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今年の山、そして剣のこと

 →梓編年

(1976年 OJ 33歳)

昨年の11月の合宿で、つまらない滑落事故を起こして以来5ヶ月山を遠ざかった。山行が日常化して惰性のようになっていたのを、事故を機に一休みしたかったのも一つの理由だ。そして、この文を書いている現在、事故から一年たったわけだが、山はぼくにとって精神的に、また肉体的に欠くことのできない大きな部分を占めていたことを感じている。理由はなんとでもつけることができるが、結局、ぼくには山が必要なんだ、と納得することにした。

復帰第一戦は4月はじめの鹿島槍東尾根。天候にめぐまれ、人も少なく(ほかに1パーティー)、体調も悪くなかった。5月は会津駒のツアー・スキー。6月は兎の合宿でマチガ沢の東南陵を登った。昨年は悪天候で途中から引き返したが、今年は天気もよく、総勢8名が3パーティーに別れて楽しく登れた。7月はぼくの昔からの山仲間で恒例の尾瀬の岩魚パーティー。仲間が只見川本流で釣った岩魚を、料理についてはいずれも一言ある連中がこずきまわして一品をでっちあげる。もちろんアルコールもおさおさ怠りない。各自ザックにワインが2〜3本というアル中の引越さながら。それでも今年は酒が足りずに、小屋の調理場にもぐりこんで日本酒をかっさらってくるという騒ぎだった。

7月に尾瀬だけというのは山に行っていないに等しい。これは8月の剣が控えていたからで、その剣に10日を投入するため満を持したのだ。剣については、別に詳しく報告する。9月は嘘のようにテントの減った涸沢をベースに、滝谷、奥又白、屏風とまんべんなく登攀を楽しむことができた。9月の末には、黄蓮谷遡行から鋸山縱走。10月には巻機山米小沢、北岳バットレス、糸魚川の明星山といったところが、今シーズンのめぼしい山だった。バットレスは自分で企画した初めての岩登り。善さんと齋藤君がつきあってくれた。どれをとっても以前から行ってみたかった山、何度行っても楽しい山ばかりで、本当に充実した山行ができたことをわれながら嬉しく振り返る。残念なことは、双六谷の遡行(1974年8月)以来、次の目標と決めていた南ア赤石沢または北ア笠谷を実現できなかったことだ。来年はこの二つのどれかは歩いてみたいと考えている。

追記:赤石沢1978(S53)年8月、笠谷1981(S56)年9月

今年の山行で、もっとも大きな位置を占めた剣について、この会報で報告したいと思う。また、機会があれば、黄蓮谷から鋸山への縱走(1976年9月)も書いてみたい。というのも、これほど自分の好みにあったルートは近頃珍しいほどだったから。

剣へ

はじめて剣を訪れるにあたって取ったアプローチは、次のようなものだった。日本海側の宇奈月から渓谷鉄道で欅平に入る。そこから黒部川の下ノ廊下を辿って阿曽原まで遡り一泊。そこで黒部と別れて支流の仙人谷を登って仙人峠から池ノ平へ。仙人峠あるいは池ノ平からの裏剣の壮観はかねて聞き及ぶところだ。状況により池ノ平で一泊。最後に剣沢二俣に下って剣沢を登り別山平へ至る。

別山平を目指すなら、室堂から入ればその日のうちに着いてしまう。しかし、日頃、K会長の話に聞き、雑誌の特集などを読んでは思いを馳せていた剣。また、何度か計画を立てながらも果たさなかった剣。その序奏としては、このアプローチがもっとも相応しく思えたのだ。

8月7日 欅平から阿曽原

正午に欅平着。昨夜は、前線の通過で北陸地方は集中豪雨に見舞われ、北陸本線は一時不通になった。その前線も太平洋上に去って天気は回復しつつある。しかし、黒部の深い谷底から見上げる狭い空には、昨夜の豪雨の荒々しい面影を残した雨積雲がまだ漂っている。

欅平駅からはき出される観光客のざわめきを背に登山道をしばらく進む。やがて駅のアナウンスも遠のいて静けさに包まれる。寝不足と暑気と重荷が重なって、いつも馴染みの、歩き出しの何とも言えないちぐはぐな感覚に苦しみながら取っ付きの急登をあえぐ。都会を抜け出して山でかく最初の汗がひとしきり出おわると、やがて爽快な山のリズムが体に戻ってくる。先ほどの雲は跡形もなく消え失せ、明るい日差しが谷にみなぎるころ、登山道は上昇を終え、渓谷の断崖を抉って作られた水平道(旧日電歩道)に移る。

水平道とはいえ、すれ違いにザックが触れるほどの幅で、うっかりスリップして路肩を踏み外せば真っ逆さまに200mほどの空中旅行が楽しめる(八ッの桟道のようにはいかない!)。対岸には新版の『日本の岩場』で唯一の6級ルートを持つ奥鐘山が望まれる。概して単調な道をうんざりするほど歩いたころ、やっと坊主山から派生する尾根を越える。この尾根をしばらく下ると阿曽原小屋が見えてくる。はじめ、こんなところに工事現場がと思ったほど簡素なプレハブ建築である。

