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高城修三著『神武東征』

一般的にいってわれわれは、神武天皇やその事績に関することは、神話の世界に属すると思っている。しかし、この本はそのような思い込みは戦後史学の呪縛だとし、神武東征が歴史的な事実であることを証明しようと試みているのだ。この本につられてWebを調べてみると、神武東征を含む古事記・日本書紀(記紀)の解釈については、正論、奇論、怪論を含めて百家争鳴というより百鬼夜行の体である。残念ながら批判的にこれらを読み通すだけの根気もバックグラウンドもないが、ハマってしまうだけの「毒」をたっぷり持ち合わせた世界であることは疑いなさそうだ。

記紀をおさらいしておこう。いうまでもなく古事記は四十代天武天皇の命で、天皇家の歴史(帝紀)、諸氏族の歴史(旧辞)を稗田阿礼が誦習し、太安万侶が筆録したものといわれている(現存する帝紀・旧辞はなく、その内容は推定の域をでない)。また、日本書紀は国の正史として、天武帝の皇子舎人親王や不比等らが中心となって編纂した。古事記は帝紀・旧辞を資料としたことが明記されているが、日本書紀には使用した資料の言及はない。当然、帝紀・旧辞も参照されただろうが、先行する資料として蘇我馬子と聖徳太子(馬子は太子の大伯父)が編纂した天皇記、国記がある。これらは、六百四十五年の乙巳(いつし)の変(大化の改新)で、馬子の子と孫にあたる蝦夷・入鹿親子が誅されたときに散逸したとされる。しかし記紀になんらかの影響を与えているだろう。文字や暦法の先進国である中国・朝鮮の歴史書も利用されただろう。風土記は、ほぼ並行して各地で編纂されているので、相互参照はなかったかもしれない。

現在の一般的な理解では、記紀の記述のうち、人皇初代神武天皇以前は完全な神話、二代綏靖〜九代開化までは、おそらく天皇家の威信を高めるため聖徳太子・馬子の創成した架空の天皇(闕史八代といわれる)、十代崇神以降は不確実なことが多いにしても実在性があり、十五代応神天皇(全国最多の八幡神社の祭神)は実在性濃厚といわれている。

著者の基本的なスタンスは、記紀の歴史的な意義の復活である。戦前に聖典とされた記紀が戦後の反動から必要以上にないがしろにされて、それによって国家・民族としてのアイデンティティまでもが失われてしまった。記紀の復権によって、そのアイデンティティを再確立したいという願望が著者にある。それが執筆の原動力となっている。この願望成就のためには、神武東征を含む記紀の記述を歴史的な事実として説明できなければならない。そして、著者は、日本古代史においてこれまで解決できない三つの難問(後述)があったとし、これらの問題を解決することで、記紀の復権をはかろうとする。

紀年論

古事記は天皇の崩御を干支で表記している。日本書紀は天皇在位期間を単位とする紀年法(平成…年のように)を使っている。それらを対応づけ、現在の暦年(ユリウス歴)に投影することが問題で、同じ天皇の崩御年でも記と紀でずれがある。とくに初期天皇の年齢(宝算)が百歳を超えているものがあり現実的でない(例えば、神武天皇は百三十七歳【記】あるいは百二十七歳【紀】で崩じたとされる)。

邪馬台国論

魏志倭人伝など中国史書にある邪馬台国や卑弥呼、中国名の倭国王に対して、記紀にある国や天皇を整合的に対応づけることができるか。邪馬台国には、九州説と畿内説があり、またそれぞれの内部で具体的な土地の比定にも諸説がある。

