道草Web

彼が亡くなって早くも半年以上が過ぎた。つらくて思い出したくはないが、最後のころのことは、彼の知人ではぼくが一番知っているようなので、書き留めておくことにした。これから書く話には、なんの慰めになることも、気休めになることもない。 それでよければ、お読みください。

去年の5月に、あるところにぼくは次のような文章を書いた。

表現者の至福

今年はベルディの没後100年だそうで、演出家の宮本亜門と料理評論家の山本益博がNHKの3chでベルディを軸にさまざまなオペラ歌手の絶唱を紹介していた。宮本亜門というのはどうにも鼻持ちならないが、益博のオペラの蘊蓄は相当なものだ。その番組の最後に、今年1月にアッバードがベルリンフィルで、ベルディのレクイエムを振った演奏の録画が流された。予告の画面で、アッバードの顔が異様にやつれているので気になった。その後の番組での話によると、胃ガンでしばらく闘病生活を送り最近やっと復帰したのだそうだ。最近クラシックなどとんと聴いていないので、まったく知らなかった。復帰したといってもあのやつれかたでは心配である。

しかし、この演奏は名演だった。声楽系はほとんど聴いたことがないし、ベルディのレクイエムは部分的には耳になじみはあっても(アニュスデイの冒頭の辺りは誰でも記憶があるかもしれない)、全曲を通して聴いたことなどなかった。ごく微音の弦で始まる冒頭から異様な緊迫感があって、TVの前を離れられなくなってしまった。オケとコーラスと独唱と、すべてが渾然とした小宇宙を形成していて、まったくすきがない。宗教心のないぼくには、訳し出される字幕の字句にはまったく共感はないというのに、紡ぎ出される音の奔流には完全に圧倒されてしまった。

ぼくの周囲にはいまガンと戦っているひとが、二人いる。一人は母であり、一人は古くからの友人である。母は病と面と向かって怯まない。むしろこちらが慰められてしまうほどだ。一方の友人、彼の病状はすでに末期である。とびきり頑強な体と優れた知性と鋭敏な感受性を併せ持った男だ。それがガンに蝕まれてしまった。たわいもないなぐさめなど直ちに看破してしまうから、ぼくも口にはしない。ただ、彼の話を聞くしかない。

そんな状況にあって、同病のアッバードの奇跡的な演奏を聴くと、これは表現者の至福だろうと思う。残念ながら凡人はそうした表現手段をもたいないが、だれだって、あんな演奏ができれば明日死んでもいいと思うに違いない。まもなくここから去るであろう、古い友人に、あの表現力を与えたかった。

医者から余命1年と宣言されたという話をすでに本人から直接聞いていたので、こんな文章になった。今から思うと、彼のことや母のことが気持ちの中にわだかまっていて、アッバードの状態が引き金となってこれを書いたのだろう。

しかし、驚いたことに、9月のまだ暑いころに、彼が自転車でぼくのうちに元気な姿を見せたのだ。彼から電話があるのは、いつも病気が悪化してひどく落ち込んだときだったから、日に焼けた彼の顔を見て、良かったという気持ちと同時に、不思議な気持ちがしたものだ。しかし、まだ抗ガン剤の治療は続けているそうで、飲んだあとは非常に不快なものだと話していた。さいわい、彼の髪の毛はまったく健在だった(ぼくのほうはまったく心許ない)。軽い山などをこなしながら、そろそろ社会復帰を考えていると話していた。紅葉がよいころに、みんなでどこかで野宿をしたいなあと、話し合った。

昔の仲間に連絡して、10月早々に、彼の自宅に近い高田の馬場で一杯やったのだった。しかし、そのときはすでに再発していたのかもしれない。夏の来宅のときほどの元気はなかった。往時の活発な知識の開陳はなく、ほとんど我々の話を聞いているだけで、料理もあまり口にしなかった。ぼくが自宅まで送り、しばし部屋で話し込んでから分かれた。