小屋は少し高台にあり、その直下に幕場があった。ザックを置いて幕営料を払いに小屋まで登った。料金100円を払おうとして、ビン・ビールが眼に入った。こんな山奥でビン・ビールにありつけるとは。さっそく買ってテントへ戻り、ピッケルのブレードでこじ開けて独り乾杯。この旨さは山の中でなければ味わえない。ツェルトの我が家を立てながらふと思えば、ずいぶん長く山と付き合っているが、一人で山中に夜を過ごすのはこれがはじめて。小さなツェルトでも一人なら何とゆったり広々としているのだろう。

我が家が竣工すると、手ぬぐいを掴んで、ちょっと下った所にある露天風呂へ。小さなプールのような浴槽は苔に覆われ、手で掻くとごそっと剥がれる。清潔とは言い難いが野趣横溢。

湯上がりで火照ったままにシュラフに潜り込むと、今日一日の行程を振り返るまもなく、剣第一夜の夢の世界へ入り込んでいった。

8月8日 阿曽原から池ノ平

翌日は快晴だった。水平道を飛ばしすぎたか、風呂につかりすぎたか、体調悪くバテ気味で仙人峠への山路を登った。仙人池からの裏剣はたしかに一見に値する。振り返れば鹿島槍の双耳峰が遥かに望まれる。ヒカリゴケが見られるという洞窟を覗いてみたが、昼間のせいか、はっきりしなかった。今日は早々に行程を切り上げようと池ノ平の幕場へ向かう。

仙人池から鹿島槍
池ノ平から八ッ峰

池ノ平小屋に着いたのは1時ころで、まだ日差しも強かった。小屋のすぐ下に広がる盆地の中央に池があって、まさに池ノ平。その周囲が幕場だ。暑さにうだっているようなテントが3張ほどあるのみだった。すぐツェルトを張るのも面倒な気がしてしばらく小屋で休むことにした。途中同行した長崎大学の探検部の学生と小屋番の娘さんの3人でしばらくとりとめのない話をして時間をつぶす。小屋の土間の日陰にいれば、嘘のように涼しい風が吹き抜けてゆく。

池ノ平の幕場

8月9日 池ノ平から別山平

早朝から雨。どうせ一人旅だし、今日の行程は短いから朝寝坊を楽しむ。昨日沖縄付近を北上していた台風が前線を押し戻したのか、相当な雨量で風も強い。ツェルトを畳んでしまえば、あとはいくら雨具を着けても濡れ鼠になるのはわかっている。まだツェルト内はさっぱり乾いていて居心地がよい。なかなか出発の決心がつかない。コーヒーを淹れて時間を引き延ばす。

8時10分。小やみになった合間を縫って、ツェルトを飛び出す。近くのテントはもう畳まれている。雨量が多いので北俣を下る計画は中止し、仙人峠へ戻って尾根道を下ることにした。ちょうどそんな時刻なのか登りのパーティーにいくつも出会う。昨夜は、真砂沢辺りに泊まったのだろう。張り切って大声で挨拶をする人もいれば、疲れ切って顔を上げる元気のない人もいて様々である。傾斜のきついすっきりした尾根で、視界がよければ快適だろう。路傍にコメツツジの白い小さな花が雨に打たれていた。

剣沢は、二俣で三ノ窓から流れてくる北俣と南俣(本流)に別れる。尾根から下る登山道は、小さな吊橋で北俣を渡って本流に入る。あとは別山平までひたすら登りだ。ルートはすべて左岸通しで、沢身が蛇行して岸を削っている所は大きく高巻いている。雨のため水量は多く、所々ルートが水没している。青白く濁って岸を噛む本流の数メートル上をへずる。針金を支えに外傾したつるつるの岩をにじる。ときには、その針金も離さなければならない。雪渓の融水をまじえて冷たい急流の中でもがく自分の姿がちらっと脳裏をかすめる。

高巻やへずりがなくなってしばらく単調な河原歩きになる。やがて流は谷幅一杯に広がって、その先は蟠る川霧のなかへ消えている。対岸には内蔵助平からハシゴ谷を降ってきたと思われる登山者が4人ほど見えた。ルート図には橋は見あたらず、この水量では渡渉は考えられない。上手は岩壁にふさがれ、下手も渡れる個所はなかった。結局、もとのルートを戻ってもう少し上手へ回り込むしかなかろう。

右岸に、小沢通しに登る内蔵助平への道を見るころになると、沢筋全体を雪渓が覆うようになる。雪渓上の踏み跡がすぐにまた左岸に戻って、しばらく河原の灌木の中を登ると、急に人声がして真砂沢ロッジの前にぱっと出た。

74年の夏に双六谷を遡行して黒部五郎へ抜け、そのまま立山へ縦走したときのことだった。混雑する太郎兵衛平の小屋を避け、一足延ばして薬師小屋へ泊まった。終日快晴だったその日は、夕方になって富山側に美しい雲海を出現させた。黄金色に暮れなずむ夕空を、薬師岳の巨大な稜線が裁ち切っていた。小屋の主人は、サントリーのアンクル・トリスみたいに四角い禿頭を振りながら、しきりに望遠鏡を覗いては五色側から来る縱走者の出現を待ちかまえていた。この時間ともなれば、まず間違いなくこの小屋へ泊まるからである。下の太郎兵衛平の小屋が、肩がつかえて寝られぬほど混んでも、この小屋が満員になることはあまりないという。

