道草Web

秋だ。掃除の季節である。掃除とは、家の前の私道のそれである。

諸氏もご存じのように、私道の向こうは鳩ヶ谷中央病院の桜の林である。いよいよ、落葉のシーズンの開始だ。これからは毎日のように、表の掃除をしなければならない。春先にはたっぷり花見を楽しませてくれるのであるから文句は言えない。

掃除は別に苦ではない。紅葉した落ち葉を眺めながら、箒を動かすのも悪くはない。額田王ではないが、「秋山の木の葉を見ては、紅葉をば取りてそしのふ」である。晴れ渡った秋空の下であったりすれば、むしろ楽しみといってもよいだろう。

昔、餅つきの時、古い箒が沢山あるのでそれを燃そうとしたら、ZNさんが“もったいない”という。確かにちょっとみは、まともな箒に見える。しかし、掃き心地と効率が 新しい箒とまったく違うのである。箒が古くなると、一掃きが及ぶ範囲が狭くなってくる。そして、掃いている音が高くなる。いかにも掃除をしているという音がするのだ が、その実、たいして掃けてはいない。新しい竹箒は、しなやかで弾力性があるので、掃いてあまり高い音がしない。ZNさんもそのとき、新旧の箒を掃き比べてみて、なるほどと納得したようであった。

掃除をしながら箒のたてる音を聞いて、いつも思い出すことがある。民俗学者の石毛直道のエッセイである。もう30年以上も前に文庫本で読んだので、書名も内容も定かでないが、彼がこんなことを書いていた。

家庭的な状況を描写するとき“コトコトと包丁を使う音がする”という表現をよくするが、これは包丁が切れないということを表現しているにすぎない、というのだ。切れる包丁は音がしないというのである。そのころはよくわからずに、なんだか小賢しいことを言うと思って、反発を感じた。

しかしその後、自分で料理を作り、包丁を持つようになるに及んで、彼の言っていることがよくわかるようになった。確かに研ぎたての包丁というのは、野菜などを切っていてもほとんど音がしない。音がするのは、刃先が鈍って丸まっているので、まな板とぶつかっている証拠である。

箒の音、包丁の音。まれのほろ酔いのダジャレのようで申し訳ないが、良いものは音がしない、これが本駄文の結論である。


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