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ヴェーダの伝承とデジタル記録の類似性

わが家がなぜ神道であったかのルーツ探しはあっけなく片付いたが、その先が果てしなかった。まず日本の神道が神仏習合を経ずして存立しえなかったことに気づき、相手の仏教について知りたくなった。仏教とくればまず釈迦について知りたい。しかし、いろいろ調べれば調べるほど、わからないことが増えてくる。一番気になったのは釈迦が輪廻転生をどう捉えていたかという点だが、そうなると釈迦の時代の思想風景を調べねばならない。その先は、まさに芋づる式にインドの風土、つまりヒンドゥー文化の淵源を探り、バラモン教にまでたどり着いた。バラモン教は、インドへ渡来したアーリア系の民族がインドへ持ち込んだ宗教だ。その宗教の中心にヴェーダという聖典がある。ここで、はたと行き詰まった。近所の図書館で閲覧できるものを、かたっぱしから斜め読みしただけであるが、所詮調べられるものは日本語の文献にすぎない。結局はサンスクリットが、ヴェーダ語(ヴェーダに使われている言語。サンスクリットの源流)が、分からなければ、その先へは進めない。英語ですら専門分野以外は心許ないというのに、新たな言語習得など想定外。そこで尻尾を巻いて引き下がり、仏教の思想的な変転を辿り直す途にいまあるのだが、いつまでたっても終点は見えない。

この文章で触れているヴェーダについての情報は、ほとんど下記の資料に基づく。
(1)『ヴェーダ文献の原典・伝承と研究・解釈』 後藤敏文
(2)『伝統的インド古典学』 後藤敏文
この2つの文献はネットに公開されている。検索可能

 ところでインド人というのはとても面白い発想をする。ゼロの概念をインド人が考え出したのは有名だ。現代数学風に一般化すれば、ゼロは、集合に定義される演算の単位元に関わる。また、ゼロは仏教の“空”の思想にも通じているが、ここで取り上げるのはその話しではない(サンスクリットでは、空もゼロもシューニャと同じ語をあてるという)。あちこち、よたよた拾い読みしているうちに、先端のコンピューター技術が使っている手法を、すでに2000年以上前のインド人が考えつき実用的に供していたことを知った。これは新鮮な驚きだったし収穫だった。それを紹介しよう。

ヴェーダについて

ヴェーダについて簡単に説明しておこう。現在のインドはヒンドゥー教の国家といわれるが(人口の80%以上がヒンドゥー教徒)、このヒンドゥー教の元となったのがバラモン教で、その聖典がヴェーダである。現実のインドは多民族・多言語国家だが、われわれが抱くインド人の代表的イメージは色黒のアーリア系人種だろう。ヨーロッパからイランを経由してインドへ到達し、インド先住のドラヴィダ族(これ自体もインドへの渡来民族)などオーストラロイドと融合して現在に至っている。

ヴェーダは、そのアーリア人たちが、おそらくインドへ到達する以前から信奉していた神への讃歌が原点であり成立年代を異にする4つのヴェーダがある。その最古のものをリグ・ヴェーダ(讃歌のヴェーダ)といい前1500から遅くとも前1000 年頃までにインダス川上流域で編集が完了したという。

残りのサーマ(歌詠)・ヴェーダ、ヤジュル(祭詞)・ヴェーダは、讃歌(リグ)を神に捧げる祭式の発展に伴ってヴェーダから派生したもの、最後のアタルヴァ・ヴェーダはやや趣を異にして民間に行われていた呪文の集成である。ヴェーダの本文はサンヒターというが、それに対してブラーフマナ(注釈書)、アーラニヤカ(森林書)、ウパニシャッド(奥義書)が付属するという構成を取る。

ちょっと脱線するが、ヒンドゥー教、そしてもちろんバラモン教の基本思想と考えられている輪廻転生の考えは、もっとも古いヴェーダであるリグ・ヴェーダにはない。そのなかでは、死後は楽園にゆき先祖と暮らすと考えられている(3)。輪廻転生は、前600年ころになって、あるウパニシャッドに登場する。ということは、輪廻転生は、インドの先住民族の文化の影響によってバラモン教、ヒンドゥー教に萌芽した考えと思われる。輪廻転生は、仏教にもそのまま流れ込んだが、はたして原点たる釈迦はそれを認めたのかどうか、いまだに議論が尽きない。

(3)岩波東洋思想史 インド思想 「輪廻と業」p-278 井狩彌介

ヴェーダの本文(サンヒター)は、神からの啓示によって人に授けられたものであり、その天啓を最初に受けた人の家系が祭官となってヴェーダを伝承したとされる。だから、4つのヴェーダにはそれぞれを伝承する祭官の家系が決まっている。ところで、その伝承は文字としての記録ではなく人の記憶によって口伝された。サンヒターは正しい発音とアクセントで読み上げることで本来の力を発揮すると考えられたからだ。そのどきどきの祭官が、父から子へと口伝した。そのとき父は、子の傍らに立ってその頭を掴み、韻律に従って、車のギアチェンジのように息子の頭を動かしたという。音声として正しく再現されないと讃歌としての効果がないばかりか災いを招くと信じられた。

