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能『融』 友枝昭世  2012年1月2日

年末年始は古典芸能好きには収穫時。暮れの第九、ウィーン・フィルからはじまって新春能狂言と歌舞伎など、ひごろ食事時と寝る前くらいしか見ないテレビの前に、このときばかりは長時間座り込む。今年の収穫は、2日深夜にNHK教育で放送した能『融(とおる)』だった。「友枝昭世 厳島観月能」と題して、1996年から毎年10月の満月の頃に厳島神社能舞台で催されているシリーズで、今年は10日に録画したもの。ぼくもこの観月能は2001年の『巴』を観ているが、脇正面のあまり見やすい席ではなかったので印象が薄い。

 

厳島の能舞台は汐が満ちてくると舞台が海上に浮かぶ島のようになる。見所は水を隔てた神社の回廊から観能する。芸能が自然と一体となるにはこの上ない舞台装置である。もっとも清盛が厳島神社を造営したころには、能はまだ猿楽として庶民の芸能であり、われわれがイメージする能の形式や能舞台の装置はなかった。観光サイトの説明では戦国大名の福島政則の寄進により建てられたものが最初だという。

厳島神社能舞台

時間も遅いし朝から酒はたっぷり入っているので、どうせ途中で寝込んでしまうと思いながら観ていた。解説者や昭世自身の説明のほかに、今年の大河ドラマへの誘いもあってか厳島神社の紹介があって、仕舞が始まる。まず感じるのは舞台の暗さだ。海面に反射した光線が下から舞台を照らすので、能舞台は薄暗い大きな部屋のようにが浮かび上がって見える。緩やかに動揺する波面に反射する照明は明暗が綯い交ぜになって、たえず揺らいでいる。この光線が能役者や囃子方を照らし上げると、それだけで幽玄の風情が醸し出される。おそらく月光が波面に反射する情景を想定した演出だと思うが、テレビの画面だけではどういうライティングをしているのかよくわからなかった。仕組みはともかくとして、これから演じられる世阿弥の夢幻能にとってこれほど相応しい舞台装置はなかろう。

 

最初の粟谷能夫の「鵜之段」は『鵜飼』という曲の一部で観たことはなかった。しかし、これが面白かったのでちょっと期待が高まってきた。つづく「松風」も「船弁慶」も汐汲みや海を舞台にする曲である。融への導入を意図したのだろう。それにテレビの画面はなんといっても「特等席」の視座だから、実際に観たときよりも観劇の条件ははるかにいい。

 

仕舞が終わって『融』が始まる。大鼓の亀井忠雄やワキの福王茂十郎(わたしと同じ歳)がずいぶん老けたと思いながら、すこしうとっとする。ワキの着キゼリフや間狂言は構成上の付けたりのような面もあって、どうしても眠くなる。亀井忠雄は国技館の砂かぶりの後に桟敷を持っているらしく大相撲のテレビ中継でよく見かける。彼が来られないときには同じ桟敷に、名前は忘れたがシテ方の重鎮や狂言の野村萬が姿を見せることがある。おっと、脱線。

 

この曲の舞台は、光源氏のモデルといわれる平安貴族源融の別業「六条河原の院」の廃墟である。東国から都見物に登って来たツレ(僧)がこの廃墟に立ち寄る。やがてその場に不釣り合いな格好の老人が登場する。腰簑を着けて担桶(たご)を担いでいる。これがシテ源融の化身(前シテ)汐汲みの尉(じょう)である。不思議なもので上手い役者は、何も言わずにただ舞台に立っただけで、こちらの目を覚ましてくれる。立ち居の姿だけで何かかがこちらへ放射されてくるのだ。寝転がって見ていたのだが、ここで俄然起き上がってテレビの前に座り直した。ついでに、徳利と猪口が前に並んだのは言うまでもない。

 

僧は、海でもないのになぜそのような姿をしているのかと老人に問いかける。担桶を置いた老人は、この庭園は源融が陸奥「塩釜の浦」の風景を模して営んだ六条河原院の廃墟であることを語り、そうであるからには、いまは川であろうと池であろうと、汐汲みにきてなにが悪いと居直るのである。僧はその誘いに乗って、ここが塩釜であればと、池の築島を指さして、あれは籬島(まがきじま 塩釜に実在の島)かと問い返す。シテが、あそこで大臣(おとど)はよく酒宴を催したものだと回想し、池に映る月影に気付いて空を見やると、満月がかかっている。

