道草Web

知人宅でワールドカップサッカーを見た。ハイビジョンでだ。横長のプロフィールだから、競技者が、球が、フィールドを縦横に疾走するサッカーのようなゲームに、ハイビジョンが向いているのは当然だ。映像が精細なことは贅言を要しない。目が洗われるようである。まあ、技術的にも値段からも当たり前だ(標準TVしかないものの負け惜しみ)。

サッカーの興奮冷めてしばし後、やはりハイビジョンで歴史的な画家の作品を紹介する番組が始まった。画家は、ヨハネス・フェルメールだった。この画家については、おきまりの解説で、マルセル・プルーストが再発見して云々と。実は、OJがフェルメールを知ったのも、プルーストのおかげだった。あの長大な『失われた時を求めて』という小説の中には、音楽家、絵描き、小説家などが数多くの芸術家が出てくる。それぞれに、プルーストと同時代の卓越した個性が的確に、またシニカルに描写されて いて(多分ね、実物を知るよしもないが)、同時代のひとが読めば、これは誰のことかとすぐピンときて、下世話な興味からも面白かったろう。しかし、後世まで残る小説の凄いところは、そうした低次元の興味を満たしながら、新しい美の発見を宣言しているところだ。あの小説の中では、フェルメールしかり、ルノアールしかり、ビュッシーしかり、アナトール・フランス(彼だけは逆の意味で)しかり。同時代人がまだ感知できない、新しい様式の美を見いだした喜びを語っている。同じことを、トーマス・マンは『ファウスト博士』のなかで、シェーンベルクについて、さらに徹底的に綿密に行っている。

おっと、好きなフェルメールがたまたま主役だったので、話がそれてしまった。書きたかったのは、画家のことではない。ハイビジョンのことだった。

カメラは、アップで絵画をなめ回すように写す。ニスの透明感や照りや亀裂までもが克明に映し出される。透明な皮膜の下に描かれた、絵の具の凹凸までもが歴然としている。テレビという媒体を通しての映像である以上、裸眼で実物を見るのと同じはずはない。しかし、克明さにおいて、裸眼ではここまでは見えないだろう。写真で見慣れた『デルフトの風景』や、室内の人物像、とくに女性を描いた絵が何枚か映し出された。フェルメールが目玉の展覧会は何回となくあったから、紹介された絵のいくつかは実物を見ている。しかし、こんなに 微細なところまでは見えなかった。そんなに接近して見たら、警報が鳴るか、近くのガードマンが飛んでくるだろう。ふーん、ハイビジョンってすごいなあと、あらためて感心しながら、知人宅を辞した。

何の偶然か、家に帰ってTVをつけると、衛星放送で同じ番組が始まった。放送の内容は全く同じだ。愕然。これが同じ絵だろうか。ニスの質感などまったくわからない。それよりなにより、ニスが塗られていることすらわからない。つい数時間前の映像の記憶がまだ鮮明だったから、まるで絵の前に紗の幕がかかっているようだった。あるいは、急に老眼になってしまったようだった、といってもいい。これは、残酷である。少なくとも家のTVは、放送局のモニタに使っている機種だから、スタジオのカメラの違いがはっきり区別できる ほどの画質だと自負していた。そんなレベルの話ではないのだ。

なんだって、ハイビジョンと同じ番組を、しかも、絵画がテーマの番組を、同じ晩に見なければならなかったのか。知らなければよかった。

あいみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもわざりけり

この歌は、別に男女の仲を歌っただけではないのだ。それが古典たるものの普遍性である。などと、関係のないことをつぶやきつつ、いや、買いません、ハイビジョンなど。いまのTVは、まだまだ、十分きれいなのだからと、ひとりごちた。


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