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我が家は神道であった

遡れば明治維新へ

我が家は神道であった。いちおう、そういうことであるが、自分は「佃煮と宗教は過去の遺物である」という冗談が気に入っているほど、無信心である。ただ、神道は嫌いではない。宗教を好き嫌いというのは、見当違いかもしれないが、心情としてそうなのだからいたしかたない。子供のころから、神様の前で柏手を打つ。これが習慣になっていた。神棚の前でも、墓の前でもそうだ。仏教というと、線香の煙に燻されて怪しく黒ずんだお堂がイメージされるのだが、神道のほうは白木の神棚、緑の榊、白い弊紙など、なんとなく清潔な印象が好ましく思い浮かぶ。こればかりは、子供のころにインプリントされたもので変わりようがない。母の実家は浄土真宗大谷派(東本願寺)の寺で、母方の祖父は還俗したが、もとは芳翠という坊主だった。そのせいで、祖母はなにかというと“南無阿弥陀仏と唱える、それだけでいいのだ”と、口癖のようにいっていたが、その影響は自分にはないようだ。

長ずるに及んで、神道というのがさほど一般的な宗教ではないことに気づいた。キリスト教とイスラム教が、個人の中で併存することは考えにくいが、だいたい、普通の日本の家庭では、神様仏様で、神棚と仏壇は両立している。日本人は神棚で拍手し、仏壇で手を合わせるのはなんの違和感もない。ただ、どちらが「宗教」かといえば、仏教であろう。しかし、家には神棚はあったが仏壇はなかった。ではなぜ神道だけだったのかという疑問がわいた。とはいっても長いことぼんやりした疑問としてやり過ごしてきたのだが、近頃、先祖返りではないが、リービ英雄に火を点けられて、万葉の時代に興味が向くようになると、必然的に在来の神道と渡来の仏教との関係にも興味が及んでいった。

まことに味気ない理由だが、アマゾンで何かの本を取り寄せるついでに、送料を無料にする埋め草として岩波新書の村上重良著『国家神道』@を、さらに検索リストで目についた同義江彰夫著『神仏習合』Aを買った。まず『国家神道』を読んで、なぜ我が家は神道かの疑問は簡単に解決した。およその見当はついていたが、客観的な証拠が見つかったのだ。それは、明治維新に端を発する。まだ幕藩制にあったころに、我が家は津和野の藩士であったが、その藩主が神道に改宗し、藩命により、藩士もそれに従ったというのが理由である。
  ※ 内容としてはむしろAが圧倒的に面白かった。また別稿でまとめてみたい。

同書に「薩摩、津和野両藩の排仏」の項があり、そこに次のようにあった。

津和野藩は、山陰の小藩であったが、藩主亀井茲監はみずから国学を奉じていた。同藩では一八六四年(元治元)から寺院の統廃合に着手し、一八六七年(慶応三)には、藩主と藩士の葬祭を神道とすることをさだめた。 @p-82〜

つまり、このとき神道へ改宗したというのが事実のようだ。たんなる改宗だけではなく、廃仏的な気配の濃厚なそれであったようだ。

『国家神道』では茲監(これかね)とルビしてあるが、後述『於杼呂我中』によれば茲監(これみ)である。後者は、正式な伝記なので“これみ”が正解だろう。

では、もとの宗教はなんだったのか。ぼくは津和野へは一度しかいったことがないが、そのとき先祖の墓を探してみた。そのときは見つからなかったが、あとで当時の本家の当主に話を聞いたところ、かつては浄土宗の光明寺という寺の檀家であり、一族の墓所は寺の境内ではなく、山中奥深くにあるとのことだった。最近、本家の又従兄弟が実際に調べたところ、墓所には三十四基の墓があることがわかった。墓所へは道もついていない状態であったので、現在は、多磨墓地に五輪塔を建てて改葬してある。