夕食後、二階の寝所へ行って驚いた。何とここでは一人に一組の寝具があり、それもカビ臭い煎餅布団や毛布ではなく、普通の家庭のような厚手のふっくらした蒲団に糊の効いた白いカバーが付いている。蒲団に潜り込むと、ぬくぬくした日だまりの匂いがしたものである。話は大分それたが、実はこの小屋の主人が、真砂沢ロッジのオーナーでもあった。雨で下着までずぶ濡れになったいまのぼくには、あのときの乾いた蒲団の匂いがなつかしかった。

真砂沢ロッジは夏のあいだだけ組み立てられる小さく粗末な小屋だった。狭い入口の横手に売店兼外来食堂となっているカウンターがあり、昼食に頼んだラーメンを待ちながら濡れた下着を絞った。やはり単独で、昨日内蔵助平に泊まり、今日は別山平までという人が隣に座り、しばらく話した。しかし、単独行によくある妙に癖の強い性格の持ち主で、常識とはかくも多様なものであるのかと、あらためて知らされた。いろいろおかしな話が出たが、こんなのがあった。「昨日は偶然知人と幕場で遭って大宴会をやり、缶ビールを3本!も空けたので今日は二日酔いで体調が悪い。自分は酒飲みのほうだが、山では酒は慎んだほうがいいと思う」と言うのだ。ぼくもなるほど、と思い、兎のメンバーの顔を思い浮かべつつ、ここに書き留めておくことにした。

真砂沢の幕場はすでに地面が出ていたが、ルートは雪渓へ降りる。すぐに右岸から真砂沢を合わせ、次に別山沢、そして明日以降の岩場へのアプローチに使う長治郎谷、平蔵谷、武蔵谷の出合いを次々と過ぎてゆく。谷は狭まり、切り立った岩壁が左右から迫り、雪渓は徐々に斜度を増す。出会いから見上げると、それぞれの谷の奥にはさらに急な雪渓が霧の奥へと消えている。本谷の雪渓も行く手を阻むかのように白い壁となって立ちはだかる。吹き下ろす沢風は冷気を含んで重く、思い切り雨を叩きつけてくる。ときには息もままならず、立ち止まらざるをえない。いよいよ剣の奥深く入り込んだ感が強い。この強壮にして剛毅な雰囲気は穂高でも味わったことがない。

数年前、鹿島槍へ向かう稜線ではじめて剣の姿に接した。それは、山という言葉をそのまま地上の形として具現したかのように完璧な実在感をもって、そこにあった。その山襞に食い込んだ長大な雪渓は、いまでも鮮やかに思い出される。その雪渓をいま一歩一歩上り詰めているのだ。

別山平にて

別山平には合宿を終えたKAV(慶応アルペン・フェライン)の小川君と吉田君が居残ってぼくを迎えてくれた。明日からのザイル・パートナーである。今回の合宿は荒天にたたられ、一週間も滞在してまともに登れたのは一日だけだったという。予定では明日までの計画だったが、今日も登れそうになかったので、他の部員たちは明け方すでに下山していた。彼らの先輩から差入れを預かってきたのだが間に合わなかった。

8月10日 停滞

翌日10日も荒天。風上はるかのテントがはためきだすと、まもなく突風と強雨が津波のように押し寄せてくる。終日、テントをこづき回すような風と、耳に突き刺さるような雨音を聞いてすごす。風でフライを破かれたテントも散見する。夕方、天気は回復の兆しをみせ、天気図でも明日はなんとか行動できそうな様子である。

8月11日 源治郎尾根一峰平蔵谷側壁上部フェース名古屋大ルート

まだ雨雲が八ッ峰のマイナー・ピークの頭を覆っているが、その垂れ込めた幕のかなた、剣沢の果てるあたりには、明るい空がかいま見られる。今日は剣の岩に初見参である。KAVの仲間によると、今日のルートは剣東面でも屈指のルートだそうだ。晴天なら別山平の幕場から正面に望むことのできるフェースだが、八ッ峰六峰のように多くのパーティーが群がることはないと聞く。

早朝の剣沢雪渓はクラストし、スプーン・カットを縁取る稜角は氷化して滑りやすい。一昨日の登りを一汗かくほど降ると平蔵谷の出合いである。源治郎尾根への一般路取り付きは2つあり、平蔵谷出合い直下の支稜からのものと、やや下ったところにあるルンゼを詰めるものがある。いずれを取っても、1時間ほどで合流するが、雪の消えたあとのルンゼはザイルが必要になるらしい。われわれは尾根通しに登る。

下部の灌木帯を這い上がるようにしてしばらく登るとやがて支稜線に出る。もはや剣沢は遥か眼下に望まれ、雪渓を行き交うひとの小ささが印象的である。ルートはおもに先のルンゼ側を巻ながら支稜がらみに高度を稼ぐ。このころになると、好天は疑問の余地もなく青空が頭上に広がる。日だまりの草付きには、やや花期を過ぎた小規模なお花畑が点在し、ツガザクラやウサギギクが咲き残っている。ルートがリッジ状の白っぽい岩にかかる辺りでは、真っ青な青空の下にぽんと投げ出されたような、爽快な高度感が味わえる。

