道草Web

ある会社の社内報の企画に参加し、“展示品”を模索するうちに、東京の坂道で、階段状のものを探訪して紹介してみようと思い至った。 ぼく自身、平地は苦手で山が好き。見渡す限りの大平原などというのはどうも落ち着かない。通称“らくだ坂”に居を構え、日頃から坂の上り下りを必須とし、仲間と語らっては山に入り込んで宴会を催している。そんな嗜好がおのずと、この案を思い浮かばせたのかもしれない。

早速、紀伊国屋のデータベースで資料を検索してみると、いやいや、あるある。

  1. 『歩いてみたい東京の坂』上・下 歴史・文化のまちづくり研究会/地人書館
  2. 『東京の坂』 中村雅夫/晶文社
  3. 『東京の坂道 生きている江戸の歴史』 石川悌二/新人物往来社
  4. 『今昔東京の坂』 岡崎清記/日本交通公社出版事業局
  5. 『江戸の坂東京の坂(中公文庫)』正・続 横関英一/中央公論新社

※ 今回は、階段坂の探訪の資料として、1と5を参考にさせてもらった。

これだけの書籍が出ているということは、偶然の思いつきの枠を超えて、ひとには坂や階段を好む性向が潜んでいて(あるいは、祖先の猿人たちが森林の奥深くで、樹木の登降を繰り返していたころの遺伝子が残存していて)、それが発現している状況が少なからずあるということだろう。

資料調べとは別に、仲間で作っている山岳会のホームページにも、東京都内にお気に入りの階段坂があったら連絡してほしいと掲示を出した。反応は即座にあった。今回取りあげた小日向台の鼠坂、駿河台の女坂などは、こうして教えてもらったものである。

これらを手掛かりとして、まず階段坂探訪計画を練った。階段には車は似合わない。徒歩による探訪を原則として、移動手段には主に地下鉄を利用することとした。

階段探訪 第一弾

1999年12月1日 水曜日 曇り。

愛宕山

男坂、女坂 天気はあまり芳しくないが、早めに昼を食べて階段探訪に出発した。まずは、新橋から歩いて愛宕山を目指す。この企画を思いついて、最初に頭に浮かんだのが愛宕坂だった。寛永三馬術の曲垣平九郎の伝説は、年輩の人間なら誰でも知っている。しかし、現在の愛宕山は、周辺をホテルなどのビル群に囲まれ、山の全容を遠望することができない。

虎ノ門方面から内堀通りを芝方向へ4ブロックほど進むと、右手のビルとビルの間から下りてくる坂道がある。これが愛宕の新坂だが、頭上の看板に気付かなければただの車道にしか見えない。その少し先で、洒落た酒屋を過ぎて右手を見ると、正面に愛宕男坂が有無を言わせず、せり上がっている。そのすぐ右脇、吽形の狛犬の裏から、寄り添うように上っているのが女坂だ。見上げると、女坂の踊り場に腰をかけて若い男女が弁当をつかっていた。

まず、男坂を上る。急峻で、しかも外傾しているので、のけぞってバランスを崩しそうになるほどだ。立ち止まって振り返ると、なにかにつかまりたくなるくらいの斜度がある。いくら将軍の命とはいえ、これを馬で上下したとはとても思えない。やはり講談の世界である。階段を上りきって、左側にある説明書きを、息を切らせながら読むと、86段あるとか。今回の取材で、いくつ階段を訪れるかしれないが、規模、斜度、風格、どれをとっても都内一等の階段だろう。

階段を上りきった左手に桜田門外の変の水戸烈士ゆかりの茶屋、その奥にNHKの博物館(旧放送所)がある。山頂から神谷町方向へ下る階段もあるが、これは階段と言うより桟道だ。また、正面から右手が神域で、拝殿と前庭があり、それを横切って一段下がったところに小料理屋がある。料理屋の裏から新坂へ小振りの階段坂が下っている。新坂まで往復してみたが、途中に庚申塚があるので、さしずめ庚申坂だろうか。

小料理屋の正面が女坂の下り口だ。女坂は例外なく屈曲して途中に踊り場を設け、斜度を緩やかにする工夫がある。あまり人通りもないのか、石段は愛宕の森の落葉に埋まっている。さきほどの男女が居たあたりに、弁当のからだけが残置してあった。この風情ある坂道に、なんと心ないやからであるか。