明治維新と津和野藩、そして神道

話は飛躍するが、亀井茲監には『於杼呂我中(おどろがなか) 亀井勤齊伝』という伝記がある(勤齊は茲監の諡号)。書籍として明治三十八年に出版され、編者は旧津和野藩士で国学者の加部巌夫である(国立国会図書館デジタルアーカイブにも一部収録)。ネットで検索すると古書としていまだに流通しているようだ。贈呈された一冊が本家に残っている。じつに千ページを越える長大な伝記なのだが、これを借り出して、全ページをスキャンしてデータベース化した(わたしも暇だ)。いくらなんでも、全部を読み通すほど暇ではないが、あちこち拾い読みすると、面白い個所がいくつかある。

表紙表題送呈
於杼呂我中 表紙表題送呈

名君亀井茲監

ざっと目を通しただけだが、亀井茲監というひとはなかなか面白そうな人物である。書名の於杼呂我中は、冒頭にある茲監の詠んだ歌からきている。

しげりあふおどろが中もしをりして奥ある道を人にをしへん p-11

(繁茂した荊だが、それをかき分けて、その奥に道のあることを世に示そう)

注:“おどろ”は荊棘のこと、“しをり”は枝折りだろう。以前見たときはちんぷんかんぷんだったが、リービ英雄のおかげというか、万葉集のおかげというか、今回見るとなんなく理解できた。

おどろがなか
おどろがなか

茲監は、久留米藩の藩主有馬家の四男として生まれて、天保十年、十五才で亀井家の養嗣子となり、先代茲方(豊鶴)の隠居に伴って、同年中に襲封して十一代亀井藩主となっている。なお、同腹の兄有馬頼永(義源)はのちに十代久留米藩主になり、名君と評されるが二十五才で早世する。兄弟の仲はすこぶるよかった。茲監も兄に似たようだ。顕彰目的の伝記だから誉めるのは当然だが、上記の歌からしても、その気概は推察はできる。

 単一に、賢明と称する形容詞をもってするの資質に止まるに非ずして、剛毅明敏、英断果決に富まれつれば、…………皇室の式微を嘆じ、幕府の専横を憤り p-68

候は、兄義源君と共に文武を兼修し、傍ら散楽等の末技にも、精通せられつる而己ならず、国家経綸に欠く可からざる、天文暦数の学をも好みて、数学は最も其所長なりしが、…………p-39

注:カタカナは読みにくいので平仮名にした。
散楽は、能楽のこと。

単一に、賢明と称する…0038.jpg (166294 バイト)
単一に、賢明と称するに…候は、兄義源君と…

数学を好んだとは注目に値する。当時の武士の風として、勘定に精通するなどはあまり誉められることではなかったが、藩の財政面も正確に見通せたことだろう。ただ、江戸末期の一般的な大名家の習いとして、藩主が直接に藩政に関与することは少なかった。先代の茲方も、主席家老多胡丹波に実政をゆだねていたようである。家老とはいっても、元をたどると多胡一族の一人が亀井を継いでいるくらいで、藩主に劣らぬ格式(連枝格)があり、丹波も“学識技芸もまた拙なるなからず、事務に練達する”優秀な人物だった。そこへ文武に秀でたとはいえ、他家から入った若干十五才の茲監が登場し、颯爽と藩政の改革を断行しようとした。当然、相当な軋轢が生じる。江戸から国許へ送った親書が無視されて、丹波に握りつぶされるという事件などがあった。しかし、茲監は最終的に多胡家の連枝格の待遇を廃し、丹波を隠居させることに成功している。

ここで『於杼呂我中』の冒頭にある茲監の写真をお見せしよう。なかなかの風格がある。近頃、国民新党の幹事長としてご活躍の亀井正興氏は茲監の末裔であるが、この写真に比べると、親しげな近所の小父さん風にみえる。茲監の嗣子茲明も養子で、正興氏は玄孫になるから風貌の相似は望むべくもない。茲明も西周の薫陶を受けて日本の美術史に足跡を残している。

亀井茲鑑
亀井茲監

脱線するが津和野は歌舞伎と因縁が深い。歌舞伎の代表的演目といえる『仮名手本忠臣蔵』では、塩治判官と大星由良之助の主従が軸となって話は進むが、同じ主従でもその対照的なサイドストーリーの主役が桃井若狭之助と加古川本蔵である。家老加古川本蔵は、勅使接待に先立って高師直に賄賂を贈り、そのおかげで主君である桃井若狭之助は命拾いをする。その本蔵のモデルは亀井藩家老の多胡真陰であり、若狭之助のモデルが第三代藩主の亀井茲親ということになっている。忠臣蔵は元禄時代の話だが、藩主亀井と家老多胡の関係は幕末まで続いていたことになる。