一般路が平蔵谷側フェースにぶつかって、右手にそれる所から踏み跡が別れる。これが我々のルートである。フェース基部の灌木帯から草付きへ抜けて、しばらくトラバースすると中央バンド(ルンゼ)に出る。これを左上し、右手に注意しながら登ると、やがてそれらしき凹角が見え、その下部に4、5人が立てるテラスがある。雨上がりのせいか数カ所から水が流れ落ちている。その水で喉を潤す。行動食をほおばり、飴玉一握りをポケットへ突っ込む。振り返れば、真正面に別山平の幕場が見え、その下方に剣沢山荘がぽつんとある。剣本峰に延びる別山尾根の稜線がくっきりと青空を横切って、その山腹の明るい岩肌に灌木の緑と雪田の白が配されて清々しい。前剣のピークには縱走者が数人見える。

緊張と期待に満ちて登攀具を装着する。思えば、昨年、滝沢のB沢を下り、クラック尾根の岩肌を眼前にしたとき、自分でも思いがけなく込み上げてきたのは、岩に対する闘志だった。あの高揚した気分がまた蘇ってきたかのようだ。はじめてのルートを前にして、その取り付きに立ったとき、真夏の積乱雲のように湧き上がる心理の葛藤。自信、期待、緊張、そしてそれらを貫く不安。こうした心理的な交響詩が岩登りの最大の魅力なのかもしれない。

大きな期待にもかかわらず、最初のピッチではやくも大失策をやってしまった。一抱えもある岩をホールドにしようとして手を掛けたとたん、ぐらりと傾いて足下に吸い込まれていった。数十メートルを落下した岩は、大音響をたてて真下の岩壁に衝突し、真っ白な傷を残して中央ルンゼに消えた。後続パーティーがあったらと思うと、出発前の高揚した気分は幻滅に変わった。そうだ、落石の恐ろしさなど忘れていた。今年、岩は6月のマチガ東南陵だけだった。それから時間が空きすぎているし、グレードも飛躍しすぎている。平地でのトレーニングは積んでいたが、岩の感覚はほとんど失われていた。後悔が胸を刺す。ゲレンデと称されるものはあまり好きではない。自然を訪ねるなかに自ずと存在する岩のルートこそが本来の岩登りの姿だと思っている。しかし、そのような状況をこなすためには、東京近郊のあの登山気分とはかけ離れた岩場に通い詰めて、練習を積まねばならないのかもしれない。

ルートの核心部は第4ピッチだ。日陰だが十分なゆとりのあるテラスからハング下のフェースを左にトラバースしてリッジに出る。ずいぶん立ったリッジで途中がかぶっている。ホールド、スタンスはほとんどザラッとした岩の凹凸を利用したフリクションだ。するするとフェースのトラバースを終わったトップの小川君もさすがにハングのところで苦労している。そこは多分A1の個所だと思うが、フリーで乗越すつもりらしい。数回の試行のあとトップの姿はハングの上へ消えた。ついにアブミは出さなかった。

源治郎尾根一峰名古屋大ルートトップを引く小川君

ぼくはテラスから先行2人の様子を写真に納めてラストに登る。ザイルが上へ延びているというのは気楽なものであるが、このピッチはそうも言っていられなかった。下のテラスからは見えないが、ハングの上はさらに斜面が立っていて、リッジ通しに直登できない。両脚の間から見下ろす谷底は、あまりに高距があって実感が湧かない。まるで望遠鏡を逆さに覗いているような光景だ。前穂の四峰正面の北条・新村ルートにも、核心部のハングを乗越してから右へトラバースして取り付くリッジの所の高度感がすごいが、ここはその比ではない。

小川君吉田君 日が当たり出した

リッジの左側は切れ落ちていて、そのわずか下にスタンスに十分なバンドが走っているが、いかんせん足が届かない。右手のフェース中央のリスに残置ハーケンがあり、それを支点に右のフェースから回り込めばこのリッジを巻ける。しかし、どうせトップでないなら、ここを直登してやろうと頑張ったが、ついに握力が萎えてしまった。やむなく右へ振って一息つく。斜度があってスタンスは岩の凹みのフリクションだから、足の大半は空中にあって呼吸を整えるにも油断はできない。こんな個所ではさぞかし地下足袋がイギリス風のフリクション・シューズが快適だろう。

息も絶え絶えでこのピッチを終えると、小川君は外傾した一人がやっと立てるレッジで確保していた。こちらが時間を取ったので吉田君はつるべで先行したらしい。ぼくはあまりにも腕力が消耗していたので小川君に先行してもらった。次の最後のピッチは、前のものに比べればさほど難しくなく、なんとかルートを終えた。今にして思えば、完登後の握手も忘れていたのだから、よほど気力を使い果たしたのだろう。

一峰の頭からは一般路を登るか降るかしかない。他の2人はこの尾根を何度となく経験しているが、ぼくは剣本峰の山頂さえ踏んでいないということで、ご苦労ながらそのまま一般路を登ってもらった。

 
源治郎尾根 山頂右の雪田が「剣の帽子」 
右から小川君、吉田君
源治郎から長治郎と八ッ峰

はじめての剣で、源治郎の平蔵谷側フェースから源治郎尾根を詰めて本峰の頂上を踏む!なんと素晴らしい剣へのアプローチではないか。いかんせん、これはぼくの実力ではない。若い仲間のおかげだ。本峰でゆっくり休息をとって平蔵谷の雪渓を下降し、剣沢を登り返してベースに戻る。350円の高価な缶ビールの何と美味なことか。別山平の野営管理所に備えてある、監視用の望遠鏡をしばし拝借して今日のルートを見てみた。一番難しかった辺りを丹念に追って行く。やがて仲間もやってきて一緒に覗き込み、ここはどうだった、あそこはこうだったと回想は尽きなかった。