女坂をさらに下る。右手は愛宕山の鬱蒼とした植物群が繁茂しているが、それに対比するように、左手にはオフィスビルの壁面が屹立し、その広い窓の内側では、明るい照明のもとにサラリーマン諸氏が立ち働いている。そう、今は平日の昼下がり。まだ仕事時間のまっ最中である。

駿河台

男坂、女坂 次に愛宕下からバスに乗り東京駅へ向かう。そこから中央線に乗ってお茶の水で下車。お茶の水は階段探訪には絶好の拠点である。ここからスタートして、一挙に7つほど階段を稼ぐことができる。

まずは、お茶の水の男坂、女坂。駿河台から猿楽町方面へ下る坂である。男坂は静かなオフィス街の歩道から突然のように一直線に下っている。古くからの坂かと思いきや、説明書きによれば、大正年間の区画整理でできたものだという。坂は、高校の敷地を分断する格好になっているので、頭上を連絡通路が横断していて風情を殺いでいる。男坂を下って右折、猿楽町方面に向かい、折り返すようにして女坂を上る。やはり2回屈曲してそれぞれに踊り場がある。踊り場に女学生が2人腰掛けて楽しげに話し合っている。左側は高いマンションだが、階段の幅があるので圧迫感はない。階段の屈曲に抱かれるように右側に住宅があり、その庭がよく手入れされていて好印象を与える。都心にぽつんと出現した穏やかで美しい階段であった。

神田明神 男坂、女坂

次に、お茶の水駅に引き返し、御茶ノ水橋でJRを越えて神田明神へ向かう。まずは、神田明神の男坂、女坂である。両坂ともに神田明神の山門の手前右側にある。女坂が手前にあるが、ビルに隠れて気付かず見過ごしてしまう。まず男坂を下った。説明書きによると、江戸の町火消しが4組ほど語らって寄進した階段であるそうな。残念ながら周囲の倉庫街の一角に組み込まれてやや雑然とした印象を受ける。男坂を下って、小さな路地を右に回り込んで女坂を上り返す。両側はビル、ホテルなどのコンクリートの不愛想な景観だが、一軒だけ古風な町屋があって、その板塀には、清元、尺八お稽古場とあった。階段の踊り場からそのまま格子戸をガラガラっと開ければも三味線の音でも聞こえてきそうだ。この一軒でやや気分が和んだとたんに、その先はホテルの裏口だった。

神田明神へ戻って境内を抜けると裏参道の階段があって、新妻恋坂(蔵前橋通り)の途中へ下る。この階段は、両側のマンション兼オフィスビルの建築計画にに組み込まれたようで、近代的な建物とは調和しているが、神社の参道にはちとふさわしくない。

湯島 実盛坂

新妻恋坂を上って清水坂へ右折し、湯島天神方面へ向かう。途中に実盛坂があって不忍通りへ下っている。この坂も相当急だ。中間の踊り場は左側のマンションの入り口になっている。踊り場を過ぎて、少し下ると途中から急に階段の幅が狭くなる。つまり、そのマンションを建設するにあたって、階段の利用を思いつき、踊り場のあたりまでの階段を幅を広げたが、その先までは手が回らなかったのか、地主が違ったか、ということらしい。
平家物語や、それに取材した世阿弥の能『実盛』に出てくる齋藤別当実盛の住居が近くにあったというのが坂の名前の由来だという。しかし、この人は新潟の出身で、史実には遠いようである。実盛は、老人であったが、戦にあたって白髪を黒く染め、勇猛に戦ったが武運つたなく討たれる。この階段の急峻さが、その潔さを連想させたのだろうか。能狂言の観賞は筆者の趣味だが、残念ながらまだ実盛は見ていない。つい先頃、観世栄夫の実盛の公演があったのを知ったのは、帰宅して公演のチラシを見ているときであった。

湯島天神 男坂、女坂

次に、不忍通りを回り込んで、湯島天神の男坂、女坂へむかう。小ぎれいな飲食店の並ぶ参道を進むと、正面が湯島天神男坂である。ここは、明神男坂・女坂の雑然とは違って、あくまで神域への参道の雰囲気を残している。階段左側はマンションだが、その壁はオオイタビの蔓に覆われて緑が濃く、右側は湯島名物の梅林である。男坂を上りきると、すぐに右から女坂が下りている。丁度女坂と男坂で囲まれた三角形の斜面が梅林になっている。女坂を下りきったところに小さな台が出してあり、小柄な老人の易者がちょこなんと座っていた。こちらが階段を下りきらないうちに、老人は何か用事があったのか、易の道具や天眼鏡、それに携帯電話などを置いたままどこかへ消えてしまった。盗まれる心配などないのか、易で自分の未来が読めているのか、のんびりしたものである。梅林の底辺の小路を通ってまた男坂へ戻り、上り返して境内へ出た。