神武東征

大和王朝創生期に関する記紀の記述が歴史的な意義のないものとされているので、神武天皇やその東征についても同断となる。

これら三つの問題について、著者は、紀年論は『紀年を解読する』において、邪馬台国論は『大和は邪馬台国である』ですでに解決したとする。

紀年論の解決

『神武東征』でも簡単に説明されているが、著者のサイトが詳細である。文字がないのだから正確な記録は望むべくもなく、まして暦法などいわずもがな(我が国の暦法普及は七世紀初めの三十三代推古帝以降。朝鮮を経由して中国から輸入)。記紀の出来事の暦年を決めるには、暦法の確立している国外の記録(漢書、三国志―わけてもいわゆる魏志倭人伝の条、宋書、隋書などにある朝貢の記録)に頼るしかない。さらに、記紀の世界の紀元元年となる神武天皇の即位は辛酉年(紀元前六百六十)となるが、これにどのような根拠があるのか、などなど。これに対して、著者は次の要領で困難を克服する。まず記紀の基本資料は共通として、讖緯(しんい)説、春秋年、干支の読み替え(六十の倍数で変わる)、によって大きな違いを吸収し、細かな齟齬は天皇在位年数の数え方の違いで説明する。讖緯説とは、一千二百六十年ごとの辛酉の年に天命が革まり(革命の語の由来)王朝が交代するという中国の思想で、当時の干支から逆算して一千二百六十年前の辛酉紀元前六百六十年を神武即位の年とした。また、ある時期から以前は春分と秋分で年が変わる春秋年(一年が六ヶ月)が使われていたとして、あまりに長すぎる天皇の寿命を説明する(例えば、宝算百二十歳の天皇は、春秋年によると六十歳)。また、記と紀との天皇崩御年の相違を在位年数の数え方(元年を先帝崩御の年とするか翌年とするか)の違いによる誤差の累積で吸収する。一千二百六十年単位で起点を決めて、年数のカウントを二倍にして、さらに六十の倍数で調整をし、在位年の誤差で微調整すれば、おおかた合いそうなものである(失礼、冗談です)。こうして、例えば、宋書の「倭の五王」の記述とも合う記紀の天皇を選べるという(p252)。しかし、在位年数の数え方の違いはだれしも思いつくし、年数を倍にする説はすでに多くのアマチュアによって提唱されていて、学会からは単なる数合わせとしてほとんど評価されていないらしい。春秋年という暦法がどれほど歴史的に意味のあるものとみられるのだろうか。紀年論に関して、面白そうな本があったのでメモしておこう。倉西裕子著『日本書紀の真実〜紀年論を解く〜』で、Webの書評で見つけたのだが、なかななか。

邪馬台国論の解決

魏志倭人伝にある邪馬台国の位置についても同様の手法が使われる。方位の基準と距離の単位が、従来の常識とは違っていたとするのだ。当時、中国では南北軸を基準としていたが、日本では東西軸が基準であり、基準軸を同じと解釈したために方位に九十度のずれが生じたとする。そうして南は東に、東は北に置き換えられる。魏志倭人伝の「南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月」は、当時の外来使節が伊都国までしかきていないとして、伊都国を博多近辺とみなし、そこを起点して南を東に読み替えれば、邪馬台国は南九州ではなく瀬戸内海の行き着くところ「大和」となる。また、日本書紀を引用し、当時の日本の「里」は「一町里=約百九b」であったとする。そうすると同「帯方郡から伊都国までの一万五百里および伊都国から奴国をへて不弥国に至る二百里」の記述も納得できる。実際、帯方郡をピョンヤン近辺として博多からの直線距離をGoogle Earthで測ってみたが、ほぼ七百三十キロになる。実際には海路で大きく迂回するので倍近くになるかもしれないから、なるほどである。奴国、不弥国の距離も当時の博多近辺の小国家と見ればそのくらいか。

神武東征の解決

最後に残った神武東征が本書で解決されるわけだ。冒頭「神武天皇とはいかなる御方であらせられたのか」の問いが発せられる。この表白からして著者の姿勢が歴然とする。それはさておき、この手の議論には慣れないぼくなどには、新鮮な視点でなかなか説得力のある論が展開される。