11月の末、彼から頻繁に電話が来るようになった。もうこの時点で、再発は決定的だったようで、彼は覚悟を決めたようだった。もう入院はいやだという。ぼくは自宅で仕事をしているので、話したいことがあったら、いつでも電話をくれといった。それから、堰を切ったように電話がかかってくるようになった。日に数度、ときには1時間以上に渡って電話が続いた。判で押したように、“すまんな、邪魔をして”と話 しだし、さまざまな思い出を、それこそ思い出せる限り話し、話題が尽きると、“ああ話すことがなくなってしまった。また、生きていたら電話をさせてくれ。”といって切るのである。だれでもいいから何か話をして、死の恐怖を紛らわせようとしているのが、痛いほどわかった。ぼくはひたすら聞き手に回った。

今の医学で自分の病気がもう治せないことを彼は悟っていた。無駄な延命治療をもはや望んでいなかった。しかし、彼といえども、間近に迫った死を平静に受け止めることはできなかった。ひと一倍鋭敏な感性と明晰な理性をもっていた彼だからこそ余計、苦しかったろう。彼は、死は完全な無であることを認識していた。何かにすがって、死後の世界を夢見るような逃げ道は彼の理性が遮断していた。精神がいくら飛躍を試みても、蝕まれた肉体が、その行く手を阻んでいた。そんななかでも、彼はしばしば新しい理論の構築を口にしたし、その話には悲壮なまでにユーモアが漂っていた。それは一方で、閉塞した状況への反撃であり、もう一方では、聞き手に対する配慮だったに違いない。

このようなやり取りのなかで、ただひとつだけ仕事の話ができることがあった。彼は、GIS(地理情報システム)の研究者。ぼくはライターと、共通するところはないのだが、たまたまこの時期、GIS関係の仕事がぼくに回ってきた。大学のカリキュラムを作るためのGIS用語集を作る仕事だった。もとをたどると、 彼と同僚だった会社で、彼と最初に仕事をしたのが、西宮市のUIS(都市情報システム)であったが、いまから思えば、あれが、おそらく日本での最初のGISのパイロットシステムだったのかもしれない。彼もGIS学会で用語集を編纂している。その話をすると、非常に喜んで、GIS関係の思いつく話はすべてしてくれた。彼のことだから、高度に過ぎて、こちらの仕事には取り上げられない内容もあったが、日本のGISの歴史をひっぱってきた男の話だから、本では調べようのない実感のこもった話を多く聞くことができた。

年が明けて、1月4日の午後、彼が我が家を訪れた。来るとはいっていたが、本当に来られるとは思っていなかった。とても外出できる容態とは思えなかったから。いま近くの地下鉄の駅にいると電話がきたときには耳を疑った。車で迎えにでると、ザックを背負った彼がうつむき加減で路傍に佇んでいた。車に乗り込むとき に気づいたが、彼のズボンに血が染みて痛々しかった。足が腫れ上がり出血するらしい。よくもそんな足で、地下鉄を乗り継いでやってきたものだ。ザックには、形見のつもりの山道具がつまっていた。数キロもある鉄鍋まで入っていたのだ。

夕暮れまでの時間をとりとめのない話しをして過ごした。もう口内炎がひどく、あまりものは食べられず、茶碗蒸し、オムレツ、それにマロングラッセなどを摘みながら、好きなビールを何杯かお代わりした。暗くなったので車で自宅近くまで送った。ここでいいよというので、明治通りを避けて、学習院から早稲田へ下る道路端で彼を降ろした。車から姿が見えるあいだ見守っていた。彼は明治通りの交差点をゆっくりと渡っていった。それが彼を見た最後だった。

それからも、電話は続いた。震える声で平家物語の一節を暗唱し、ときには漢詩を口ずさんだ。そして、春になったら山で焚き火をしよう、3月になったら青梅の梅園へ行こうと、少しずつ先の予定を話し合った。“何か先の予定を立てておかないと、気持ちが持たない”というのだ。実際に3月になって、梅の花が咲き出したころ、これから迎えに行くから、本当に青梅へ行こうと 誘ったが、もうその気も失せたらしい。まったく話に乗ってこなかった。そして、日に数度あった電話が1日おき2日おきと間遠になっていった。自室の電話は、自分が掛けるときしか接続していないので、こちらからは掛けられない。

3月13日、知人から“YMさんさんが7日に亡くなった”と電話があった。思わず「ああ、それはよかった」と応えた。もう彼は苦しまなくて済むのだ、それが実感だった。


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