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常陸太田と佐竹氏遺跡 2015年3月12日

豊臣から徳川へと政権が移行する16世紀末、常陸国の統一を図った佐竹氏が鹿島・行方地方に割拠していた三十三の小豪族を自らの居城舞鶴城(常陸太田)の観梅にこと寄せて招来し一挙に謀殺した。これを「南方三十三館仕置」という。これによって佐竹氏による常陸国統一は達成されたが、その背景にあった豊臣家が滅亡した結果、次の徳川政権によって佐竹氏は秋田へ転封されてしまう。我が家の周辺の史跡を訪ねると、必ずといっていいほど南方三十三館仕置の話が出てくる。戦国武将としては優れた知略の結果であったろうが、地元では、佐竹氏は最大の悪役である。

佐竹氏

その佐竹氏の遺跡を観梅もかねて常陸太田に訪ねてみた。さすがにこの距離となると浜風というわけにはいかず鉄道に頼らざるをえない。JR常陸太田駅にはレンタサイクルがあるようだが、ここはやはり徒歩で一巡することにした。

マップ

水戸駅で水郡線に乗り換え、常陸太田のひとつ手前の谷河原(やがわら)駅で下車。畑の真ん中の無人駅で、運転手が窓から身を乗り出して切符を回収した。

谷河原駅

耕地を切り拓いて新たに開設されたと思われる直線的な道が2キロほど続く。

畑のなかの一本道 正面から強い西風が吹き付ける

馬坂城趾

車の行き来の多い県道を横断して村落の内部に入る。とたんに風がやわらぎ、やっと散策の気分が醸されてくる。と同時にGPSのナビ機能も俄然、効果を発揮しだす。地図だけの判断なら入るのをためらうような小道も、GPSに現在位置が表示されているから、迷わず選ぶことができる。急な坂道を少し登ると、馬坂城趾の案内板があった。

馬坂城趾入口
馬坂城趾 佐竹氏発祥の地
馬坂城趾 石碑と説明板

林間の丘の上、開けた耕地の中央に馬坂城趾の碑と案内板が立っている。平安時代の末期、八幡太郎義家の弟、新羅三郎光義の末裔がここに居城を構え、地名から佐竹を名乗った。一時は常陸国58万8000石、徳川時代でも20万石(実禄40万石)の大大名に躍進する佐竹氏もまだ北関東の一豪族であった。

佐竹氏発祥の地 この規模の館だった

稲村神社

大きなウメの木の多い村落の道を佐竹寺方面へ進む。豊かな農村らしく立派な門構えの家がある。

間坂城趾から佐竹寺への道

その途中に、ニギハヤヒを祭神とする式内社稲村神社がある。ヤマトタケル東征のおりこの近辺の各地に祀られたという言い伝えのある天神七代(古事記にいう神世七代)の祠を、光圀が稲村神社に合祀させたという。他の資料で祭神の名前を知ったとき、普通の神社とはいささか様子の異なる印象を受けたが、やはり光圀の考えが反映されていたようだ。現在の社殿は合祀のおり光圀の建立したもので、式内社稲村神社に比定されたのは明治になってからだ。

参道入口とケヤキの古木

だらだらと下る参道の先、少し登り返して神社があった。

珍しい形の注連縄
拝殿本殿
天神七代を祀るという祠 詳細は不明

佐竹寺

稲村神社の前の道をぶらぶら歩いて行くとやがて佐竹寺の脇を回って門前にでる。

佐竹寺

佐竹寺 仁王門 震災の改修工事中で仁王さんはお留守

仁王門は改修工事中で仁王は留守。いずれにしろ仁王門はさして見るべき所はない。門をくぐるとムクリのついた茅葺きの本堂大屋根が聳えている。そうとう傷みは進んでいるがなかなかの迫力がある。

佐竹寺本堂(観音堂) 常夜灯は大地震で被災したまま

ムクリは意図的なものではなく経時変化で架構が垂下したためだと思われる。大正時代の修理直後の写真を見ると直線的なスカイラインを描いているのがよくわかる。唐破風を正面にして、茅葺きの屋根の下を一巡している裳階は元禄時代の改造によるものだという。

本堂向拝

本堂外陣の外壁はおびただしい数の千社札で埋め尽くされている。

もう貼る余地がない
正面の両翼に張り出した丸窓が珍しい
聖徳太子作?の十一面観音像

荒廃の感はまぬがれないが、佐竹寺は生きのびてきた長い時の経過を感じさせるに十分な存在感に溢れていた。今回の目玉として期待してきた甲斐があった。

雪村碑と西山公園

佐竹寺からはしばらく車道を歩かねばならないが、ほどなく左折して田舎道に入る。そうなれば歩いているだけでも楽しい。道路脇の大きな説明板に光圀の開鑿を命じた水道用隧道の説明があったが、探してみてもどこにあるのか分からない。地下を掘削しているわけだから、道ばたにひょいと顔をだすものでもあるまい。少しさきの路傍にも同じような説明碑があり、そのかたわらに屋根組で覆った埋蔵物のようなものがあった。もしかしたらその下に隧道がるのかも知れない。