また、『加賀見山旧錦絵』は、津和野に近い浜田藩の江戸藩邸で起きた事件がもとになっているが、そこに登場する悪女の代表岩藤もモデルとなる実在の女性は津和野出身である。

教育への傾注と多士輩出

閑話休題。実権を握った茲監は、藩士の教育に傾注する。天保十年八月に襲封後はじめてお国入りして親政に臨むが、まず先君の遺例として、治下の士民に対して、儒学者の藩士よる教典の購読をおこなわせている。十五才だよ! なかでも藩校養老館の拡充に力を注ぐ(p-179〜)。教育の施設と制度を拡充し、世襲の凡庸な教員を格下げして実力者(岡熊臣など)を抜擢、教科の整備(国学、医学、数学、兵学、その他武芸)などを次々と実行している。また、優秀な藩士を各地に派遣してさまざまな学問を身につけさせている。その成果として、西周、森鴎外などの逸材を輩出している。

なかでも、野之口仲(のちの大国隆正)は注目に値する。はじめは、津和野藩士として平田篤胤の門人となったり、昌平黌へ入ったり、本居宣長の門人の門人となったりしたが、いったん脱藩している。さらに各地に遊学して諸学を修め、やがて、崇皇敬神の教理として「本学」を建てて有名となる。それが茲監に評価されたのだろう、乞われて藩籍に復帰している。『於杼呂我中』に野之口仲の学事に関する意見書が見える。養老館に「本学」の科を創設することに関する意見である。

古事記、日本書紀は、我 天皇之後系譜にて、天地造化之真伝に御座候所、数百年、埋居申候事時運と奉存候。近来、本居・平田両先生之発明多、打続、私共、刻苦仕、追々古義を発明仕、政綱より、人倫之道、万物之窮理迄、此書に備り、宇宙第一之実典と申事、追々世にしられ、尊 皇攘夷之道、是に依りて明に相成り申候事に御座候。当時、世間一般、儒学盛に御座候へ共、儒学は、本と支那より渡り申候外来物に御座候へば、日本之古道を、大道に建、外来之儒学を小道と見可申之所…………(嘉永三年六月 p-180

注:文中の天皇、尊皇で、“天”、“皇”の前が空いている。これらの文字の直前に別の文字を置くのは畏れおおいということだろう。筆者も編者も国学者だけに芸が細かい。

古事記、日本書紀は…
古事記、日本書紀は…

論旨は、本居宣長、平田篤胤の国学の流れを汲んで、古事記、日本書紀を究極の原典とみなし、尊皇攘夷の道としての日本之古道を推奨している。@に「茲監はみずから国学を奉じ」とあるのは、こうした国学者の影響のことをいっているのだろう。

国家をあげての神道への傾倒

明治維新は、国家体制からみると幕藩制を廃して天皇親政を樹立することだし、イデオロギー的には尊皇攘夷である。その思想的な支柱となったのは、平田篤胤らの復古神道であり、茲監の場合、それを大国隆正を経由して吸収したのだろう。

岩波新書の末木文美士『日本宗教史』Bには、次のようにある。 2007/11/29追記 

とりわけ幕末から明治にかけて大きな影響力を持った神道家が大国隆正である。津和野藩出身の隆正は、キリスト教に対抗するものとして、神道に基づく祭政一致を主張した。外国の文化の入る以前の純粋な神道に戻るべきであるというその主張は、明治初期の宗教行政に大きな影響を与えることになった。Bp-175

その時代背景を『国家神道』では、おおむね次のように記述している。

庶民レベルでは、王政復古前年の1867(慶応三)年に、「ええじゃないか」騒動が全国各地で勃発する。

踊りつづける民衆は、「ええじゃないか」で終わる卑俗で投げやりな文句の歌を高唱し、土足で地主や富豪の家にあがりこんで、酒食をふるまわれた。この乱衆行動は、全国各地で、既成の支配秩序を混乱に陥れ、封建支配を一時的に麻痺させた。@p-83