そのうちに源治郎の一・二峰のコルの向こうに、明日予定のルートである八ッ峰Dフェースも見えることが分かった。八ッ峰はほとんど見えないが、この部分だけ一・二のコルのV字の切れ込みから見通せる。Dフェースにはまだ2パーティーが取り付いていて、一つはちょうど核心部にへばりついている。そのあたりをよく知っている仲間は、どうもあのパーティーは左に寄りすぎているとつぶやいている。翌日、同じ個所で自分がとんだことになろうとは、予想だにせずにのんびり望遠鏡を覗いていた。

8月12日 八ッ峰六峰Dフェース富山大ルート

昨日に続いて快晴。今日はベースを三の窓に移す。剣沢を下って長治郎谷を登り、池ノ谷乗越で主陵線を越えて三の窓へ降る。その途次、長治郎を詰める途中で、六峰下部に荷物をデポしてDフェースをやろうという欲張った計画だった。好天に恵まれて気温は高く、ベースを移すのだから荷物は肩に食い込むほど重い。ぼくのザックは他の2人に比べるとずいぶん軽いが、それでも六峰の基部までは相当しごかれた。

昨日とは違って後から後から登攀者がやってきてせわしない。簡単に腹ごしらえをして、登攀用具だけでサブザックも持たずに取り付きへ向かった。切れ切れの雪渓を上り下りして取り付きに着くと、3パーティーの待ちができていた。ここはCフェースとDフェースの岩峰に挟まれて、重なり合った鋸の歯の根元にいるようで陰気くさい。落石があると前後の壁に跳ね返って、加速度的に取り付き点へ集中してくる気がする。しかも、上部には何パーティーとも知れぬほど登っているのだから、あまりいい気分ではない。

昨日のこともあって、あまり意欲は起きなかったが、先行の2人につられるようにぼくも登りだした。最初のピッチは傾斜はさほどでもないがツルツルのスラブで長治郎谷側にやや外傾している。しかし、思ったより調子がよく、右端のクラックに足をネジ入れて支点とし、簡単に登れた。最後のかぶった所はハーケンを支点に腕力で這い上がった。

八ッ峰Dフェース雪渓は長治郎

これで気をよくして次のピッチをトップでゆく。V級25メートルだから何のことはないはずだった。しかし、ついうっかり走りすぎて、その次のピッチへ飛び込んでしまった。カラビナ、シュリンゲも残り少なくなって、ハタとおかしいことに気づいた。V級がこんなにやばいはずはない。ホールド、スタンスは十分あるが、どれもグズグズで安心できるものは一つもない。ルートファインディングも結構難しい。ついに壁の真ん中で立ち往生してしまった。やむなく、かろうじて確保できるピンのある所でピッチを切り、あとの2人に下のテラスまで登ってもらう。そこからダブルのザイルの一方を使って、カラビナとシュリンゲの補給を受けた。

下のテラスには後続のパーティーが溜まってしまい、恥ずかしかった。仲間も肩身が狭かったかと思う。立ち往生した凹状のボロボロのフェースを抜けると、そのまま直上するルートと右にトラバースするルートに別れる。左は昨日望遠鏡で見たパーティーが登っていた所だろう。易しそうな後者を取った。少し登ると久留米大ルートから斜上してくるバンドに出てほっと一息ついた。

この上の2ピッチも相当切り立ったリッジ状の岩稜を登るので、いやでも足下の長治郎の雪渓が目に飛び込んでくる。まことに結構な高度感の味わえるルートだ。

終了点のDフェースの頭は、これからの行程の長いこともあって、立ち止まる程度で通過し、五・六のコルを通ってザックをデポした六峰基部へ戻った。途中、A、B、C各フェースには蟻のように登攀者が群がって、それぞれの取り付きにはまだ数パーティーが待ち行列を作っていた。

三の窓

3人とも相当バテていて目の前の熊の岩で幕営しようかなどと話も出たが、気を持ち直して出発する。途中で先ほど我々のすぐ上を登攀していた2人組が降ってくるのに出会った。五・六のコルで降りずに三・四まで登ったのだろうか。驚いたことにアイゼンを着けている。下りの人たちを見ると結構アイゼン着用者が多い。

急傾斜の雪渓と時々現れるシュルンドに気を取られているうちに、思ったより楽に池ノ谷乗越に着いた。ここで北方陵線を越えて池ノ谷側のガラガラの急なルンゼを降ると、三ノ窓の幕場に着く。狭いコルなのでわずかのテントですぐに埋まってしまう。やむなく三ノ窓雪渓側にスペースを求める。雪上は冷えるが、陰鬱な池ノ谷側に比べると広々として開放的で、チンネの岩場が間近に見られる。ベースの設営が終わったのは5時に近かったが、周囲の岩場はまだ登攀中のパーティーがいくつか見え、ベースとコールを交わしたりしていた。

8月13日 剣尾根縱走

今日は休養日にしたかったが、天気図を取ると天気は下り坂。今日を休んで明日降られると明後日は下山だ。そうなると三ノ窓まで来てどこも登らないことになってしまう。やはり今日は出かけることにしよう。