林間の道をだらだら下った左手に多数の幡を建てた寺があった。寄らなかったが、多分、「山の寺」であろう。そこから上りになって、しばらく先が峠になる。その峠を切り返すように登ったところに雪村の顕彰碑がある。手前の道路脇に別の大きな石碑があってまぎらわしいが、雪村のそれは、なお笹に覆われた小道を上った丘の上にあった。なぜこの場所に顕彰碑を置いたのかわからない。ただ、佐竹の一族であり、雪舟の画風を敬慕したという彼の作品に引かれるものがあったので訪ねてみた。

雪村の碑

西山公園

歩行のログを見ると雪村碑から太田第二高校を回って西山公園の下へ至っているが、これは失敗だった。最後にルートを見直したときに高校前の車道へでずに、高校の裏から諏訪神社と久昌寺を経て義公廟へ至るパスを作っておいたはずだ。PCでルートを修正しただけで、GPのへ反映するのを忘れていたのだ。ま、それはともかく、車道から大回りして久昌寺を覗き義公廟へ抜けることはできた。

光圀を祀る義公廟

西山公園は常陸太田の市街を眼下に見おろす高台にあって気分はよいのだが、今日のような日には風が問題である。公園の一角に無料休憩所がありだれもいなかったので、今日はそこを昼場にする。平日とはいえ昼時にこんな気持ちのよい公園に見わたす限り人影がないというのは地方都市ならではだろう。

無料憩所 だれもいなかったふっふっふ 燗の準備も怠りない

実はこのコースを設定したとき、10時に谷河原駅を出発して昼時に西山公園に着ける自信はなかった。だめならどこか適当な場所でというつもりだったが、12時半ころにたどり着くことができた。まずは泡から始まったが、なぜかこのエビス、まったりと粘り着くような泡の舌触りがこれまで経験したことのないようなものだった。長い距離を背にゆられたからであろうか。

西山荘

光圀の隠居所である。震災で「平成の大修理」が行われたという西山荘を見学する。この辺りではまだ梅は咲ききってはいない。西山荘でやっと満開の梅を見ることができたが、それもごく一部に限られていた。

やっと見られた満開の梅

無料区域の先にある事務所で料金を払って核心部へ入る。渡されたパンフによると、西山荘は水戸徳川家のコレクションの維持管理を目的とする徳川ミュージアムの分館という位置づけらしい。

正門
光圀が日本史の研究に余生を過ごした西山御殿
 
光圀が全国から収拾した資料の書庫

太田(舞鶴)城趾・若宮八幡・旧市街

西山荘から長く佐竹氏の居城であった太田(舞鶴)城趾を目指す。佐竹氏は勢力の拡大にともない馬坂城から太田城へ移り、次に水戸城に進出して、最後に秋田に移封されるのである。西山公園や西山荘の位置する地区と、太田城趾の位置する鯨ヶ丘とは源氏川の渓谷で隔てられている。西山荘からは、いったん源氏川の橋まで下ってまた上りなおさねばならない。城趾といってもいまは小学校になっていて、石碑が建つのみだ。

常陸太田市立太田小学校
太田(舞鶴)城趾

舞鶴城趾で鯨ヶ丘を登り切ったことになるので、あとはその稜線に沿って旧市街を眺めながら常陸太田の駅へ向かう。

若宮八幡の大欅

ここの祭神は仁徳天皇(オオササギ)。八幡神である応神天皇の子であるから若宮八幡となる。源氏川を隔てて西山公園方面から望むと、ずいぶん立派な神社が見えたのはここであった。

鯨ヶ丘の家並みには大正から昭和初期にかけての歴史的な家屋が残っている。なかでも偉容を誇るのは旧市役所の常陸太田市郷土資料館(梅津会館)だ。梅津某という豪商の寄付で旧太田町の役場として建設されたという。

常陸太田市郷土資料館(梅津会館)

鯨ヶ丘の稜線に沿ってなだらかな坂を下ると常陸太田駅の立派な駅舎が目に入ってくる。5年ほどまえ、西山荘に観梅に訪れたときの旧駅舎に比べるとなんと立派になったこと。

斜陽を浴びた常陸太田駅

だいぶ欲張った計画で、前半の西山公園まででも十分と思っていたが、すべての目標を達成することができた。歩行距離は15キロ。観梅にはやや早すぎたが史跡訪問としては充実した内容であった。

本日はこれまで。

  
   
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