道草Web

いつだか芭蕉のことを書いた。そのとき、実盛を詠んだ“むざんやな甲のしたのきりぎりす”の句に触れた。最近、実盛について、また新しいことを知ったので書いてみる。もちろん、古典に造詣の深い諸氏には、周知の事実かもしれないが。

昨日、亡くなった友人YMを偲んで、元の会社の同僚2人と吉野の梅郷を訪ねた。この梅郷には、YMの企画で何度か来たことがある。酒好きで自然を好んだ彼には、墓参よりふさわしかろうと、去年からここで観梅の宴をはることにしている。今回、仲間のリーダー格だったNG氏が、一本の梅の木の下のベンチを祭壇と見立てて、故人の大好物のビールを供え、平家物語の 「倶利伽羅落」や「惟盛入水」などの段を朗読した。そのなかに「真盛」があった。これが能『実盛』などの鬢洗い物語の原典になる。

これには伏線がある。去年の観梅のおり、YMが亡くなる直前 の電話で、かってはそのほとんどを諳んじていたという平家物語の好みの段を涙声で語ってくれたと、話をしたのだ。 あの長大な平家を暗記?、そんな馬鹿なと感じるかもしれないが、われわれには不思議ではない。YMはそのくらいの記憶力の持ち主だった。そのときNG氏は、いったいどの個所を読んだのかとしきりに気にしていた。 自身も平家物語を愛読していて、YMとは何度かその話をしていたらしい。能には、平家物といわれるジャンルがあるほど、平家物語からテーマを取った曲が多いので 、主立った武者 や公達の名前は聞き覚えがあるが、恥ずかしながら、平家物語はほとんど知らず、答えられなかった。

そこでNG氏は、やむなく自身の推定で、上記の個所を朗読し、手向けたのであった。その朗読のおり、「樋口次郎一目見て、“あなむざんや、斎藤別当で候けり”」という一節が耳に残った。そうか、芭蕉はこの部分を踏まえてあの句を詠んだのだなあと。日本の古典は、意味に厚みを与えるために、引用がひとつの手法として確立している。例え、引用に気づかなくても、表面的な意味は理解できるが、知っているとさらに作品の世界が広がった気がする。

今日、最近買った岩波文庫の『平家物語』をくって該当個所を読んだり、Webで実盛を調べていたところ、こんな記述があった。芭蕉のあの句は、最初は“あなむざんやな…………”と破格だったが、あとになって自身で“あな”を取ったという。このことの真偽のほどは知らない。しかし、これでまたひとつ、あの句と能『実盛』が、面白くなったことは間違いない。


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