本郷台 炭団坂

さてこれで、お茶の水ベースの探索は終わった。次は、本郷の真砂坂(東富坂)の途中にある炭団坂を目指す。この坂は孤立していて探索の効率は悪いが、なんといってもその名前が面白い。炭団などいまや日常生活では死語である。地下鉄のお茶の水まで引き返して、丸の内線で2駅、後楽園で下車する(後で気付いたが、湯島天神と炭団坂は歩いたほうが早い)。

できの悪い魔法瓶といった不細工な文京区役所の前を通って、春日町の交差点を横断し、真砂坂を上りきって左へ入ると、いやに整備された小路に入る。途中に文京区のふるさと歴史館、古びてはいるが盛時をしのばせる大きな屋敷などがあり、行き止まりが炭団坂の下りである。雨でも降ればこけつまろびつ泥んこになったという、坂名の由来を知っていると、がっかりする。最近整備されたらしく中央に、多少デザイン的な配慮のある手摺りのついた、こじんまりした階段である。斜度もさほどには思えないが、舗装をはいで赤土むきだしの状況を想像すれば、炭団も納得できなくはない。階段の下には木造家屋などがあって、比較的古い町並みの雰囲気が残っている。階段を下りた先は迷路のようになっているし、その先のあてもないのでまた階段を上り返す。途中、右手斜面の竹藪が無惨に伐採され、枯れ草の匂いが充満していた。切らなければ鬱蒼として坂下の住宅は薄暗かったろうが、こうも無神経に切ることはないのではないかと思った。

小日向台 切支丹坂、八幡坂、鼠坂

さてまた、地下鉄後楽園駅へ戻り、もう一駅乗って茗荷谷へ向かう。茗荷谷は近くに下宿していたこともあって、いささか土地勘がと思ったが、どっこいそうは甘くなかった。建物はもちろん道までがつけ替わっているので記憶などまるで役に立たない。まず、切支丹坂を目指す。これは一筋縄ではいかず、左折右折を繰り返し、途中蛙坂などの可愛い坂があったりして、たどりついたが残念。予感はあったが階段ではなかった。このあたりの地形は、丘陵と谷筋が入り組んで相当複雑である。

切支丹坂の次は、小日向台を横断するようにして、鼠坂、八幡坂を目指す。いずれも小日向台から音羽通りへ下る坂だ。鼠坂は、字面も響きも魅力的だが、調べてみるとさほど珍しい名前ではなかった。現在位置からすると八幡坂が手前にある。まずそこを目指す。このあたりまで来ると手元の大雑把な地図では役に立たない。こまめに道ばたに設置されているお役所の地図を頼りに音羽通り方向へ進む。だいぶ右往左往したが、「この先階段、行き止まり」の看板で、これでたどり着けるとほっとした。その道の行き止まりが、丁度八幡坂の中間点だった。まず、下ってみると、左手が神社で、下り切ってぶつかった道を左折すると神社の正面へ出る。道はそのまま右へ曲がって音羽通りへ続いている。神社は八幡様ではなく今宮神社とあるが、もとは八幡神社だったそうだ。神社の正面までUターンして八幡坂へ戻ろうとしたが、上り口は狭く両側から紅葉したアカメガシワなどの樹木が覆い被さっているので、うっかりすると見逃しそうだった。神社を右手に見て上り直すと、神社の奥に奇妙な建物がある。ピラミッド形の館の左半分に円筒状の展望室のようなものが貼り付いている。個人の住宅らしいが、その下の神社との対比がいかにも唐突な印象を与える。

八幡坂は左に大きく曲がって、小日向台の住宅街の小路へ消えている。その小路は人がすれ違うのがやっとくらいの幅で、両側に住宅の、というより邸宅といったほうがよいのか、高い壁で囲まれて昼でも薄暗い。冬の夕方であれば、ますます暗い。しばらく行くとやや広くなって、やっと小型自動車が通れるくらいになる。その細い道を大分行ったところで、音羽通りへ下っているのが鼠坂である。その手前にも、鼠坂の中間へ下りられる階段坂がある。

