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東博 『プライスコレクション 若冲と江戸絵画

今日(8月18日金)は、予想では台風の影響で雨模様のはずだったが、晴れて一気に気温が上がる。平日とはいっても、来週いっぱいで終わりなので混むとみて早めにいった。9時を少し回ったばかりで、発券所のまえでしばらく待たされた。はじめは数人だった待ち人も開館の9時半には門前の広場を埋めるほどになった。といっても会場の平成館の広さを考えるとさほどの人数ではない。

その広い平成館の2階をすべてジョージ・プライスという個人のコレクションが埋めるのだからすごいものだ。この展示は5章構成で、「正統派絵画」、「京の画家」、「エキセントリック」、「江戸の画家」、「江戸琳派」となっていて、その順に平成館の2階に反時計回りで展示されている。開館してすぐだから、まず冒頭の正統派絵画から混みはじめる。みな生真面目なのか、最初の開催の挨拶のところに人だかりができている。

最初の2章は飛ばして第3章「エキセントリック」の展示へ向かう。まだ第一波が押し寄せていないから見たい放題だ。エキセントリックというと「奇矯な」と取られるが、本来はex-centricであり、正統を中心とすれば、それから離れているの意味で「異端の」が近いか。ここには、この展覧会の中心である伊藤若冲がずらーっと並んでいて、エキセントリックなら俺も入れろとばかり、曽我蕭白が二点(伝蕭白が一点)掉尾を飾っている。異端なら負けいない河鍋暁斎(きょうさい)は明治まで生きたひとだから江戸絵画の四章へまわされていた。

江戸の異端
寒山拾得図 曽我蕭白唐人物図 伝蕭白妓楼酒宴図 河鍋暁斎 達磨図 伝暁斎

メモ:真贋

上に真筆と、伝蕭白、伝暁斎を並べてみた。“伝”がかならずしも偽物とはかぎらないだろうが、面白い共通性がある。つまり、意図的に本物より本物らしく描いたことがはっきり見て取れることだ。特徴を抽出して、強調するために筆致が克明になる。その代償として本物の細やかなタッチが消えてしまう。演芸の声帯模写などにも同じだね。

展示室の奥の正面に巨大な『鳥獣花木図屏風』が睨みをきかしている。細かなマス目を異なる色調で埋め尽くすその技法がデジタル絵画だなぞとよくコメントされる。しかし、よく見るとマス目はさまざまなサブ要素に分解される。マスが二重になっているもの、内部がさらに2マス、4マスに分割されるもの、あるいは、中に丸が置かれるもの、形のさだまらぬ筆触の残るものなど。しかもマスとマスは密接せず、その間ががまた別の意味をもっている。CSSの記述なら、マス(BOX要素)が、そのborderもmarginもpaddingもそれぞれ固有の絵画的な意味をもたされているといえばいいか。ブログの好きな人は分かるよね。だから、デジタル絵画などといわれても、そんなに単純かよ、と思ってしまう。西陣織の原画から発想した手法だろうとはいわれているが、この絵はあまり好みではない。白象の目が妙に座っている。

?デジタル若冲?
鳥獣花木図屏風

若冲が好きも嫌いも、あの独特の執拗さにあるだろう。その典型は、『紫陽花双鶏図』。のしかかるように垂れ下がる濃い紫陽花の花房を、雄鶏の華やかな尾羽が押しのけるようにして拮抗している。雄の視線の先には、自らの羽根に頭部を隠すようにて、こちらに視線を送る雌がいる。紫陽花がのしかかるように思えるのはその描写の克明さと濃い群青の色遣いにある。雄の尾羽も強烈なコントラストと細部の描写でそれを跳ね返す。その息詰まるような緊張関係が、雄の視線に誘われて、雌のいる右下のやや沈んだ色調に吸収される。たしかに、侘び寂びとか羽化登仙といった気分はかけらもない。思いこんだからなりふり構わず突き詰めるしつこさがある。そのへんが外国人プライス氏の再評価を待つまで国内で認知されなかった理由だろう。でもその評価は明治以降のものであって、同時代のひとは結構好きだったんじゃないかな。

