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靖国夜桜能 雑感

靖国神社の『夜桜能』は、ほぼ毎年観ている。野外能は環境条件が難しくあまり観る気にならないが、靖国のこの催しだけはべつ。屋外の能舞台が桜林の真ん中にあり、その桜の花時にあわせて会が開かれる。満開の、あるいは、散りゆく桜のもとでの能を観るというのは、あまりに通俗すぎてミーハー的といわれようとも(たしかに、客層が普通の能とは違う)、こればかりは捨てがたい。“ほぼ毎年”というのは、人気の催しなので、申し込んでも抽選に外れたり、よい座席が取れずに諦めたりすることがあるからだ。屋外の能舞台で、客席は地べたに折りたたみの椅子を並べただけだから、場所が悪いと舞台がほとんど見えない。昨年、一昨年は、桜の咲き加減は絶好だったのだが雨で日比谷公会堂での公演となった。今年、桜はまだ散り始めたばかり、気温も温暖で風もなく、絶好の条件がそろった。しかも、最前列のよい席が取れた。

当夜(2008/04/03)の演目は、次のとおり。

仕舞『八島』 梅若晋矢

狂言『樋の酒』 野村萬、野村万蔵

能『巻絹』 梅若六郎

当然、最後の能が会の主眼である。しかし、シテの名手六郎が初めて見るような不調。出端から緊張感がなく、姿勢が不安定で、所作の切れが悪い。いつもなら優美な舞を、どこまでも続いてくれと思うほどなのに、飽きてしまった。こんなに悪い六郎は初めて。

この晩は野村萬のしみじみとした味わいに酔った。若い頃から萬を観ているので、彼の表情や動作のそこここに思い出が蘇ってくる。彼の笑顔に引き込まれて、こちらも顔の筋肉がゆるむ。父六世万蔵の闊達で大きな芸とはまた別の芸境に到達した感がある。橋がかりを去るとき、地謡座から舞台にかけて桜吹雪が吹き込んで、まるで萬を見送るようであった。

ところで、近くに不愉快な客がいて興が殺がれた。関係者とおぼしきものが席まで挨拶に来るのだからなにがしかの男なのだろうが、やたらに口うるさい。隣の奥さんに話すそぶりで、終始文句をいっている。曰く、“見所の着席が遅くて気分がそがれる”とか、“曲が終わった後の拍手は無用だ”とか。ご意見ごもっともで、耳障りではあるが、多少は能を観ているのかなと思った。ところで、演目のあいまに、係の女性が数名、吹き込むサクラの花びらを掃除に舞台に入った。それを見て、この男“能舞台に女は入れないもんだ”とほざいている。これで馬脚が現れた。江戸期まではそうであったかもしれないが、現在では女流の能楽は立派に成立している。相撲と勘違いしているのか。あげくは、最後の曲で、“出口が混むのがいやだ”と捨て台詞をはいて、囃子方が橋懸かりへもたどりついていないのに席を立ち、砂利音を響かせて眼前を横切っていった。まったく、耳障りなだけでなく、ひとの感興の邪魔までする嫌なヤツだった。

能では、演目が終わってから、演者全員が長い時間をかけて橋懸かりを引き上げる。この終わり方は、他の演劇にみられない。慣れないと、いったいどこで拍手をしていいかとまどうだろうが、ぼくは能狂言で拍手をしたことはない。一曲のトメ拍子がはいってから、全演者が静かに舞台から去ってゆく。その間、曲の余韻にしみじみと身をゆだねる。これは能独特の鑑賞のしかただと、個人的にはおもっている。だから拍手はしない、というか、手を動かすことが沈潜の邪魔になる。もっとも、余韻に浸るどころか、あくびを噛みしめるほうに精一杯という演技もあるから、“だれも拍手をしてならぬ”などとは思わない。したいひとはご自由に。

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