鼠坂は、小日向台の邸宅街とその下の音羽通りの工場・マンション街を結んでいる。坂の上下で、風情は一変する。昔、坂の上は武家屋敷、下は岡場所(私娼街)だったというから、対比はもっと鮮明だった。あるいは、坂に結界としての機能があったのかもしれない。鼠坂の由来は、その狭さ暗さの連想によるものだろうが、今では幅も広がって綺麗に整備されているので、鼠につながる印象はない。両側はおおむね邸宅の高塀に囲まれた閑かな坂道である。ただ、長い。途中やや曲がっているがほとんど下部まで見通せるのでますます長く感じる。坂の途中から引き込まれている路地が、青々と苔むしていたのが目に残った。

鼠坂。イメージとはちと違ったが、たっぷりと長く、閑かで、ゆったりとして気分を漂わせた坂だった。音羽通りにでると、もう町並みは照明で明るく輝いていた。スタートが遅かったので、予定の階段すべては消化しきれなかったが、鼠坂は今日の打ち止めにふさわしい坂に思えた。

階段探訪 第二弾

1999年12月17日 金曜日 晴れ

早稲田 穴八幡男坂、女坂

前回は少しスタートが遅すぎたので、今回は9時過ぎに家を出る。天気は快晴。絶好の探訪日和だ。まず、早稲田の穴八幡を目指す。ここを始発点としたのは、久々に母校の様子を見てみたいという気分もあったからだ。去る者は追わずの精神よろしく、卒業以来ほとんど行ったことがなかった。

高田馬場から地下鉄で一駅。筆者が学生だった頃には、まだ地下鉄は通っていなかった。駅構内の「早稲田大学方向」の指示に従って表へ出るが、まるで浦島太郎。所狭しとビルが建ち並んで、早稲田通りが狭くなったように感じる。土地勘を取り戻すまでしばし、呆然。やっと見慣れた体育館の丸屋根を見つけて、失見当を回復する。

穴八幡は、一見落胆である。正面の男坂階段の周囲には、初詣対策か、やたらに一方通行だの、坂が急だから気をつけろのと、無粋な立て看板が目立つ。見上げれば、昨日できたばかりといった、朱塗りのけばけばしい山門。階段を上り切ると、どこぞの新興宗教の本山なみのぴかぴかの本殿。境内は、混雑する切符売り場のように、ステンレスの、これもぴっかぴかの柵が整然とならんでいる。こんな、はずじゃあなかった。わずかに昔の面影が残る女坂を下って、早々に次の胸突坂へ急ぐ。

穴八幡から胸突坂への道は、途中、早稲田の正門を左に大隈講堂を右に見て進む。正門手前の教育学部の門から入って、大隈候の銅像へ抜け、正門までキャンパス内を迂回してみた。外周には新しい校舎が建っているが、本部のあたりはほとんど変わっていない。図書館が会津八一の記念館に変わったくらいか。地下鉄を出てにわか浦島となったが、これで少しほっとした。

目白台 胸突坂

新目白通りを突っ切って、印刷工場街を抜け、神田川右岸を下流へ。最初の橋を渡ると、目の前がもう胸突坂の上り口だった。坂そのものより、坂の左側にある神社に、だだものならぬ雰囲気がある。やや乱雑な印象の駐車場をかねた前庭があって、中央に参道の階段があり、上がり切ったところに小さな社がある、といえばごく当たり前の神社風景だが、その階段が思い切り年期が入っている。踏み面の石は、多くの人に長い年月を踏みしめられてすり減り、どれひとつとして水平なものはない。そして、その階段最上部の左右に、イチョウの巨木が2本佇立している。まだ、落ちきっていない黄色い葉が、おりからの陽光に映えてまぶしい。

左側のイチョウの枝は複雑に入り組み、その下部から乳房にたとえられる、大きな気根が垂れ下がっている。右側のイチョウは、正反対にすっきりと空に向かって枝を伸びている。雌雄一対と形容するにふさわしい。両樹の根は、こんもりと張りだして階段の石組みを持ち上げている。その樹間を通るときは、生半可な山門をくぐるより、神域へ踏み込む気分を誘う。説明書きによれば、神田上水の堰を守る水神を祀ってあるという。胸突坂は、そのため水神坂とも呼ばれるそうだ。