ほかに印象に残ったのは二点。まず『葡萄図』。これは若い頃の模写とあるが(若冲の数多い展示で制作年のわかっているものは少ない)、葡萄の枝の絡まりようや、枝の屈曲を老婆の指の節くれのように描くあたりは、そうとう原画を離れて自分の好みで描いているように思える。他の若冲のような、ときに排他的、攻撃的となるくどさがなく、墨の濃淡のこっくりした味わいが好ましいのだ。もうひとつは『花鳥人物図屏風』六曲一双。これも墨絵だが、一見、これ若冲?という感じ。一幅ずつにさほど時間をかけずに、たっぷり墨をつけた筆でさっさーと描いてしまったよう。淡泊という感じはさらさらないが、諧謔味が横溢している。とくに卵を背負って、こちらを振り向いたような老人の後ろ姿。李白か、と注してあったが。この卵の線がたまらなくいいし、上向き加減に振り向く老人の表情は、詩仙といわれれば納得する。これが若冲?とは書いたが、素人でも間違えない刻印がある。鶏(ニワトリ)の顔、とくに目だ。鶏を描いたどの絵を見ても、まん丸で驚いたような、あるいは脅すような目だけは同じである。

若冲の墨絵
葡萄図花鳥人物図屏風

若冲と並んで、この展覧会の売りは、ガラスケースなしの展示と自然な照明だ。これはプライス氏の主張で、自身の鑑賞方法に準じるという。博物館側がむしろ反対だったのは納得がいく。重要な作品ほど保護のため密閉ケースに入れて見にくいくらい照明を落としていることが多いから、裸の展示など例外中の例外。鑑賞者にとってはもっけの幸い。

全展示の末尾は、このコーナーである。自然光は時の移ろいに応じて、入射角、明るさ、色調が変化する。それを模して照明を変化させるわけだ。だか、これは予期したほど感心しなかった。自然光といっても、所詮、人口照明である。その変化の中に作品を置いても、短いシーケンスでの変化と、あくまでも人口光であることの“不自然さ”のほうが気になってしまった。個人的な趣味にすぎないが、やや暖色系の一定の照明でじっくりと鑑賞するほうが好みだ。

その点で、一番楽しかったのは酒井抱一の『十二ヶ月花鳥図』十二幅。四季の移ろいを描いた十二幅の掛け軸が、大きな弧を描くように配置してある。まだほかの観客はほとんどこの室まで到達していないから、自分一人でその孤の中心に立ってゆっくりと見渡す。照明は“好みの”暖色系。いやあ、これは至福。贅沢なものです。プライス氏は、いつでも自宅でこの豪奢を味わうことができる。まさに、富と美は偏在する、ですな。

この十二幅に囲まれて
十二ヶ月花鳥図 酒井抱一

展示の最後は、応挙の『懸崖飛泉図屏風』八曲一隻、四曲一隻。八曲を正面に、四曲がそれと交わるように右側奥に配置してあった。近景には沢と巌岩に斜立する壮松、中景に二匹の鹿、右奥の遠景に懸崖飛泉である。描きこみはあまりなく、たっぷり余白をとって整斉として奥行きのある空間が拡がっている。おもわず李白が香炉峰に懸かる滝を詠った、飛龍直下三千尺、疑ごうらくはこれ銀河の九天より落つるかと、の詩を思った。これまでの濃密で多彩な絵画の数々を鑑たあとで、この屏風にあってほっとしたものである。なによりこの応挙は優しかった。

飛龍直下三千尺
懸崖飛泉図屏風 円山応挙

最初の2章は飛ばしているから、もういちど見直す。その点、この平成館は都合がいい。普通だと、もう混み出した会場を、人波を避けながら逆行しなければならないが、ここは最後の室の出口が、最初の室の入口の向かいである(展示全体の改札は階下)。だから、そのままもう一巡できるのだ。もうすでにどの展示も前に列ができていたが、目的のものは見終わっているので、ゆったりと後列からひろいみをした。

いい展覧会だった。つまらないと、索漠として早く抜け出したくなるが、好みにあえば、楽しくて気持が弾んでくる。今回は間違いなく後者だった。実は、つい最近あった神奈川県立近代美術館(逗子)のジャコメッティ展を見逃してしまったのだが、あちらの場合は、いくら展示が充実していても楽しくはなるまい。まあ、これでよかったのかな。


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