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シアターコクーンの串田和美演出『四谷怪談』を観た。二幕構成の一幕目はやや退屈だったが、二幕目は尻上がりに面白くなる。最後の果たし合いで最高潮に達した。歌舞伎の殺陣は緩慢な型になりきっているが、これは違う。スピード感、躍動感、スリルに、おもわぬチャリまで入ってぐいぐい観客を引き込んでゆく(舞台で水を使うのは誰の好みかしらないが)。

この四谷怪談では、古典芸能というだけでなく、純粋に演劇としての面白さを満喫した。歌舞伎がその原点で持っていただろう特質の再生かもしれない。橋之助がいい。ぼく自身は吉右衛門が最高の立ち役と思っているが、この芝居で橋之助が見せた小気味のいい悪党の演技は、吉右衛門にはないものだ。劇場をあとにしながら、“吉右衛門にはできねえなあ”とつぶやいたものだ。

どだい古典芸能を観ていて、映画ほどはらはらしたり、クラシックほど深く感動したり、相撲や野球ほど熱中することはない。古典芸能では、完成した様式を完成度の高い演者が高度の技術で演じて、はじめてなにがしかの感動を与える。古典ではギラギラ、ギトギトした直接的な表現が淘汰されて、情緒の一般形式(そんなものあるのか?)に昇華されているからだ。その例外が歌舞伎かも知れない(もちろん歌舞伎も様式美の賜だが)。

このところ歌舞伎の世界でつぎつぎと新しい試みが行われている。勘三郎が勘九郎の時代から試みていたコクーン歌舞伎や平成中村座を先達として、最近になって一斉に花開いたように、歌舞伎座で公演するいわゆる歌舞伎、ではない歌舞伎をやろうとする動きがめざましい。コクーンと中村座の串田和美、勘三郎襲名で『研ぎ辰の討たれ』を野田秀樹、菊之助のシェークスピアの『十二夜』を蜷川幸雄、『決闘!高田馬場』を三谷幸喜(これだけ観ていない)など、名だたる演出家が歌舞伎の演出を手がけている。歌舞伎本来の演目を新演出でやったり、西欧の戯曲を歌舞伎役者が歌舞伎風にやったり、新作の歌舞伎を若手歌舞伎役者が演じたりと、内容は様々だ。

古典の新演出は、能と狂言でこれまで何度も観ている。しかし、見所としてはどうも楽しめないものが多かった。つまるところ、役者の肥やしにすぎないのではないかと。だが、歌舞伎の場合は大分事情が異なる。そして、今回の四谷怪談でしみじみ感じたことは、数ある日本の古典芸能のなかで、歌舞伎ほど現代の息吹をすんなり受け入れて、自己の形式にもちこんでしまうものはない、ということだ。こうした洗礼を受けた歌舞伎役者は、これからの時代の歌舞伎を作り上げていくに違いない。あやふやな記憶だが、吉田秀和が加藤周一の言葉として、“ロマン派のなかで最後まで残るのはショパンだろう”と言ったと、どこかで読んだが、これをパラフレーズすれば、能、狂言、文楽がなくなっても歌舞伎だけはどっこいしぶとく生き残るのではないかと思う。


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