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南ア北岳バットレス四尾根

梓編年

1976年10月16日(土)〜17日(日)

鈴木、齊藤、橋元

16日

夜叉神峠 2:30〜7:30

(バス)

深沢 8:00

広河原小屋 9:30〜11:15

B.C. 13:00

(この日は、D沢出合まで偵察)

17日

B.C. 6:25

Dガリー大滝下 7:30〜7:40

四尾根 8:40〜14:00

(8ピッチ 中2本 山頂付近は積雪10センチほど)

北岳 14:10

B.C. 16:05〜17:10

広河原 18:25

夜叉神峠 22:07

この山行は、まだ兎の頃だが、OJが自分で企画したはじめての岩登り山行だった。タイムの記録と写真しかなく、行動についてのメモは残っていないが、思い出す限りを書いてみよう。

この年は、今思うと驚異的なペースで山へ行っている。岩関係の山行だけでも、4月の鹿島槍東尾根(KAV小川、大森)、6月の兎のマチガ沢、8月の剱岳(源治郎T峰側壁、八峰の六峰Dフェース、剱尾根 KAV小川、吉田、このときがOJの剱初登頂)、9月の涸沢(滝谷P2フランケ・ジェードル、奥又白北壁Aフェース、屏風岩中央カンテ KAV小川、寺岡、溝部、田島)、9月の甲斐駒黄蓮谷〜鋸山(小川)、10月の巻機山米子沢(鈴木、間瀬、齊藤、井上) 、11月の明星山(墓石陵 小川)と目白押しだ。それに11月には兎の冬山で鹿島槍(冨山、後藤、大森、本田など)へも行った。そのほかにも、富士山だ、尾瀬だ、丹沢だと行っている(仕事してたのかな?)。

この頃はまだ山の師匠KAVの山行に便乗して、客人扱いであれこれ岩をやっていたわけだが、そろそろ自分の企画で岩を登ってみたい気持ちが沸々とわき起こってきた。そこで、まず狙ったのが北岳バットレスだった。善さんと齊藤君とのパーティーになった経緯は、いまとなっては憶えていない。彼らにしても兎だけの本格的な岩は初めてだったと思う。

行きは、車(当時はオレンジのワーゲン)が夜叉神までしか入れず、そこで仮眠してからバスで広河原へ向かった。記録を見るまで忘れていたが、どうやらバスを途中で降りて、深沢下降点から早川を渡って広河原へ入っている。このころはやる気満々だから、北岳の稜線小屋へ直接突き上げる沢の下見のつもりがあったのかもしれない。

登攀の当日、天気は良かった。四尾根は8ピッチで登っている。岩としてはほとんど問題はなかったが、当時は、まだマッチ箱のコルが残っていて、そこへ懸垂下降した後、稜線へ登り返すところのちょっとしたハング(写真あり)がやや面倒だった。途中からかなり積雪があり、手が切れるように痛かったのを憶えている。

問題は帰りだった。無事四尾根を終えてベースへ戻ったのが、4時を回っていて、それからインスタントラーメンを作って食べた(空腹だったのだろう、旨かった)。丁度、そのころ広河原発夜叉神への最終バスが出発していた。ワーゲンは夜叉神に置いてあるから、当然、ベースの二股から夜叉神まで歩かなければならない。これは長かった。 広河原から先は、夜陰を歩きづめだった。それに、善さんは、巣鴨のゴローで新調した登山靴が足に合わず、どこかが当ってひどく難渋していた。夜叉神に10時過ぎについて、それからワーゲンを駆って東京駅まで二人を送って帰宅した。二人は八重洲口のシャッターの前で仮眠したはずである。

写真 鈴木善三撮影


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