道草Web

今日の朝日の夕刊に田辺聖子のエッセイがあった。 今時の若いもん(とも限らないが)の言葉遣いの乱れについてである。そういえば、おおよそ内容 の想像はつくだろう。そこで挙げられている例は、つぎのようなものであった。

   暑さの夏が近寄る
  土器がうようよ出てきた
  にも衣装
  いみじくも
君は部長ではないか
  もの(→縫い物)

最後の例を除いて注釈の必要はないと思うが、 こうした言葉遣いをおかしいと思うのは、我々の世代にとっては当然のことで、どちらかといえば我々はこの小説家と同じ立場にあるわけだ。

しかし、彼女が文壇デビューした昭和三九年ころは…
“新聞社も出版社も、その他も、一糸乱れずピシッとなっていて、ヘンな日本語はきちんと淘汰排除されていた”
と言われると、なるほどと思うより、ちょっと待てよという気になる。

正しい言葉遣い(と少なくとも本人が思っている)のは、一種の社会的な規範であって、社会の変転に従って流動するものだ。この小説家の論法は、自分の受けた教育なり家庭的な言語環境を前提として、それを一方的に押しつているようにも見えなくはない(二重否定で逃げているのは、実は自分でもNHKの若いアナウンサーの喋りなどを相 手にしょっちゅうやって同じことを感じているからだが)。

定型的な用例を崩すというのは、そのほうが面白いとか、新鮮だと思ってわざと違えて喋ったり書いたりすることもある(多分、そのうち、自分でも区別がつかなくなるかもしれない)。たまたまそうした表現に接したまっさらな若い頭脳にとっては、最初に飛び込んできた言葉が染みつくのは、言語の自然な習得過程だ。

そして、論理を司る言語にとって遺憾なことに、正しい言葉遣いの“正しい”にはなんら論理的な正当性がない。ごく近い過去にそう使っていたという惰性以外に根拠はないのだ。

彼女の主張が正しければ、言語に変化はなかったはずだし、極論すれば、猿の鳴き声から進化していないはずである。もう少し、緩和して言えば、いまだに我々は縄紋か弥生時代の言葉で喋っているはずだ。田辺聖子の文章 や喋りを、明治生まれのひとが、江戸時代のひとが見聞きしたらどう思うか。正しい日本語だと思うだろうか。

いつもこの問題ではジレンマに陥るのだけれど、こうしてたらたら、くどくどと、“今時の若いもんの言葉遣いは”なんどと繰り言をいいながら、少なくとも自分が生きている間だけは自分が覚えている言葉が通用して欲しいと、あがいているのかもしれない。


現在の閲覧者数:
inserted by FC2 system