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字を書くことが苦手なぼくは、書に興味はないが (小学校のころ、別のクラスの先生がぼくの書いた文字を見て、この子は知恵遅れか?と、わが担任にきいたそうだ。ワープロがなければ自分の人生はどうなっていたか。一度考えてみたいテーマだ)、この書家には興味があった。ひさびさに、刺激的な展覧会だった。 書家はアルチザンで、アーティストではない。アルチザンはアーティストではないが、アーティストはアルチザンでなければならない。アルチザンの手法に通暁して、その先にアーティストがあると 、彼はいう。ここまでは、さほどめずらしい考え方ではないが、さらに、彼は、書家の原点は恥辱にあるという。なにやら、辺見庸的なスタンス。

九楊の書は、漢字の意味、文章の意味、文字の形状をコンポーネント(縦、横、斜め、丸の形)に分解 して、書家の意識を通じて再構築する。9.11をテーマにした作品まで、彼のなかのアルチザンは自己の手法を、他者の表現に仮託して模作している。見ていると息苦しい。 書家の屈折したアルチザン意識は、そのあたりにあるのか。しかし、9.11以後に、はじめて自発的な表現を獲得する(とぼくには見える)。あの「作品1の中」、ツインタワーをイメージした書ではじめて彼の作品を美しいと思った。苦労して開発した手段をついに自己表現にしえた かにみえる。それまでの作品は、表現の苦吟をみる思い。ここで、アルチザンはアーティストになったのか。


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