ルートは剣尾根で、剣西面の概念を掴むには格好のコースである。上半と下半に別れている。縱走とはいっても下半の途中に岩場があり、下半だけでW級のルートになっている。核心はドームの登攀だ。剣尾根に取り付くには池ノ谷を1時間ほど降って、尾根に食い込む第10ルンゼ(R10)を登る。

池の谷雪渓の下りは非常に急である。早朝で気温が低いせいもあって、キック・ステップがあまり効かない。前穂北尾根の三・四のコルの三・四のコル奥又へ降る雪渓ほどではないが、兎に角急である。下からも登ってくる人たちがいて、落石すると彼らを直撃する。

R10は分かりにくく、一見登れそうにないが、近づくと何ということはない。しかし、一度は迷って降りすぎて、たまたま登ってきたパーティーに訪ねたところ、やはり元の所でよいとのこと。また登り直した。彼らもR10から剣尾根を縦走する予定で、一人は何度が登ったことがあるようだった。

R10を登り切ったコルEは、灌木の中だったが、尾根を少し辿ると素晴らしい展望が開ける。東大谷から早月尾根までの岩峰が一望のもとだ。しかし、頭上には雲が低く立ちこめてきて、早月尾根上部はすでに雲の中にある。視界がよければこれから先の行程がどんなに楽しいものになるだろうか。

尾根というより剣の北方稜線へ向かって駆け上がる岩稜と言ったほうがぴったりする。はじめはハイマツの幹を使ってよじ登ってゆく、ジャングルジムのような登高である。少し傾斜が緩んで停留点のようになったところがコルDで、ここで最初のV級の岩場が現れる。短いピッチだし、その先またすぐにターザンごっこになるのでザイルは出さずに、そのまま登ることにした。短いとはいえ痩せ尾根に突出した岩場だから、尾根自体の高さも加わって高度感は十分ある。

二峰を越えるとルートは急に下降しコルCに着く。暗くて狭いギャップの底で、前面にはのしかかるような威圧感のある岩壁がそそり立つ。ここではじめてザイルを出す。尾根を横切る風が狭いコルに収束し、谷底から霧を巻き上げる。ひときわ強い風が息づくと、それを合図に雨が降り出した。トップはもう登りはじめたが10mほどで大分苦労をしている。ついにアブミを出した。垂壁でややかぶり気味だし、雨ですでに濡れている。このフェースには取り付きのすぐ上から池ノ谷側にバンドが走っているが、これもすぐに行き止まりで、反対の東大谷側へ回り込む。その辺りで人工になるが、ちょうどそれと同じ高さに二峰からの下りの道があって、後続のパーティーからは格好の見物場になる。ぼくがそのあたりで苦労しているところへ、先ほどの2人組が降りてきた。彼らの話が手に取るように聞こえてくる。

アブミ数回の掛け替えでリッジの途中の小さなレッジに立つ。ここでルートは東大谷側のフェースに出て、あとはフリーで登れる。終了点からまた尾根道が続いている。

剣尾根

こう書いていると、すべて分かって登っているようだが、実はまるきり闇雲に登っていた。このピッチを登り切ってから普通の個所としてはあまりに難しすぎるのではないかということで、ルート図を見直した結果、下半の核心部の最難関がいまの所だったと判明した。また、天候の悪化で視界が効かず、途中で休まずにとばしたので予定外に早く核心部に到達していたのだ。

ここからしばらく行った岩塔のルートも難なくこなして核心部を終える。ただ、岩塔の最後のピッチは非常に脆いルンゼで落石が多い。この終了点のすぐ上に、この尾根で唯一ゆっくり休める小広場がある。そこがドーム頂上だ。しかし、雨が激しくなってきたので休まずに通過した。

ドームを降った所がコルBで、ここからR2をアップザイレンで降れば下半は終了する。降りるべきか上半へ繋ぐか意見が分かれたが、時間が十分あるので続行することになった。

上半に入ると岩は赤茶けて非常に脆くなる。小さなフェース状をトラバース気味に上部へ抜けようとして、フェース中央に突出ていた岩をスタンスに踏み切ったとたんに、その岩がフェースから剥がれた。岩は大きな音をたてて雨の降り込める谷間に吸い込まれていった。すでにザイルは着けていなかったから、次のホールドがしっかり掴めていなかったら、危ないところだった。昔は人が手を触れただけで、一抱えもある岩が崩れ去ったという話が残る尾根である。

内面登攀や馬乗りになりたいような鋭い痩せ尾根など、変化を楽しみながら上半を終了した。R10取り付きが6時20分。終了して北方稜線に着いたのが12時20分。通常のコースタイムは8〜10時間、ときにはビバークを要するコースを6時間で登ったことになる。3人パーティーであることを考えると非常なハイペースだった。雨のせいもあって、安全ベルトの着脱とピッチの切れ目以外、ほとんど休むことなく行動し続けたためだ。

下山

8月14日 三ノ窓、北方稜線、室堂

天候は荒れている。昨夜は辛かった。一日中雨に打たれて、雪上のテントに戻ったが、燃料を節約して細々とともすホエーブスの火だけでは、ずぶ濡れになった着衣は乾くものではない。雪渓の冷気が薄いマットを通して湿った体に浸み込み、しばしば目覚める。雨に鳴り風にはためくテントの音を一晩中聞いていた。