水神社と坂を挟んで反対側に、関口芭蕉庵がある。芭蕉の旧居を復元したものだそうで、公開はしていないようだったが、木戸口から覗くと綺麗に手入れされた奥庭がかいま見られた。なぜ、芭蕉がここに住んだかは、説明書きによって腑に落ちる。ここは、すでに目白台へ向かってわずかながら高みにある。当時は、目の前に神田上水の清流、それを越えてはるかに早稲田の湿地帯が美しく眺められたそうだ。今では上水の対岸には工場のビルが建ち並び、早稲田方面を望むべくもないが、さぞかし広大な田園風景であったのだろう。

胸突坂は、左に水神社の木立と右に芭蕉庵の塀越しの竹藪を従え、目白台へ向かって、すーっと立ち上がっている。小気味の良い坂だ。途中に、閉鎖されているが新江戸川公園への門があり、ちょっとした休憩所も設けられている。確かにお年寄りには一気に上りきることは難しいかもしれない。坂の上には、左に細川家の収集品を展示する永青文庫、右に落葉樹の保護区になっているという蕉雨園がある。蕉雨園は講談社の所有になるらしく「関係者以外立入禁止」とあって門内には入れないが、その先のアプローチは整然としたカエデの並木になっている。坂の途中からも、高塀越しにイロハカエデの大木が枝を伸ばしていた。なお、永青文庫は有料で公開されている。

穴八幡でがっかりしただけに、ここで大満足。坂自体だけでなく、周辺の環境も含めて一押しの坂である。もう一度、胸突坂を下って、江戸川沿いに、次の目的地、神楽坂周辺の袖摺坂と筑土八幡を目指す。途中の江戸川公園は、目白台の斜面と神田川に挟まれた細長い公園だ。このあたりの神田川は、深さ15mほどもある巨大な構渠になっているが、左岸から長々と垂れ下がったフユヅタがその無機的な姿に和らぎを与えている。遙か下の川面に巨大なコイが群遊していて、点々と緋鯉の姿も見られる。昔の神田川の汚染を知っているものには、想像もできないほど水は澄んでいる。公園の終わりが江戸川橋の交差点だ。

神楽坂周辺 袖摺坂、筑土八幡参道

江戸川橋から袖摺坂へは比較的単純な行程だ。江戸川橋通りを上がりきると、神楽坂からの延長してきた道が左から直交する。神楽坂方面へ進んで、音楽之友社を少し過ぎたあたりで、右折して小道に入り、最初の角を左折。しばらく道なりに下ると、袖摺坂の階段が現れる。大久保通りへのちょっとした下り坂だ。袖摺りの名から幅の狭さは想像できるが、長さもさほどない。大久保通りへは迂回の車道ができているので、ほとんど絶滅の危機に瀕している坂といっていいかもしれない。下りへ向かって左には金属製の黒い柵が、右手には石組みの斜面があって、ノキシノブだろうか、石と石の間から直接に葉が生えているかのように、細長い緑のシダ類が垂れ下がっていた。

そこから大久保通りを飯田橋方向へ下ると、厚生年金病院の手前左側に筑土八幡があり、正面が参道階段である。穴八幡の騒々しさはないが、逆にいささか地味すぎて、ものたりない。しっとりと落ち着いたというよりは、やや荒廃に傾きかけ、かろうじてとどまっているという印象だ。説明書きとともに、江戸時代の近辺の風景がステンレス版に刻んであり、わずかに昔の繁栄を忍ばせる。筑土の由来は、九州の宇佐八幡の土を運んで礎としたからとあった。

市ヶ谷 亀岡八幡の男坂、鼠坂、浄瑠璃坂、芥坂

次に飯田橋から、地下鉄で市ヶ谷へ向かう。市ヶ谷の亀岡八幡の階段が目的だ。ここは、南北線、有楽町線、総武線とどれでも選べるが、筑土八幡からとなれば、南北線が至近である。亀岡八幡は、手前のビルさえなければ、JR市ヶ谷駅からでも、外堀と靖国通を隔てて少し四谷寄りに見える位置にある。靖国通りから少し入るとすぐに、急な男坂が立ち上がっている。女坂は左から回り込む車道である。鳥居が銅製であるのも特徴か。階段の石はまだ新しく組まれたばかりらしく、白さを残している。途中、左に茶木稲荷という大きな摂社があり、そのすぐ上にかわいらしい金比羅宮、上りきると右手にもうひとつお稲荷様と、なかなかにぎやかである。筑土八幡に比べて活気が感じられる。餅つき開催の真新しい張り紙が目立っていた。