この騒動の伏線として、伊勢神宮参拝の御蔭参りの風習がある。とくに江戸後期には60年周期で御蔭参りの流行があったらしい。御蔭参り自体、日頃は、自由に移動のできない庶民が、伊勢参りに限って、主家や領主に無許可でも旅行ができるという、秩序破壊的な素地をもっていた。逆にそれが許されたのは、厳格な封建制度に対する一種の安全弁とみなされたからだろう。ただ、「ええじゃないか」の場合、その規模と程度において従来の枠組みを超え、庶民の断末魔の絶叫に近いものだった。その根底には、封建制で長年抑圧された庶民の不満が頂点に達していたこと。それと、諸外国からの開国要求を、庶民は、得体の知れない外界からの恐怖として肌で感じ、なんら効果的な対策をとれない幕府にたいし、「日本の祖神アマテラスオオミカミの神徳で、一挙に世がかわるという神政への待望が、広範な底辺をつくっていた」@p-83のである。

また、支配階級のレベルでは、「倒幕の前夜には、幕府の権威はとめどもなく失墜し、天皇の古代的宗教的権威の復活が、幕藩制支配の打倒という政治目標と直結して進行した」@p-81。そして、外圧に対して、「朝廷は、有力神社の例祭に頻繁に奉幣して国安を祈り、また宮中の神殿である内侍所(賢所)をはじめ、二十二社等の有力神社で祈願を行った」@p-81。つまり、支配者にも神頼みしか打つ手はなかった。

津和野出身者の活躍

こうして、庶民のレベルでも為政者のレベルでも、日本古来の神道へ限りなく傾斜していった。幕藩制から王政が復古する過程で、新しい政府組織がどう構成されたか。『於杼呂我中』では次のように記している。

(事変を察知した茲監は)直に、兵を提て京師に入るに、事既に定まれり、慶喜、海路東に奔る。 王政復古の基礎が茲に定まり、法令、官制悉く改まり、万機、 親裁に決す。是時に当り、人皆、 王政復古を口にするも、其依る所の標準に至りては、漠として定まらず。或は、建武の中興を謂い、或は、大化の革新を説きて、喧々諤々、衆議の帰一する所を知らず。時に岩倉具視公、玉松操が言を納れ、復古の標準を、 皇祖神武天皇の創業に取り、鳥見山の古に傚い、先ず、神祇を奉齋して後、政事を行はんことを主張せられ、廟義、此に一定し、 伊勢神宮及 神武帝稜に、奉国使を差遣せられ、神祇官を以て、太政官の上に置かれ、議政・行政の二官以下、其他の官制を定められしが、当時、津和野藩主亀井茲監、神祇副知事官事に任じ、藩士福羽文三郎を薦めて、判官事に任じ、専ら、官中の事に当たらしむ。 p-130

注:玉松操 大国隆正の門人だが、のちに決別。具視のブレイン。
鳥見山 奈良県榛原町の山。神武天皇が皇祖天神を祀った山。
福羽文三郎(美静) 同じく隆正の門人。

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直に、兵を提て京師に…

これを読む限り、すっきり制度として神祇官が決まったように書いてあるが、このころの政府の組織は朝令暮改である。慶応四年(明治元年)から明治四年までのあいだだけでも神祇事務科→神祇事務局→神祇官→神祇省→教部省と変遷している。茲監の神祇副知事官事は神祇官のときだ。慶応四年から明治二年までその職にあり、福羽美静にバトンタッチしている。

“官”というと、現在では、事務次官というように人をさすが、この神祇官は組織の意味で、大宝令で太政官とともに制定された官庁を意味する。それを明治時代に王政復興の流れの中で、復活させたわけだ。

