道草Web

KNさま

チョムスキー『秘密と嘘と民主主義』、ありがとうございました。昨日、読み終わりました。この種の本はまったく読んだことがないので、少し戸惑いました。民主党と共和党の区別すらできない政治音痴には、よくわからないことも多々ありました。しかし、彼のスタンスは実に明快。ほとんど何も知らない人でも直ちに理解できるような平明な前提から文を起こし、そのパラグラフの終わりには、そこまで言えるのかという霹靂の結論が導かれる。その過程は、具体的な事実の積み上げで、高邁な理論など入る余地もない…………そんな印象です。

門外漢にも言語学の泰斗として知られるひとだから、明晰な頭脳をもつことは間違いないのでしょう(横道にそれますが、ぼくは自然科学の数学に相当するものが、人文科学の言語学であろう--哲学ではなく--と思っています)。それに加えて、ものを見る目が恐ろしく澄んでいる。だれしもあるような、思い入れとか、願望とか、傍目への気遣いとかといったバイアスがまったくない(あるいは“公正に”という冷徹なフィルタのみがある)。それに、言いっぱなしだけでなく、泥沼のような現場にも参加もしているようです。理論から入っていけば、現実の圧倒的な混迷を前に尻尾を巻いて引き下がるのが普通だろうに、それがほとんど彼の言説には影響していないように見えます。

現在の世界が富裕層の専制によって導かれ、政治もジャーナリズムもその手段に堕していると。その結果、アメリカ自体すら第三世界化しているという議論は新鮮でした。 雑な類推ですが、いま企業が競争力強化の名の下に、先を争って規模を拡大しているのをみると、白亜期末の恐竜の巨大化を見るようです。もちろん、その行く手に待つものは絶滅。素人目にも、いまの経済システムの将来にはそれ以外見えてこない。それを市民の参加で変革してゆこうとする。あれだけなにもかも見通せる巨人の、なんたるかそけなき提案、なんたる絶望的楽天主義(限りない敬意を込めて!)。

それと、辺見庸の「チョムスキー」も面白かった。彼の一語、一語にたっぷりの思い入れを込めた言葉使い(手あかの付いた言葉を排除したいという強い願望)と、チョムスキーの単刀直入が相容れるわけもなく、ひたすら困惑を胸に秘めてインタビューする苦衷が忍ばれました。 あの眼力で見られたら、ぼくなど発言することもできず赤面して沈黙してしまう。アメリカのメジャーなジャーナリズムの無視というのは、そのあたりが原因かもしれない。辺見庸にとって、それこそ重要な言葉の枝葉末節が、鋭利な刃物でばさばさ切り捨てられるような切なさ を感じたでしょう。一方が言語の機能を知悉した科学者であり、他方は言語に情緒の衣にからめて提示する手法の巧者。打々発止とはいかなかったようですが、一面、チョムスキーにはその種の情感が欠けているのかなあという不安も感じました。

KNさま 2004年10月02日

朝日新聞は読んでいますか。昨日の夕刊に、チョムスキーに関する記事がありました。田中克彦『私の心に残る言語学者』(5)で、彼について触れているのですが、その変形生成文法の理論について、「チョムスキーは、言語を生理的な深層構造に由来するとして、多種多様な言語の存在は無意味であって、言語そのものは論理の幻影に過ぎないかもしれないと、言語学の終焉をほのめかした」とありました。たしかに抽象の極まるところ、言葉を論理で換言したい気持はわかるのですが、それだけではないだろうと反感に似た感情が湧いてきます。
これを読んで、少し合点がいきました。チョムスキーのラジカルな発言は別に政治社会の方面に限られるのではなく、彼本来の思考・指向・嗜好に基づくのではないかと。あっけにとられて感心はするものの、なんだか湿度が足りなくて居心地が悪いなあと。

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