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新動物生態学入門 片野修著

熱中症などクソ食らえで、わがやには空調がない。熱気と湿気と眠気でもうろうたる頭で中公新書『新動物生態学入門 多様性のエコロジー』片野修著、を読んだ。1995年11月発行なのでだいぶ前の本だ。 

ぼくなどは、生物多様性というと「種の多様性」ばかりが頭に浮かぶ。しかしこの本は、生態系全体にさまざまな局面で多様性があるということをおびただしい具体例と、場合よって数値モデルなどを挙げて示している。ただ、著者も書いているように、あまりに”多様な”視点から”多様な”事例が提示されていて、読者は枝葉の錯綜する密林に迷い込んだような印象を受けてしまう。

本書によって、種の多様性は、生態系の多様性の反映として、あるいはその局面の一部として位置づけられると知るのである。

多様性の要因として、下記を挙げている。p230(次表)

表5 多様性を決める要因
対象具体例多様性を決める主な要因
個体の成功成功する個体
失敗する個体
個体の遺伝子・学習・体サイズ・年齢など、競争者や捕食者の挙動、資源の量と分布
分布の集中一様分布、集中分布資源の量と分布、競争者の挙動、個体の持つ情報
生活史のパターンγ戦略*、Κ戦略**など環境のきびしさと変動、親と子の死亡率、子の餌、競争者や捕食者の挙動
個性の発達攻撃的な個体環境の多様性、資源の量と分布、捕食圧の強さ
社会
(集団構造
 配偶システム)
なわばり、群れ、
一夫一婦、一夫多妻、乱婚
資源や捕食者の数と分布、実効性比、雌の分布、雌雄の対立、系統的制約
個体群***の変動周期的な変動、大発生、絶滅資源の量、捕食者、気候、種内の個体変異
種間の関係競争、捕食、寄生、共生、間接的関係体サイズ、ニッチの類似度、各種の個体数、系統的制約
群集****内の種数種の多い群集、種の少ない群集過去の反乱からの経過時間、環境のきびしさ・多様性・変動性、競争、捕食、生産性
群集の性質平衡群集、非平衡群集、安定な群集、不安定な群集過去の撹乱からの経過時間、環境のきひしさと変動性、群集内の種数、種間の結合度

*        γ戦略 小さくたくさん産んで手は掛けない p44

**      Κ戦略 大きく少なく産んで大切に育てる p44

*** 個体群 種内の様々な集団 p121

**** 群集 ある場所にすむ生物とその関係の総体 p192

こうしたすべての要因を配慮した多様性の保全が重要だ、というのが最終十章「多様性を守るために」の提案である。

著者の主張で興味を惹かれたのは「個性への着目」だ。普通、ある環境に置かれた生物の動きを見る場合、それぞれの個体はそれぞれの種に相応しい場所を占め、相応しい食物を摂るだろうと考える。しかし、著者はそうではなく、それぞれの個体や、その個体が占めた場所によってその個体の活動内容は変わってくるという。種の属性によって個が律せられるのではなく、個の置かれた現実の場によって個独自の行動が触発されるといことらしい。これを著者は「個体モザイク論」と称している。

私はかねてから個体モザイク論なるものを提唱している。これを思いついたのは、京都の北山を流れる上桂川において行なった魚類調査の結果をまとめていたときのことであった。ネコヤナギで川岸をおおわれた清流の中で、ウグイ、カワムツ、タカハヤ、アブラハヤなどのコイ科魚類は、種によってすみわけることなく混在していた。流れの速い瀬、瀬から淵に変わる部分、流れの速い淵、水深が深くて流れのない淵など、それぞれの生息場所には複数の魚種がおり、その食物は個体によって異なっていた。

これらの魚は雑食性であり、藻類も、また昆虫などの動物も食べることができる。しかし、その内容を個体ごとに検討すると、藻類だけを食べるものから大型の動物だけを食べるものまで、きわめて多様であった。また、場所によるちがいも認められた。流れが速い淵の前半では水生昆虫が食べられる割合が高かったが、淵尻ではもっぱら藻類や落葉のかけらが食べられていた。場所によって異なる餌が分布し、供給されるのであるから、そこで活動する個体の食性が異なるのは当然ともいえる。

このような結果から、私はある種の個体はいろいろな場所に分散し、それぞれの場所で他種の個体と餌を求めてしのぎを削るのではないかと考えた。つまり、種によって、食物や生息場所が決められるというよりは、個体や場所によって、活動内容がちがうと考えたのである(図18)。p196〜198

これはなかなか新鮮な発想に見えた。しかし、ただでさえ生態系の分析には多すぎるほどのパラメータがあるのだから、それに強く「個」に依存するパラメータをさらに付け加えてしまって、いったい収拾がつくのだろうかという不安も湧く。

最後に著者は言う。

多様性を多様性として、雑多なものを雑多なものとしてつきあうことが大事なのではないか

つまり、全体性の受容ということになるのだろう。ただ、これはいかにも「生態系」という概念が分析・総合を手段とする科学の対象とはなりにくいことを認めてしまっているようでもある。ふと、道元の「山川草木悉皆仏性」を連想してしまった。

その後の展開がどうなったのか、知りたくもある。

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