このあと、多分階段ではないと思うが、近くにまた鼠坂があるので寄ってみることにした。この鼠坂は奇妙な坂だった。坂そのものが奇妙と言うより、その途中が面白い。このあたりは起伏に富んだ複雑な地形で、靖国通りから入ると、左内坂を上って、Uターンするように安藤坂を下り、また中根坂を上って、その途中から右折して鼠坂へ至るのだが、その辺り一帯は印刷会社が広大な敷地が占めている。どうやら、その会社が、中根坂から鼠坂への道をふさぐ格好で敷地を買い取ってしまったらしく、鼠坂と中根坂を結ぶ道路を、高架にして社内の敷地を跨がせているのである。

鼠坂自体はとくに印象に残るものではないが、その先に浄瑠璃坂といって仇討ちで有名な坂がある。42人の討ち入りというから、忠臣蔵並のスケールの仇討ちだったらしい。先を急ぐので、また同じように印刷会社の敷地を跨ぐ別の道路を帰路に取ったのだが、なんとそれが芥(ゴミ)坂とあったのには参った。

麹町 無名の坂

もう一時を回っていたので、ちょっと寄り道をして、昔から知っている麹町の欧風カレー屋で昼食とする。この店もできて15年以上経っていると思うが、味はほとんど変わっていない。行きがけにうまそうな珈琲屋が目についたので、そこで食後のコーヒーを一杯。これはなかなか上質。女性だけでやっている店らしいが、『錆釉(さびゆう)』と名前も凝っていて、使っている器も美しい。今日はまだ先があってせわしないが、こんどゆっくり来ることにしよう。

麹町から市ヶ谷へ戻る途中に、東郷公園がある。名前から知れるように、東郷元帥の屋敷跡が公園となっている。その公園の隣に九段小学校、その隣に名もない小さな坂がある。これは、麹町と九段の間の谷間から、九段側へ上る坂である。途中、一回折れ曲がっているが、その上の住宅から、丁度今が花時のツルソバが長く垂れ下がって、その上にさらに白ハギが坂を覆うようにせり出してきている。ささやかながら、生活に密着した好ましい坂である。

曙橋 念仏坂、暗坂

次は、また市ヶ谷へ戻って、都営地下鉄で曙橋へ。この周辺に、靖国通りを隔てて、念仏坂と暗(くらやみ、くらがり)坂がある。念仏坂は少々迷った。周辺が区画整理の途中で、道筋がどうもつかめない。そこで、遠回りになるが、一番確実な道をとって、外苑通りの合羽橋北詰から入って、住宅街を抜け、念仏坂の上へでた。面白い坂である。今回は上からアクセスしたが、下からなら漏斗形に末広がりの階段だ。その広がり出すあたりで、左へ屈曲する。説明書きには、この近くに念仏僧がいたとか、転ぶと危険だったので念仏を唱えてから下りたとかあった。現代の姿は、両側の整然としたビルの感じとも相まって、都心の近代的なデザインの階段と形容するのがふさわしい。坂の下は、いまは引っ越してしまった8チャンネルへのメインストリート、あけぼの橋通りの繁華街だ。

次の暗坂を目指して、あけぼの橋通りを靖国通りへ少し進むと、念仏坂とは反対側に、大谷石作りの無名の階段があった。上下してみたが、いままで見てきた階段と比べて、いまひとつ魅力に乏しかった。

あけぼの橋通りが靖国通りへ出たところの信号を渡って、少し新宿方面へ歩くと、左手に四谷三丁目方向へ上がる短い階段坂がある。これが闇坂だ。説明書きによると、名前の由来は、往時、近くの全長寺の寺社林が繁茂し、この坂を覆うようにして暗かったからとある。暗闇坂と記すのは誤りで、暗坂が正しいとあった。今は、寺社林は跡形もなく、両側に樹木ならぬビルが覆い被さるように建っている。昔の姿を忍ぶべくもないが、下から見上げて左のビルが黒々と陰気な雰囲気をもっているのが、わずかに“暗”を連想させる。

