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イスカの嘴 or 渡辺一夫の一文を巡って

長年の友人から、渡辺一夫の一文のコピーが送られてきた。

「宿命の糸」 渡辺一夫

若い頃にこの文章に接してから、彼は………… 

  「たまたま」とか「偶然(に)」という語彙が…………やがてまったく当方の中から消えてなくなったのです 

…………という。

彼の手紙を読んでぼくは、彼が宿命論(あるいは決定論)に影響されて、上記のような禁忌を自らに科したのかと思い込んだ。

「宿命の糸」からすこし抜粋してみる。

  • 「その原因結果を精密に調べれば調べるほど、必然にほかならなくなりましょう」
  • 「偶然というようなものはなに一つなく、すべてが必然ということになります」
  • 「われわれが精密にあらゆる原因結果を分析識別できないからこそ、偶然だとか、幸運・不運だとか…………という考えをいだくのかもしれません」

ぼくの印象では、こうした表現の前提には、因果律→決定論への信仰があるように思えて決定論の背景を少し調べてみた。

決定論が生まれるに至った背景にはニュートンによる古典力学の完成があるように思う。有名な『プリンキピア 自然哲学の数学的原理』だ。ニュートンの法則(因果律)を使えば、ある時点の物体の位置と速度、それに物体に働く力を知れば、その後の物体の位置は計算できる。ということはある時点の状態(についての情報)から未来のことが一意的に決定(予言)されてしまうのだ。計算で物事を予測できる、事前に決定されてしまうということは、同時代人にはおそらく驚愕的なことだったと思う(とくに神学者にはね)。

ニュートン力学の意味するところを敷衍して決定論を流布させた原点は、ラプラスの次の一文と見られる。適当な資料がないので、英Wiki「Laplace's demon 」から訳してみた。

「われらは現在の宇宙の状態を過去の宇宙の結果であり、未来の宇宙の原因であると考えている。ある知性があって、ある時点に自然を動かすすべての力と、自然を構成するすべての要素の位置とを知り、かつ、こうしたデータを解析するに十分な能力があれば、その知性は宇宙の星々から微少な原子に至るまで、その動きを計算するひとつの式に思い至るだろう。そうした知性にとって、不確定なものはなにもなく、未来は過去と同様にその眼前に存在することになる」 ラプラス 『確率についての哲学的論考』より

つまり全能の知性にとって「すべては自明である」ことになる。その知性からは歴然と見えている因果関係を視覚化したものが渡辺一夫の「宿命の糸」となるのだろう。

決定論に対立するのは「偶然性」とか人間の「自由意思」だ。後者についてはここでは置くにしても、問題は、決定論がはたして偶然性を排除するものかということだ。決定論と偶然性の対立については、長く研究者の論争が続いた問題であり、ぼくのような素人の云々するところではないが、古典的な決定論が偶然性を排除するものではないことは、簡単な思考操作でも分かる。さきほど、「ある時点の物体の位置と速度、それに物体に働く力を知る」と書いたが、これには避けられない条件がある。それらの値はあくまでも測定の精度の範囲でしか知ることができない、ということだ。誤差があっても計算結果に大きな違いがなければ予測したことにならないかという反論はある。ところが、最近のカオス論では、初期状態の微少な変化がその後の状態の予想もできないような膨大な変化をもたらす可能性があることを示している。起因する微少な変化が測定精度以下なら、ニュートン力学では予想のできない巨大な変化が起きることがあるのだ。つまり、決定論は成立しないことになる。

ここで本文中に引用されているポアンカレが顔を出す。彼は現在のカオス理論が出現するまえに、その萌芽となる事例を認識していた。

それはこういうことだ。

いささかくどいが、ニュートン力学では、相互作用する2つの物体の運動は完全に解くことができる。つまり、ある時点の2つの物体の位置と速度を知り、相互に働く力を知れば、その後の2つの物体の位置と速度を正確に計算することがきる(ここでは先ほど述べた誤差の問題は無視してよい)。この場合は、その2つの物体の未来の軌跡は正確に計算できるから、決定論が成立している。しかし、これが3体問題になると、同じ条件でもとたんに解けなくなる。ここで解けないというのは、解く方法が見つからないのではなく、問題の解自体が(特殊な状況を除いて)数学的手段で確定しえないことを、ポアンカレは証明した。必要な情報がすべて与えられても解けないのだから、ニュートン力学でも決定論は部分的にしか成立しない。3体問題のような単純なケースですら完全には解けないのだから、ましてや人間の生涯の軌跡などという複雑きわまりない事例を決定することなどとうてい不可能だ。

たまたま、若い頃から積ん読だった岩波文庫『科学と方法』(ポアンカレ)をこのさい覗いてみた。その第四章に「偶然」があり、そこにこのような文章があった。

岩波文庫 ポアンカレ『科学と方法』より

カオスという言葉を使わないだけで、あきらかにこのカ所はポアンカレがカオスを認識していたことを示している。

※ なお、渡辺一夫がポアンカレを引用して「偶然と必然とは、楯の両面のようなもの」と書いた理由はわからない。

 

「宿命の糸」に戻る。

 

決定論の比喩として文中に、「僕の軌跡とA君の軌跡」「犠牲者の軌跡と戦闘機の軌跡」を直線に例えたカ所がある。これらの軌跡を表す直線は「必ず交差する」のがこの比喩のポイントだが、この比喩はあまりにも粗雑に見える。まず考察が古典幾何学の世界で2つの直線が平行でないことは暗黙の前提としよう。そうとしても、直線が必ず交差するには(1)直線が無限長であり、かつ、(2)同じ平面上にある、という条件が必要だ。しかし、人間は寿命によって有限な軌跡しか持ちえないから、その軌跡は無限の直線ではなく、たとえば、針のような線分だ。2本の針を、ある平面に無造作に投げたとすれば、それは交差することもあるし、しないこともある。人生の軌跡を直線に例えた時点で読者を暗黙に「交差」へ誘導しているような論法である。

揚げ足を取るような反論だが、人の行動の軌跡を直線に例えることは、このつまらない反論に劣らず妥当性に欠けるように思える。

―― 〇 ――

勝手な思い込みで自分にとって信じがたい決定論への反論を書き連ねてしまったのだが、その後の友人とのやりとりで、それは当方のまったくの誤解だったことが分かった。彼が言いたかったのはむしろ、『「たまたま」とか「偶然(に)」…』という言葉があまりにも無思慮に使われているのに嫌気がさして、それらの語彙が『…やがてまったく当方の中から消えてなくなった』ということだったのだ。言葉に厳しい彼らしい成りゆきであった。むきになって見当違いの反論をしているぼくの返事を読んで、さぞかし彼は苦笑したことだろう。まさにイスカの嘴の議論であった。彼には迷惑だったかもしれないが、ぼくにとってはWebや書架の資料を漁ったりして、「たまたま」楽しい時間つぶしになったのだが。

現在では、決定論やカオスについての量子力学的な解釈が問題になっているらしく、それらはもはやポンコツ頭の理解を超えている。なにか通俗解説書でもあれば覗いてみたいとは思うが…………

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