散見する。会費500円を支払い資料を受け取る。わたしの乗ってきた次の勝田行きで参加予定者全員が揃った。

中根駅 蕨手の刀子(後述)と前方後円墳を埋めこんだ文字

駅と言うより小屋の建った野原の小さな丘だ。

駅ホームの受付中根駅 下手より

庚申塔

庚申塔(塚)は路傍にあることが多いので、都会では区画整理などでほとんど近所の寺社の境内などへ移されている。鹿行周辺を自転車で走っていると庚申塔はいたるところで目にする。ここではコンクリートのぞんざいな土台に庚申塔、青面金剛(しょうめん)、軍馬観音の3つの石像・石碑が配置されていた。庚申塔は道路指標も兼ねていたようで、この場所は古くからの道の分岐、つまり追分だ。馬頭観音はよくあるが、軍馬観音は初見だ。碑文に「昭和15年」とあるのを見て納得した。今日の散歩のチーフ・インタープリーターである鷲尾さんの話では、青面金剛は村内へ侵入する病魔を払う役割をもつが、これが猿田彦に換わるケースもあるという。神楽などで猿田彦は天狗のように鼻の長い赤い面を着けて登場することが多い。わたしの頭の中で青面金剛の「青」と猿田彦の「赤」が対照に交錯した。青面や赤面の異形の神が境界を守れば疫病もこれを避けると考えたのであろう。日本の神話では、猿田彦は天孫ニニギを出迎えて地上へ先導した地祇とされているから、旅の案内や安全祈願は連想しやすい。

追分の庚申塔 右奥青面金剛 手前軍馬観音裸の畑を寒風が吹きすさぶ

右上の写真ような道に北風が吹きすさび、マイクを使っても風切り音で説明がよく聞き取れない。横殴りの土埃でときおり耐風姿勢をとる。浜風だったら途中で退散していただろう。

虎塚古墳 4号、3号

4号は畑の中に位置し崩れた玄室の石郭が露出していた。近くの3号は住宅と畑の奥で近づけなかったが方墳だという。

4号墳 畑の中3号墳 ヤマザクラの下

この地方では畑や庭先に古墳は珍しいらしいが、霞ヶ浦の周辺では割と普通にある。たとえば、わたしが見かけて一番驚いたものに、庭先に無造作に花畑を戴いたこんな古墳があった。霞ヶ浦南岸、稲敷市四箇の農家の庭先だ。

稲敷市四箇 大きな玄室が露出している 庭先である

次のは人家の庭にあって垣根から覗ける石室。

かすみがうら市出島 太子古墳玄室内部

虎塚古墳

埋蔵文化財センターに近づくと、それらしき雰囲気が漂ってくる。

この先にセンターが土器をあしらった側壁

われわれが辿ったルートだと手前に埋蔵文化センターがあって、その奥の林のなかに虎塚古墳がある。まずはセンターを通過して古墳へ向かった。虎塚古墳は春と秋に公開される。春の公開期間はすでに過ぎているので管理棟は閉まっていて誰も居ない。案内板を取り囲んで鷲尾さんから一通りの話く。このあと、センターでも研究員から虎塚の解説を聞いた。

虎塚古墳の解説
虎塚古墳(前方後円墳) 前方部より後円部を望む
後円部の玄室入口 公開時はここから中へ
虎塚古墳を…………一巡する

説明を総合すると、彩色した幾何学文様のある古墳は国内に少なく、例外的に福岡、熊本に多くあること。九州の例からは奥壁の環状の模様は太陽を示すらしいがその他の模様の意味はまだ解明されていないこと。また、古墳内部を発掘当時のままの環境に保って維持するわが国最初の事例がこの古墳であったこと。その手法が高松塚に適応されていればあの騒動はなかったろうこと、などなどだ。春秋2回の公開が、ちょうど玄室内の維持温度に近い時期だからという説明は説得力があった。鷲尾さんは、虎塚の呼称について、この古墳の位置が当時の国司の館から見て寅の方(北東)に当たるからで、その国司の出身が九州だったのではないかとの見方を披露した。

ひたちなか市埋蔵文化センター

今日は人家もまれ、まして食堂など皆無の道を辿るので、あらかじめ各自弁当を持参してこのセンターの教室を拝借して昼食を摂ることになっている。センターの研究員から展示室の虎塚古墳玄室のレプリカを前に説明を受けてから、縄文→弥生→古墳時代と陳列された資料を拝観する。