赤坂 丹後坂

暗坂を上ってそのまままっすぐ進むと、新宿通りにぶつかり、すぐ左手が四谷三丁目の交差点だ。そこで、また地下鉄に戻って、赤坂見附の丹後坂を目指す。

丹後坂は、念仏坂の8チャンネルに対抗したわけでもないだろうが、6チャンネルのTBSへのメインストリートである一ツ木通りから入っていく。地下鉄赤坂見附から一ツ木通りへ出て、旧TBSの少し手前を右へ入ってしばらく行くと右手にあり、青山通り方向へ上がる階段である。念の入ったことに、この坂は、念仏坂とは逆に上部が狭まっている。中央にイヌツゲの植わった分離帯があり、そこに何本か、まだ若いクスノキが植わっている。幅も長さも十分ある。場所柄か、よく整備されていて周囲のマンションとも釣り合っている。ただ、この階段の設計者は、クスノキがどれほどの大木になるか予想しなかったのだろうか。これらの木がすくすくと育てば、それこそ暗闇坂になってしまう。名前の由来は、近くにあったという丹後某の武家屋敷があったからということだ。

神谷町 西久保八幡の男坂、雁木坂

次に、地下鉄赤坂見附駅に戻り、霞ヶ関で乗り換えて、神谷町に向かう。まずは、神谷町から桜田通りを芝方向へ向かってしばらく行った右手、西久保八幡の男坂階段である。変な商売気などない落ち着いた感じの神社で、階段もそれに相応しく地味な雰囲気であるが、かなりきつい。登り切った境内は広びろとして、寂しいくらいだが、その背景がいけない。某宗教団体の巨大な本部ビルの片流れの屋根が、まるでお化け亀の甲羅のように覆い被さっているのだ。まさに、神社を併呑しようかという勢いである。

ふとみると、社の右側に、もう一つ階段がある。裏参道といったとろか。覗いてみると、この階段、ギクシャクとS字型に曲がりながら、なにやらさびれた感じの満ちた裏町へと下っていく。階段右手は、荒れ果てた空き地。左手には、住人の有無も定かでない廃屋。周囲の建物も古びた二階建てで、すべてこちらに背を向けている。表通りの喧噪から一歩入ると、時間に取り残されたかのような荒廃があった。

裏参道を往復し、また男坂を下って桜田通りをさらに進み、右折すると、右手にあのこけ脅かしの巨大亀を正面から見ることになる。この角度から見ると、建物中央部の奥行き方向へ通路が貫通しているので、まさに首を引き抜かれたスッポンといった有様だ。こういう建物を設計したのは、どんな建築家なのだろうか。

で、雁木坂は、亀の正面から左手へ上がる、ほどほどの坂だ。両翼のつつじの植え込みがたっぷりと幅広にとられて懐の深い感じを与えている。階段中間から左手に派生する小振りな階段があり、蹴上げが妙に短いのが愛敬である。この階段の変わっているところは、新旧階段が綯い交ぜになっている点だ。階段下部はまだ新しく、踏み面が肌色の花崗岩であるが、少し上がると旧階段の踏み石を中央に残し、それをサンドイッチするように外側をコンクリートで固めた階段になる。これほど表情に富む階段も珍しい。

広尾 釣堀坂

さて、これで今日の目標は、あと1つ。広尾の釣堀坂を残すのみとなった。神谷町まで戻って地下鉄に乗り、広尾の駅を出た頃には周囲はそろそろ暗くなりかけていた。広尾の駅近くの広大な有栖川宮記念公園の南外周に沿って、南部坂を上り、ドイツ大使館から1ブロック行ったところを右へ入る。フィンランド大使館をやり過ごして、適当なところで左へ入ってしばらくいくと道が途絶えると見えて、そこに釣堀坂の下り口があった。大半はスロープで、右側にわずかに階段がついている。この坂は、谷底へ下って、下りきるとそのまま反対斜面を上っている。昔、この谷底に釣堀があっただろうことは想像しやすい。いまは、谷底の右手にビクトリアコートというおごそかなマンションが建ち、左手には普通の住宅が並んでいる。谷底へ下り立つと、夕闇の深閑ととしたなかで、四方から流れ込んでいるのだろう、下水の音だけが響いていた。