岩波文庫の古事記が本棚にあったので「神武天皇」の「東征」の件をのぞいてみると八頁ほどの内容である。日向の高千穂宮から筑紫へ出発し、豊國の宇沙(宇佐)、竺紫の岡田宮と九州内を巡って(日向、筑紫、宇佐、竺紫と紛らわしく、この経路が問題)から、瀬戸内各地を経由して白肩之津(生駒山近くの港らしい。現在の大阪あたりは海中)へ上陸する。九州、瀬戸内の各地に数年ずつ止まってはいるがその記述は簡単である。しかし、白肩之津から先が苦難の連続で、すんなりと大和へ入ったわけではない。最初は、大和の豪族であろう那賀須泥毘古(ナガスネビコ)に撃退され、そのときの矢傷で兄を失い、熊野へ迂回し、さらに、高天の原から遣わされた八咫烏の導きで吉野へ抜けて(このあたり記の地名に混乱がある)、背後からやっと大和を攻略する。そして、白橿(木偏に壽)原宮(その跡に橿原神宮が建立されたのは明治時代)で即位して天の下を治めるわけだ。
記紀に出てくる東征の地名を現在のそれに比定する試みは、すでに戦前、バリバリの皇国史観の軛のもとで一応の決着はみているというが、それはさておく。まずは東征の出発地(天孫降臨地=高千穂宮)が問題になる。現在でも筑紫か日向か、あるいは薩摩か諸説あるようだが、本書では筑紫説で博多湾周辺としている。論証を追っていくとそのまま本文をコピーするようなもので意味がないが、博多湾周辺というのはすなおに納得できた。以前から、降臨地として「ここは韓國(からくに)に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日に直刺す國、夕日の照る國なり」が、日向や薩摩では変だと思っていたのだ。博多ならすんなりくる。日向も国名ではなく「日に向かう」土地で、博多付近の地名とすれば納得できる。薩摩や日向が「韓國に向ひ」はないし、これら熊襲の地が大和朝廷の膝下に降ったのは景行天皇と倭建命の時代なのだから、敵地のど真ん中に降臨はなかろう。薩摩や日向に旧跡が多いのは、記紀からの逆流だろうとみる(薩長主導の明治期には相当強引に我田引水をやっているようだ)。さらに詳細に降臨地を特定しているのだがそれは省略。

そのほかに、考古学的な援護もある。貝類の装飾品の出土状況から、二〜三世紀頃に博多近辺が、今日でいう物資流通のハブになっていただろう。その地を支配する筑紫連合王国は隆盛したが、祭器としては商品でもあった銅鏡(剣、玉)を使用した。一方、畿内は弥生末期に隆盛に達したが祭器は銅鐸だった。畿内では時代とともに銅鐸の出土が減り、銅鏡(剣、玉)の出土が増える。これは、筑紫連合王国の東侵を暗示する。さらに高地性集落(砦的な性格をもち戦乱の時代の指標)の遺跡状況から、戦闘の行われた地域とその変遷が推定できるが、これによっても東征が裏付けられる。考古学的な資料からは、二世紀半ばには東征は終わっているはずになる。

出発点が確定し、東遷の裏付けもできたとすると、その時代はいつ頃だったろうか。すぐに思いつくのは中国史書の「倭国大乱」(男王が続いて国が乱れ、それを収めるため女王卑弥呼を共立した)を東征に当てはめることだ。しかし卑弥呼は、三世紀前半頃に在世とされているので、二世紀半ばに終わっているとする考古学的な資料と整合しない。ここで著者は、『紀年を解読する』からの引用で「崇神崩年二百九十年」説を持ち出す。神武〜崇神の世代数十を信じれば平均在位年数を掛けて神武の時代が逆算できる。平均在位年数の割り出しは結構手が込んでいる。親子相続でなく兄弟相続の可能性も加味し、同時代の他の家系の世代数なども勘案する。そして、神武即位は百四十三年ころ、それに先立つ東征は二世紀半ばを導いている。

まとめ

主な結論は、二五五頁以降に要約されているが、自分なりにまとめてみると、次のようになる。

@ 神武天皇は二世紀頃、福岡の博多湾周辺に成立していた王朝の王である。

A 神武東征とは、この王が北九州から瀬戸内海を経て、大和(生駒山の西山麓)へ侵攻することをいう。

B 東征を境に、博多王朝時代の伝承は記紀神代の神話となり、登場人物は高天原の神々となる。

C 直接大和へ侵攻できず、熊野、吉野を迂回するが、熊野迂回は記紀の付会で、実際には紀ノ川を遡上して吉野から侵攻した。

D 大和へ入ってもさらに奈良盆地に割拠する豪族の平定に腐心し(その過程が「久米歌」記、「来目歌」紀)、最終的には諸勢力の均衡の上に、神武は橿原宮に即位する。このとき帰順した豪族が、のちの大和朝廷の重臣(物部、大伴など)となる

