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| 宍塚大池 2014年10月25日以前、NHKの『さわやか自然百景』で土浦市郊外の宍塚(ししづか)大池を取り上げたことがあった。そのとき以来気になっていたが、今日はそこを訪ねてみることにした。天気は静穏で文句なし。 浜風の長距離はひさびさで、いざ出かけるとなると段取りがすんなりいかない。まずはGPSのナビデータの作成だ。登山用のデータは比較的単純だが、平地の場合は道路網が密だから選択肢が限りなくある。まずはGoogleのマイマップでルートを検索して、それをマニュアルで微調整する。ところが旧Engene liteからバージョンアップしたマイマップがなかなかうまく動いてくれない。このコツをつかむのにちょいと時間がかかった。 →マップ さらに走り出してしばらくすると浜風もグズりだす。上り坂にかかっても駆動側のギアがシフトダウンできない。レバーを操作してもシフト機構が動かないのだ。シフトダウンはシフト機構のバネのテンションが駆動力だから、レバーをいくら握っても意味がない。夏のあいだは異常がなかったが、ろくに手入れをしていないから、潤滑油にゴミが混じって、このところの気温低下とあいまって個化してしまったようだ。手で数回動かしてやって、なんとか復旧した。 北浦から霞ヶ浦へ抜ける地方道の脇に謎の建築物がある。
外壁は断片を残すのみで、剥き出しの泥壁と肋骨のように浮き出した下地材。立派な箱棟をいただいた姿は往時はさぞかしと思わせるが、いまやいつ崩れてもおかしくはない。しかし、この建物はあの大震災の前から、同じ姿で佇んでいるのだ。修理した跡も見えない。あの激震をいかに耐えたのか、謎としか言いようがない。 畑は冬越しの野菜と、まだこれから収穫するものがあって、結構賑やか。
霞ヶ浦大橋を渡ってすぐに国道と別れて車の通りの少ない地方道を選んだ。その途中に、廃車になったバスの置き場があって、そこに置かれていたポンコツバスの案内板に「八戸ー弘前」高速バスとあったので、懐かしくなった。
eTrex30を浜風のナビに本格的に使ったのは初めてだ。最初は少し戸惑ったが、慣れてくると車のナビとほとんど変わらない(ただ、老眼による小画面の見にくさだけは残るが)。北浦から霞ヶ浦へ抜ける農道は何度も道に迷ったところだが、このナビだと何の苦もなく通り抜けてしまった。ルートの間違いはほとんどなくなるのと裏腹になんだか味気なくもある。ま、勝手なものだ。因みに、今回使ったのはインターネットのYahoo! マップをダウンロードしてGarminのBirds's Eye用に変換した地図(.jnx)に、Googleのマイマップで検索して微調整したルートを載せたものだ。 宍塚大池住宅街の地方道を左折すると段々畑の畦道に入り込む。曲がり角に案内くらいあってもといぶかしかったがGPSの指示に従うとやがてそれらしき道へ出た。通常の道よりすこし手前から畦道を通ってショートカットしたようだ。暗い林間の坂道をしばらく登ると右手に「宍塚大池」の案内板があった。
地図で家屋の記号があったので管理棟でもあるかと思っていたが廃屋だった。どうやら昔はこの池でボート遊びができたようで、その営業小屋でもあったのだろう。
廃屋を過ぎて木の下道をしばらく辿ると堰堤に出た。
地図で見た沼の形が不自然だと思っていたが、これで納得がいった。周囲の丘陵から流れ込む沢をこの堰堤で止めた溜め池だったのだ。この貯留水を写真の堰堤の下流(上の写真の左側)へ調整しながら流して田圃を潅漑していたのだろう。この一帯は私有地だそうだ。
土浦駅近くのコンビニで仕入れてきた泡とサンドで昼食とする。結構走ったせいか、気温が上がったせいか、この泡は効いた。 NHKの番組のように選りすぐりの光景が展開するわけではないので、ただの沼って感じだ。たくさんいる水鳥も人間がいると対岸遥かに遠ざかってしまうので、間近には観察できない。 浜風が入れるのは堰堤までで、そこから先は踏み跡ていどの歩道になる。食後はそちらを散歩してみた。
進むほどに道がだんだん荒れてきた。GPSで見ると間違いなく道を辿っていると確認できるが、もしなにも持たずに来たらおそらく引き返しただろう。この辺りでもう池からは相当離れた林中にいる。途中で池へ向かう踏み跡があったのでそれを入った。Yahoo!の地図もばかにできない。こんなか細い踏み跡がちゃんと表示されている。それにeTrex30の感度もたいしたものだ。以前の機種だと、これだけ頭上を木立に覆われると現在位置を認識できなくなったろう。
まさに藪漕ぎ寸前の状態で、池の西端に出ることができた。
帰りは沼際の歩道を戻る。途中に、左下写真の注意があった。もっともこれは沼沿いに来た人向けのもので、当方のように逆に戻ってくると注意の意味がない。沼沿いの道は増水すると水没する可能性がある。
堰堤まで戻って、次に堰堤下流の散歩道を歩いてみた。
「オニバスの池」とあったので期待したが、どこまでいってもそれらしきものはない。作業をしていた地元の人に尋ねると、「昔の話しさ」と一蹴された。
しばらく歩くと人家が見えてきて、どうやらこの辺りまでらしい。堰堤へ戻ることにした。
宍塚大池はこのへんにして、近くの貝塚跡へ向かう。 下高津貝塚ふるさと歴史の広場貝塚跡は宍塚大池より少し高い位置にある。「縄文の森」という林を通ってしばらく行と、きれいに整備された大きな広場があった。
縄文時代の海水面が高かったころは、この丘の近くまで海岸が迫っていたという。
崎浜カキ化石床帰途はコースを変えて霞ヶ関堰堤道路を戻る。これも以前から気になっていたカキ化石床を見るのが目的だ。GPSはルートナビを外し、浜崎化石床を目標ポイントに直線ナビに切り替える。堰堤道路は迷いようがないのでガイドは要らないが、内陸の県道脇にある化石床はうっかりすると通過してしまう。
地理的にも歴史的にも貴重な遺跡だとおもうが、じつに無造作に県道脇に露呈していた。右側は高い塀で隠されているが中古自動車の置き場である。
数十万年前にできたカキ化石床が隆起し崖状になったところを、古墳時代後期の人々が墳墓として利用したという。以前訪ねた十五郎穴と文化を共有する人々だったのだろう。
化石層は掘りにくいからだろう、その下部の土質の部分に穴を穿って墳墓としている。
同じ貝殻でも、貝塚のものとここのカキでは古さの桁が違う。ついでに訪れた化石床だったが、当方には宍塚大池よりよほど興味深い収穫であった。 また堰堤道路に戻って少し走ると、小さな漁港のなかにアサザの咲いているのが見えた。蔓延するアカウキクサがちょいと気持ち悪いくらい多く、アサザの花はわずかだった。
この先に、前回の連続パンク事件で難渋した場所がある。見覚えのある人家と堰堤のノイバラはいまでも健在。今回は走り始めのシフト問題以外にトラブルはなく、長駆109キロをぶじに走り終えた。 本日はこれまで。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||