今日はチンネに登るつもりだったが、昨日の予測通り、とても登攀できる天気ではない。チンネは今回の剣の大きな目標だっただけに、残念だ。あと一日ねばるという2人を残して室堂へ下山することに決めた。明日が好天でも、登る時間的余裕はぼくにはない。ポールが雪にめり込んで変形したテントを立て直すための風雨の中に飛び出した2人の見送りを受けてベースを後にした。短いとはいえまた一人旅だ。何日かの集団生活から解放されることが楽しくもあった。

追記:翌1977年の4〜5月の連休(小窓尾根から)と7〜8月(室堂から)に2回剣に入り、チンネを含む剣の主要ルートはほとんど登った。チンネの左稜線は2回とも登っている。連休のときはアイゼンを着用していたのでやりにくかったが夏には屈指の楽しいルートだ。

池ノ谷を吹き上げる風は二手に分かれる。一方は、三ノ窓を越え、もう一方は、さらに登って池ノ谷乗越へ向かう。池ノ谷乗越への道を吹き上がる風は、両側を切り立った岩壁で限られ狂奔し、高度を上げるにつれて吹きつのる。

女性を交えた先行パーティーがしばしば停止して耐風姿勢をとる。重いザックを背負った上体が、猛烈な風圧であらゆる方向からこづき回されて揺らぐ。雨は額を叩き、肩を打つ。

日程には予備があるから、これは引き返すほうがよいかもしれない。稜線に出てからの風雨が思いやられる。しかし、一方で、あえて荒天の中を行動してみたい気持ちも起きる。パーティーを組んでいれば、各自の行動力と安全性を考えて最善の決定を下すべきだが、今は自分一人。自分で判断し、その結果は、自分が引き受ける。前進することに決めた。

これから数時間は、強風の中をずぶ濡れになって進む強行軍になる。一番怖いのは気温の低下だが、この時期ならさほどのことはないだろう。剣の北方稜線は、昨日の剣尾根の帰りに一部通過したのみであり、本峰から先は源治郎尾根の下りに使った、平蔵のコルまでしか知らない。岩登りもよいが、こんな状況を一人でコツコツ解決してゆくのも山の楽しみだ。北方稜線の縦走路はほとんど剣沢側を巻いていると聞いてきた。今日の風は日本海側から吹いているから縦走路に出れば風が弱まるかもしれない。

手間取る先行パーティーを抜いて先に出る。縦走路へ出る手前から風が急に弱まり、池ノ谷乗越では嘘のように静かになった。静かというのはあたらないかも知れない。現に、頭上高くでは、狭い谷間に押し込められていた風が、広々とした長治郎谷の空間に解放される音が響き渡っている。だが、今までの息つく暇もないほどの突風の襲撃に比べればものの数ではない。

乗越でちょっと立ち止まって長治郎谷を見下ろすが視界はない。こちら側はほとんど風がないように見える。来たときと逆に、ここから剣沢を経由してもいいのだ。しかし、縱走を開始しよう。

狭いコルから急な岩稜を少し登ると、また風が元の勢いを取り戻し、岩にしがみつく体を引きはがし、谷底へ吹き飛ばさんかの激しさだ。不安に襲われる。このままの状態が続けば、稜線の歩行は非常に危険だ。しかし、ルートが長治郎谷側を巻くようになると風はぴたりと止む。もちろん、反対の池ノ谷側は風が荒れ狂っている。

この高度で荒天にさらされることは、乱層雲の中を突き進んでいるのと同じだから、視界は狭く局所的な展望しか得られない。ルートが分岐するたびに先をうかがい、同程度の踏み跡が別れれば、途切れるまで実際に歩いて確認する。稜線を池ノ谷側へ越える踏み跡はすべて細くかすれて消えている。多分、判断に迷いやすい場所なのか、あるいは登攀終了点から来るものだろう。

稜線を越えては戻り、トラバースに行きどまっては戻りしながら、まるで迷路の中のハツカネズミのような心境で進む。後のパーティーは、長治郎へ降りたのか付いてくる様子がない。すでに雨は雨具を通して全身に浸み通り、体はずぶ濡れだ。こうなるとカッパを着ていても雨が直接体に当たらないというだけだ。それでも、体温の消散は防いでくれる。雨具の上衣は風が強まると膨らんでバランスを崩すのでズボンの中に突っ込んで歩いた。

ある踏み跡を辿って東大谷側に回り込んだ。すさまじい風の唸りをおして、稜線を越えるのはちょっとした勇気が要る。さっきから同じことの繰り返しで、その先にルートが続いていたことはない。しかし、今回は違った。例によって、踏み跡が途切れたので戻ろうと振り返ると、目の前の岩に一抱えもありそうなクモマグサの群落があった。ユキノシタ科の高山植物で岩壁の日陰側に多い。昨年の岳沢の合宿でジャンダルムのT1フランケを登ったとき、壁の途中、何カ所かに咲いていた。しかし、この一群は今までに見たこともないように大きく、しかも、今が最盛期。写真を撮りたいと思ったが、この風雨ではいかんともしがたかった。

緑色に敷き詰められた葉群の中から、赤みを帯びた花茎が多数伸びだし、その先に独特の構造美をもったクリーム色の花を着ける。多数の花が風に激しく震えている。岩につかまりながら、しばらくこの見事な花たちに見とれていたが、息の付けぬ烈風と寒気に負けて、これらのけなげな生を愛でつつその場を去った。