E  闕史八代は、大和王朝がさらに畿内を平定し、さらに瀬戸内、九州南部を平定する過程で出現した諸天皇である。

F  とくに七代孝霊天皇のときに、畿内から九州北部へかけての連合国家としての邪馬台国が成立し、その成立過程の抗争が中国からは倭国大乱と見られた。また、大乱を収拾する呪術的象徴として孝霊の皇女倭迹迹日百襲姫(ヤマト トトヒ モモソヒメ)が国家の祭司となった。これが卑弥呼である。

G  さて、神武東征の時期は、さきの紀年論でも触れたように紀元前六百六十年はありえず、「崇神崩年二百九十年」説から逆算して二世紀半ばとする。

以上のように、さまざまな資料を縦横に駆使してなかなかの論考だとおもうのだが、とくに面白いと思ったのは、延喜式の神名帳にある神社(式内神社)の所在地と祭神をうまく地名比定の論拠に利用していることだ(著者の独創ではないが)。日本の神は、実在の人物を神格化したものが多い。その伝で、記紀に登場する人物や氏族と現在まで続く式内社の祭神や祭司家の関連を見て、それらの人物、氏族の活躍した土地を推定する。この論法が、天孫降臨の地、東征の九州内経路、瀬戸内東遷、吉野川遡上、大和への侵入など各所で上手く使われている。もっとも、地名と神社くらいしか手掛かりがないこともあるだろうが。神話を含む伝承・説話には、少なからぬ真実があるはずと、ぼくは思っているので、このあたりほとんど納得してしまった。

もうひとつ、神話・説話の増殖と変容についての説。異なる民族が出会って新しい社会が生まれてくるとき、生物としての人間は生殖を通じて民族間の融合をはかる。例えば、征服民族の首長は被征服民族の首長の娘を娶るなど。そして、新しい社会は新しい文化を生むわけだが、その一面として、両民族が独自にもっていた神話・説話の統合がはかられる。これはギリシャ・ローマ神話を多少かじっていればすぐ納得できる。この本を読んでみると、この狭い日本の神話の中でも同じことが起こっていたことがわかる(こちらが無知なだけでほとんど定説らしい)。例えば、日向三代といわれるニニギ、ホオリ(山幸彦)、ウガヤフキアエズを例にすると、いわゆる海幸彦・山幸彦の説話は、天孫系の民族(農耕系)が海洋民族を併呑したときに付加されたという。この場合、本来天孫ニニギの子がイワレ(カムヤマトイワレビコ 神武)であったものが、ニニギとイワレのあいだを分け、その間に海神ワタツミの娘を娶るホオリ(山幸彦)とウガヤフキアエズが挿入されたとする。その証拠は多々あるが、そのひとつとしてホオリとイワレが、実名(諱)のヒコホホデミを共有しているというのだ。説話のなかでも、兄である海幸彦は、最終的に山幸彦に従属しこれを守る。また、同じ伝で、神武はまた和風諡号としてハツクニシラスをもつが、これが十代崇神と共通する。実は、これが闕史八代の傍証ともなっているのだが、この場合、著者はそれを認めない立場であるから、諡号について延々の議論・引用があって別人となる。打々発止である。ほとんど言葉遊びの一面もあるのだが、言葉は想像以上の実体を帯びることがあるとおもうぼくにとっては興味深い。

本書を離れて、少し脱線だが神話・説話の変容ということでは、天照大神にも同様な話がある。天照は自分の子ではなく孫のニニギに地上の覇権を委ねるのはなぜか。この関係は、記紀の時代の女帝持統が子の草薙の早世によって孫の軽皇子(文武)に世継ぎをするパターンとパラフレーズできる。この変則バトンリレーを正当化するために、時の権力者の意を反映して天照がねつ造されたのではないかという説である。実際、天孫降臨の指令神は天照でなく別の男神(タカミムスヒ)であるとする記載は日本書紀には複数ある。

だらだら長くなったが最後にひとこと。著者は、日本文化の骨格をかたちづくるものとして、「多彩な季節感」「変幻自在の美しい日本語」とならんで「万世一系の天皇」を挙げている。とくに最後の語句についてはたびたび言及している。厳密にどういう意味でこの語句を使っているか著者自身が定義していないので判断できないが、皇統の変更p222や途絶p208などは認めているようだ。あるいは皇統の連続性は血統の連続性を必要条件としないのか。万世一系の論証は試みていないのだけれど、古代史の謎を解けばとくほど、このことに関して遠ざかってしまうと思うのだが。

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