もう真っ暗になったなかを、もとの道を引き返し、今度は有栖川の公園の中を通って広尾駅へ向かった。公園内の道は、落葉で埋まって疲れた足裏に優しい。この道を昔、背の低い有栖川の宮が、皇女和宮の袖にすがって歩いたのかもしれないなどと、たあいのない想像をしながら…………

番外 大井町 へび段々坂

これで、やめてもよかったのだが、最後に欲が出た。今回の階段探訪は、山手線内ということに枠をはめていたが、どうしても番外でひとつ行ってみたい坂があった。名前に惹かれたのである。大井町の“へび段々坂”という。なんという奇妙な名前だろう。どうしても見ておきたい気持ちに抗しきれなかった。相当くたびれてはいたが、広尾から一駅地下鉄を乗って、恵比寿でJRへ乗り換え品川経由で大井町へ向かった。

大井町駅からその坂への道は、入り口を探すのにちょっと迷ったが、それさえつかめばあとは一本道である。それは、ほとんど区画整理などされていない、昔のままの細い道だった。坂本体もさることながら、アクセス路自体が蛇のうねりを思わせるのである。この道は、駅からちょっとした丘陵地帯を越えて、ゆるやかに目的地へ向かって下っている。そして、その最後のひと下りに、大蛇が横たわっていた。下り鼻は、左側に階段があって、右側はスロープだ。それが、一回右へ曲がってしばらくで段々はなくなる。その先でひとうねりした後、幅を狭めて左へ曲がり返し、マンションの脇をすり抜けて、第一京浜へ抜けていた。周囲に木立が多く、落葉が坂を埋めていたが、途中に建築中の建物があり、そこで坂の雰囲気が分断されているのが惜しまれた。

探訪を終えて

いくつか取りこぼしはあるが、山手線内の主立った階段坂をへめぐってみた。

まず、第一の感想は、東京にはかくも坂道が多かったか、である。むしろ平坦地のほうが少ない。山手線を見ても、御徒町から東京駅を経て田町あたりまでの起伏の少ない景観は例外的なのである。上野から田端にかけての山手線は崖線沿いに走っているし、田端から先、大塚あたりまでは切り通しと高架が入れ替わり立ち替わり現れる。大久保、新宿あたりは平坦だが、代々木から原宿はなだらかな斜面を横断しているし、渋谷は、その名の通り谷底にある。その先、恵比寿、目黒も深い切り通しの底に駅がある、といった具合だ。だから、少し気にかけてみれば、坂も階段もわれわれのごく身近に数限りなくある。

そして、古くからの坂には、必ずといっていいほど、坂の名前と説明を記した掲示版や碑があった。また、冒頭にあげた資料を読むと、江戸時代から坂を名所として解説する書籍が少なからずあることがわかる。坂や階段を好むのは、さして特別な傾向ではなかったのである。

ここに登場した階段坂を、すべて上り下りしてみた結果、どうやら坂の楽しみかたには、いくつかの側面があることがわかった。

  1. 坂そのものの姿の美しさ、風情などを味わう楽しみ。
  2. 下から見上げ、上から見下ろし、上り下りしながら周囲の景観の移ろいを味わう楽しみ。
  3. 坂名の由来や坂にまつわる史実、説話などを知る楽しみ。
  4. 坂を境として、その上下の町並みの相違を観察する楽しみ。

 こうのような多面的な坂の楽しみを知ってみると、冒頭の“愛宕坂は都内一等の云々”は、いさか訂正せざるを得ない。確かに愛宕山の階段は、その力強さ、存在感においてダントツである。また湯島天神の男女坂も、その風姿秀逸である。しかし、寺社の階段は、決定的に 4.の要素を欠いている。階段の下には町並みが展開しているかもしれないが、階段の上は、新旧、美醜、地味派手、盛衰を問わず、神社仏閣以外にはありえない。

そのような反省に立って、坂のもつすべての楽しみを高いレベルで満たしてくれる坂を思いおこすと、まず筆頭に目白台胸突坂、次に小日向台鼠坂が挙げられる。その理由は、本文を読めば、おのずと理解していただけると思う。この記事を読んで、もしもあの遺伝子がうずくようであれば、好みの坂を求めて、近辺探訪をお薦めする。“階段”という縛りを外せば、さらに広い坂の世界が開けることだろう。


現在の閲覧者数:
inserted by FC2 system