神祇官(祭事)を太政官(行政)より上位に置いているが、多分に観念的で実効性はなかった。また、構成メンバーは、トップには名誉職的に公家が就き、あとは同床異夢で、復古神道(平田派神道)、白川神道(宮中祭祀を司る)、吉田神道(全国の神社を管掌し神職の任免を司る)など利益代表の集合体だった。この復古神道のグループに含まれる亀井茲監、大国隆正、福羽美静はすべて津和野藩関係である。なかでも関与する期間が長く、実務面での実績が大きかったのは福羽美静のようである。茲監は、功績により子爵(五万石以下の大名)から伯爵に陞爵し勲三等、最後に従二位を贈られているが、美静は子爵、従二位、勲一等、貴族院議員となってることからも、その評価がうかがえる。

要するに神祇行政の実務は、津和野出身者が重要な役割を果たしたようなのだ。これも茲監の先見の明によるものだろう。強大な長州藩に隣接し、尊皇と佐幕の間を揺れ動く、津和野という小藩が生き残る道を学問に求めた。その成果として、多くの有能な人材を輩出し、国家の思想的方向付けの一翼を担ったのだから。

亀井茲監とわが先祖

津和野藩士であった曾祖父橋元至矣(ゆきお)は、藩主亀井茲監に番頭(ばんがしら)・側用人として仕えていた。手書きの『橋元夾介昌文 由緒』には、“番頭知行百四拾石側用人役”とある。番頭や側用人などの役職といい石高といい、なにやら『三屋清左衛門残日録』を思い出す。百四拾石とは微禄のようだが、四万三千石の小藩で、「藩士卒階級」p-157によると、家老→中老→番頭(物頭)→寄合→馬廻→……となっている。曾祖父は、はじめ鉄三郎、次に善右衛門、側用人になってから、茲監から名前を拝領し夾介、次に至矣と名乗っている。昌文の名もある。『於杼呂我中』送呈状に見える昌矣(まさお)は、至矣の嗣子で、祖父の長兄。さすがにこの代には亀井家を離れて東京天文台の研究者となっている。

茲監の伝記『於杼呂我中』の「從二位勳三等亀龜井君薨去の記」p1053〜には、次の件がある。すでに明治の御代だから、役職としては、番頭とか側用人ではなく、家扶とか家令代が使われている。

三月の十四日のひ、午前十一時ばかりかはやへいらせ給ひつつ、常にかわりて、いとながく出させ給はねば、みとも人、橋元ノ至矣 家扶なり あやしと思ひて、みそかにうかがい見しに、みここち常ならぬさまなれば、うち驚きて………… p-1054

この事、いつか、みかどにも、きこしめしけん、同月の十七日のひに、従二位に、御位すすめ給へり。かかる事どもも、わき難くやましますらん、みここち、いかがと、おぼつかなく、おもひやりしに、御側につかふる橋元ノ至矣が、ふところ紙に、かきうつして見せ祭りしに、某事と、しらせ給ひて、御手にて、二の字をささせ給ひて、うなづかせ給ひし由にききつるは…………   p-1056

喪主、従五位の君、喪服き、わらぐつはき、杖つきながら、あゆみ給えり。どもびと二人、白き直垂きたり、次に、亀井ノ茲迪ぬしも、従五位のきみと同じさまにて、みともつかへらる。次に、家令代、橋元ノ至矣白き直垂きて、みともす。………… この人と、三十とせあまり八年がほど、よるともいはず、ひるともいはす、みそばにつかえし、橋元ノ至矣とは、ことさらに、深きなげきに沈みしなるへし。  p-1065

注:薨去の記は、平仮名で書かれていて漢字は少なく、ノリト風の文体。

三月の十四日のひ…この事、いつか、みかどにも…この人と、三十とであまり…
三月の十四日のひこの事、いつか、みかどにも…この人と、三十とであまり…

瀕死の床にあった茲監に、天皇から従二位が贈られたとの報が届いた。意識も朦朧としている茲監に、至矣が懐紙に “従二位”と 書いて見せると、茲監は二の字を指さして頷いたという。君臣のあいだとはいえ、三十八年間昼夜を分かたず身近に仕えたとあれば、曾祖父にも相当に深い思い入れがあっただろう。茲監から“馬と夾介は嘘をつかない”と評されるほど実直に仕えたようである。このような君主が神道を奉ずれば、たとえ藩命でなくても、臣下として右へならったのではないか。

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