ここで、また脱線だが、発声された言葉を最重要視する伝統は、仏教のなかでも密教に濃密に残されているようにみえる。密教では“真言(マントラ)”が言語の意味を超越した力をもつとされるが、マントラはまさにヴェーダ、サンヒターの祭式用詞句を指している。

サンヒターは「続け読み」で記憶された(サンヒターの意味が続け読みのこと)。つまり英語のように単語に別れず、文章の切れ目もない。一つの讃歌は先頭から掉尾まで文字が繋がっているのだという。実はこの伝統はそのままヴェーダ語からサンスクリットにも引き継がれている。ヴェーダには関係ないが、例えば、法隆寺に伝わる般若心経の貝葉本は、次図のようになっている。切れているかに見えるのは綴じ穴を避けているためで文言の区切りではない。サンスクリットの研究者にとって最初の壁は、この区切れのない文字列を単語に切り分ける作業だという。

法隆寺に伝わる般若心経の貝葉本(サンスクリット)

ヴェーダ伝承の仕組み

この「続け読み」に続いて、これを単語に区切る作業が行われた(前600年頃らしい)。われわれの常識は、まず単語ありきだから、順序が逆のように思える。しかし、数百年を「続け読み」で伝承され、しかも単語と単語の間は、フランス語でいうリエゾンのようなもので音が変化して結合しているので、単語の切り分けはそう簡単なことではなかった。ヴェーダの歴史上特筆すべき作業だったらしい。

これでヴェーダには、「続け読みテキスト」と「単語テキスト」のバージョンができた。そして、ここから本題になるのだが、さらに進んで単語テキストの単語を重複させて順序を入れ替えたテキストが作られたという。それもいくつかのバージョンがある。例えば、単語テキストの単語の配列を、1、2、3、4…と表すとしよう。各自然数は特定の単語を示すとする。

順番読みバージョン
1、2、3、4… → 12、23、34、45、…

結い上げ髪バージョン
1、2、3、4… → 122112、233223、344334、…

これ以外にも行きつ戻りつを複雑に繰り返すバージョンがある。なんだか憶える量が増えて余計混乱しそうだが、じつはそうではない。このいくつかのバージョンを記憶することで、もとの「続け読みテキスト」は変更を受けることなく完全に原型に復元できる。もしどこかを誤って記憶し読み上げたとすると、その部分だけが音読パターンが崩れるから、間違いが起こったことに気づく。次に、その部分と同じ単語をもつ他の繰り返し部分を読めば、そこに正しい単語が含まれるので、それによって誤り個所が復元できる。

重要なことは、次の二点だ。

これが常に成立すれば、原文は完全に復元できる。こうした仕組みによって、ヴェーダでもっとも重要とされるサンヒターは驚くべき正確さで長い年月を伝承された。

デジタル記録の仕組み

実は、この方法は、現在の電子的な記録メディア(CD-ROMやDVDをはじめほとんどのメディア)がデジタル・データを記録するのに採用している方法と原理が同じなのだ。コンピューターの場合、単語に相当するのは一定長さのビット列である。例えば、「結い上げ髪」の例で、1、2、3、4、…が元のデータを一定の長さに区切ったもの(ビット列)としよう。デジタル処理の場合は、最初のグループ「122112」に対して各桁の合計1+2+2+1+1+2=9を計算する(簡単のためちょっと誤魔化しがある。本当は各数字の内容であるビット列の和を計算)。そして合計が偶数なら0、奇数なら1として、最後にもう一桁加える。この最後のデータをパリティと呼んでいる。この場合なら奇数だから1を加えて「122112」としてメディアに記録したり、他所へ送信したりする。そして、このデータを再生したり、受信したほうは、最初の6桁を計算しなおして、それが奇数か偶数かチェックする。もしその結果と、最後にあるパリティが一致しなければ、そのデータは記録・伝送・再生のどかで誤りが生じたことになる。もちろん、こうした簡単な方法では、誤って偶然一致してしまうことはあるが、もう少し工夫すると実用に十分な程度に誤りを検出できる。ヴェーダでは、音読パターンの崩れで誤記憶を検知したが、その代わりの手段が電子データのパリティということになる。誤りの発生と、その場所が検出できれば、情報の冗長性から他のエラーのない個所から同じデータを探せば復元できる。

つまり、ヴェーダを正確に伝承する仕組みと、現在のコンピューター・メディアが記録を正確に伝える仕組みは、ほとんど同じなのである。

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