ひたちなか市埋蔵文化センター虎塚古墳玄室のレプリカ
勝田名物のあんパンとか 昼食のデザート

2階の教室で食事を済ます。いつもなら昼は泡にサンドだが、さすがに団体行動では泡は遠慮して勝田名物のクリームあんパンとお茶でオチャを濁す。ははは。

十五郎穴

7世紀前半の虎塚古墳より遅れ、成立は奈良時代にかかる横穴墓。前に訪れたときも一部はブリキ塀で覆われて発掘途中だったが、県内では出土例の少ない「蕨手刀子」(柄の突端がワラビの芽生えのように見える)が最近ここから発掘されたそうだ。中根の駅名に刀子(とうす)と前方後円墳が埋めこまれていたのは、この発見を反映したものだ。駅名の説明サイトを見ると分かるように、以前は刀子ではなく矛であった。

十五郎穴の南端 ここのブリキ塀の中の墓から蕨手刀子が発掘された
十五郎穴 南側から同北側から
十五郎穴の前に咲いていたムラサキサギゴケ

この一帯は丘陵の末端で、そこに露出した凝灰岩の崖面が墓所に利用された。まだ未発掘の場所はいくつもあり、あとは予算しだいとか。十五郎の名称の由来としては、曽我の五郎・十郎を挙げる説があるという。しかし、曽我兄弟とこの墓の時代とはかけ離れているし、後代に思いついたたわいもない付会だろう。

採石場跡/阿字ヶ浦層・磯崎層

虎塚・十五郎穴とは少し離れているが、人手の加わる以前の地形に戻せば同じ山塊の末端に連なるか。ここにも凝灰岩の崖面が露出している。(凝灰岩、礫岩、砂岩、泥岩などの判別は当方にはできないので、ここでは「凝灰岩」で通しておく)。この辺りが古墳時代の採石場であり、虎塚の石室の石材などは、ここから切り出されただろう、とは鷲尾氏の説である。この崖の一部に、粒度の小さい磯崎層の上に礫の多い阿字ヶ浦層が重なっているカ所があった。この辺りは、阿字ヶ浦層と磯崎層の入り組んだ場所だが、これほど見事な層序が見られるのは珍しいという。

採石場跡とか上層阿字ヶ浦層、下層磯崎層
満開のミツバアケビ
釜上神社

今回で一番面白かったのはこの神社だ。後背の丘陵地帯が海へ向かい波状的に押し出していると見れば、この神社はそれらの波面の最先端に位置している。実際、縄文海進でもっとも海面が上昇したときの波打ちぎわの痕跡が境内の崖に残っている。鷲尾さんの資料では6000年前の縄文海進で「海水面は現在より5m程度上昇した」とある。現在の境内の標高をあとで地理院のサイトで見てみると3〜4mである。波打ち際の痕跡は人間の身長の辺りにあるのでほぼ整合する。

縄文時代の波打ち際
釜上(かまかみ)神社
奥は拝殿 拝殿の上に岩が被っている

この神社は拝殿だけで本殿はない。ご神体は背後の崖である。神域は塀に画されているが内部を垣間見ることはできる。抉れた崖の天井部分にぽっかり穴が開いている。おそらくは海に向かって突出した岩が大きく陸側に波食されて、その上部が陥没したのだろう。穴からは空が透けて見えている。おそらくこの穴を依り代と見たか。

写真では撮れなかったが上部の岩に穴が開き明るく見える

山や滝、巨岩や巨木などを神の依り代としてご神体にする神社は多いが、穴がご神体は珍しいと思いつつも天岩戸神社があるなあと考えなおした。縦穴と横穴の違いはあるが。

近くに釜神社もあり、そこまで行きかけたが途中で時間切れ。ぶらぶらと出発の中根駅へもどった。

満開のモミジイチゴ 6月に来れば食べきれないほどの実に

ディーゼルカーが到着するまで雑談で時間を過ごす。まず下りの列車が到着し、つぎに上りの列車が……インタープリーター諸氏の見送りを受けて、それぞれに帰途についた。

本日はこれまで。

  
   
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