 

ここでカメラはまさにリアルタイムで画面いっぱいの満月を映し出す。あとで調べると10月10日は十三夜の翌日で、満月には2日ほど早いが、まあ誤差のうち。放送の演出は、やったぜっ!!!てなもんだろう。

 

僧はそれに対して、あの島の梢に鳥の宿して囀るようだと返す。これは『推敲の故事』、賈島が文章を錬っているときに、おもわず大尹韓愈にぶつかってしまったという話への誘い水である。相手の乗りのよさに驚いたシテは、その故事の詩を持ち出して問答を続ける。能の演技に入り込めずに睡魔と戦っているようなときに、聞き覚えのある語句がでてくるとはっと目が覚めたりする(たしか「推敲」は高校の漢文の教科書にあったなあ)。こうしてシテ・ワキの問答は庭園の山水の解説から都の見どころの紹介へと続く。

 

そのうちシテは長物語のすぎたことに気づき、捨て置いてあった担桶を担ぎなおし、ツッ、ツツッと正面へ進み出て、舞台から乗り出すようにして担桶を海面へ下ろし汐を汲む。前シテの出のときにはまだ水上に出ていた舞台の基壇は、このころになるとひたひたと満ちてきた汐に隠れて見えない。もちろん所作だけで桶が海面へ触れるわけではないが、能の夢幻の世界と現実がきわどくすれ違う一瞬である。ここは見応えがあった。能のシテ方がよく言うが、面を着けていると視野が非常に狭くなり、足下はまったく見えない。その状態で舞台の限界まであのように加速しつつ進み出るのは、たんに慣れや技術だけではできないだろう。まして下が実際の海ならなおさらであろう。汐汲みを終えたシテは担桶をはらりと舞台に投げ置いて中入りする。

 

ちびりちびりやってきた徳利も空になり、微かに酔いがまわる。しばらくは万蔵の間狂言が朗朗と響く。舞踊劇の能に対して、台詞劇の狂言が演目全体の粗筋を口舌をもって解説するというのが間狂言の趣旨だが、雑ぱくに言ってしまえば前シテから後シテへと変身するあいだの時間稼ぎである。囃子方も舞台横を向いて座り直しクツロギの姿勢をとる。ここで徳利を満たしておかずばなるまい。いや、結構な正月になったものだ。

 

後シテは粗末な汐汲み姿から一変し、公達の優雅な出で立ちで登場する。今度は「源融とはわがことなり」と名乗って、一人称で塩釜の浦のこと、曲水の宴のことを懐かしむ。後場の核心は融の舞う早舞である。序の舞のゆったりとした単調な所作の繰り返しではあくびの出る人も、このテンポなら楽しめるだろう。的確で安定した所作の流れと、時折入る決めの風姿に快感を憶えるところである。いいねえと思うまもなく、シテは橋掛かりへ向かう。えっ、もう終わってしまうの?と思わせて、シテはスタスタと幕まで行って振り返り、少々舞ってから袖をかずいて静止する。このあたり早舞の特別演出(小書き)でクツロギといい、「窕」と書くらしいのだがこの字を使う理由がわからない。いってみれば、見所に少し気を持たせているわけだ。シテを誘うように囃子のテンポが変わると、シテはスルスルと橋掛かりを歩んで舞台へ戻り、後半の舞に移る。舞はまさに早舞となって、舞台全体が躍動する。友枝昭世は演技の意識を離れて舞に酔っているかのようである。一瞬の高揚ののちに、静に舞おさめたシテは何の未練も見せずに橋掛かりを去って行く。ここではシテに替わってワキが止め拍子を踏んで静寂だけが残る。この余韻がたまらない。能楽堂であればここで拍手が起きてしまうが、いい能を見たあと、あれは邪魔以外のなにものでもない。いまは夜中、自分独り居間のテレビの前だ。徳利に残った酒を杯についで飲み干せば、いま展開した夢幻の世界を思うままに蘇らせることができる。いい能だった。

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