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雪舟展の後、次はプラドにするか、カンデンスキーかと考えていた。うだうだするうちに、後者の展示期間が終わりそうになったので、25日に国立近代美術館のカンデンスキー展を見に行った。お年寄りの多かった雪舟展とは明らかに観客層が異なる。こちらは平均年齢も若く、一見画学生、デザイナといった風体の客が多かった。最終日の前日の土曜だったが、ほどほどの人数で、雑踏にうんざりするほどではなかった。

ワシリー・カンデンスキーは、いわゆる抽象画といわれるジャンルの先駆者だ。これまでポスターや画集で見て、その自在な色の構成に好感をもっていた。画面の中で、様々な色の領域が、互いに緊張関係を維持しながら、奔放に躍動している…………とね。うーん、何か好きだなあと、思っていたわけだ。

ところがどっこい、実物はこれまでの印象と大分違っていた。初期の具象画時代からすでに色遣いの特徴ははっきりしていて、これはこれで好ましかったのだが、1910年台後半の、明確に抽象画を意識した後の絵は、どうもだめである。一瞥しただで、拒否反応が起きてしまう。写真などの印象より色はややくすんだ感じだが、問題は色ではなく、線である。この線がどうも猥雑な印象を受け る。もちろん、評論家などのコメントでそんなことに触れたものはないだろうし、まして画家本人に、そんな線を描こうとする意図があるはずはない。しかし、自分の時間と金を使って、無責任に見ているぼくにとっては、そうなのである。美食に隠されたトゲのように、気になって没入を妨げる。彼の抽象画は、ピエト・モンドリアンやジャクソン・ポロックのように対象の形状から完全に解放されているわけではない。よく眺めれば、明らかに、個別の形状を描き込んでいるし、解説を読むと具体的に表現しようとした事象がある(例えば、代表作のコンポジションZは、黙示録 だという)。具象と抽象を分ける線が、ぼくには邪魔に感じられるのかとも思うが、理由は自分でのも分析できない。ただ、“この線は嫌だ”なのである。

ド・スタールのように、TVの日曜美術館で見て、ちょっと興味が湧いて、展覧会を見に行ったら、たちまちのめり込んでしまうこともあるし、今度のように、長いこと好きなはずであった絵を、実物を見たがために嫌になってしまうこともある。実物とコピーの不思議な関係を、再認識させられたカンデンスキー展だった。


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