視界がないのではっきりしないが長治郎の頭を巻く辺りからルートが雪渓に降りる。すでに雪渓上部は寸断され大きなベルクシュルンドが口を開けている。右が岩、左が雪のチムニーを、ピッケルを頼りに登り下りを繰り返す。そうこうするうち、雪渓上の踏み跡は左手の大きな岩壁に阻まれて右手のコルへ上がっている。今までの所と違って、空き缶やビニール袋が散乱している。多分、本峰直下のコルに来ているのだと思う。それにしてもゴミの量がルートの目安になるとは情けない。これからさきは観光道路に等しいと思うと気分が軽くなった。

追記:1982年6月 源治郎尾根のルンゼから剣の帽子(雪田)へ抜け、この本峰直下のコルからスキーで剣沢へ滑降

一昨昨日の快晴の空の下、はじめて踏んだ剣山頂を確認して別山尾根を降る。山頂のすぐ下で合流してくる早月尾根から、この荒天をおして登ってくる2人の登山者があった。黄色と緑の原色の雨具が、なにもかもぼんやりした視界の中で異様に鮮やかに見えた。

カニの横ばいから東大谷側に下る鎖場は、ルンゼ状になっているため風の吹き上げがすごい。鎖を掴んで下ろうとしているのに、まるで急流を上手に遡行するような抵抗感がある。風の勢いにたじたじとなったのか、壁の途中で、単独行の登山者が立ち往生していた。

思ったより長かった別山尾根も終わりに近くなり、縦走路が剣御前の山腹を巻くころになると、下から剣山荘の発電機の音が聞こえだした。このトラバースは室堂乗越に向かってやや登りになる。そろそろ疲れの出てきている体に結構応えた。

乗越も近づいたころ、視界が開けた。左下方の別山平に色とりどりのテントが見える。つい数日前まで、我々のテントもそこにあったと思えば親しみも湧く。土曜日のせいか乗越から別山平への下り道は、この天気だというのに相当の人通りがある。

乗越手前の最後の雪渓を越える。これで雪とはお別れだ。剣の峰々と別れを惜しみたいが、見晴らしがなくてはどうにもならない。それに、そろそろ時間が気になる。室堂からの最終バスに間に合うかどうか。

雷鳥尾根の降りは、またもや激しい風雨との戦いになった。この紀行文中に、いったい幾つ‘雨’と‘風’が出てきたろうか。広い尾根を吹き上がる風は、本峰の稜線よりさらに激しいくらいだ。気温も下りはじめている。登ってくる人々の表情も、山の厳しさに怯えているかにみえる。列車とバスに運ばれて、真夏の下界からほんの数時間登っただけで、こんな激烈な環境に放り出されるのだから無理もない。

稲妻形に走る幅の広い山道を30分も降ると、さすがに風の勢いも収まってきた。しばらく降ったところで、老人や子どもをまじえた一団が道の曲がり端で立ち止まって話し合っている。ただならぬ雰囲気があったので、通りすがりに声を掛けた。この下の沢が増水して橋が流され徒渉できなくなっているという。途中の小沢の流量からしてもその可能性は十分あった。そいえば、先日、雷鳥沢と雷鳥平を隔てている浄土川で、増水で流された橋のところを徒渉しようとして、山岳会の女性2人が溺死した記事が新聞に出ていた。しかし、ハイキング程度の装備のこの人たちの話に多少の疑問があったので、実際に確かめることにして、先を急いだ。

登山道はやがて尾根から雷鳥沢へ降って、河原を行く。敷石道を挟んで両側の沢筋はいたるところ白く泡だって、囂々たる水音が鼓膜を圧する。さっきのグループが怖がるのも無理はないと思いながら、なおも降り続けると、下から4人ほどのパーティーが登ってきた。浄土川の様子を訊ねてみると、問題ないという。しかし、その見下した返答には不快感を抱かせるものがあった。山行には困難が伴う。その困難を自分に相応しい手段を用いて解決してゆく過程が山行経験の基本的な一面を成している。しかし、自分が克服し得た困難を基準として、他者に視線を向けるとすれば、それは醜悪以外の何物でもない。ま、こんな話は止めにしよう。せっかくの楽しい山が台無しになってしまう。

浄土川の橋は、橋桁に渡してある板が二個所ほど外れ、対岸に接する最後の所で流の中に下りなければならなかった。しかし、水深は浅く、登山靴の中ではもうとっくにカエルが鳴いているから、そのままずかずかと渡渉すればよかった。

「浄土川を向側から渡ってきたのに、娑婆にはあらず地獄谷とは果て合点のゆかぬ」などと洒落ているうちはよかったが、朝から歩きづめの体に観光道路の紆余曲折は辛かった。道は幾つもの池を巡って登り下りを繰り返す。懸命に歩いているつもりだが、少しの登りでぐんとペースダウンする。まるで我が家のワーゲンのようだ。

途中の雷鳥山荘で三ノ窓から運んだゴミを捨てる。今回の幕営で出たゴミのほとんどを背負ってきたから、ずいぶん軽くなった気がした。この辺りまでくると、都会の街頭にいるような服装の人が多い。この天気で、心許なげに先を急いでいる。今回の山旅も終わりに近い。

松本駅に着いたのは6時半を過ぎていたろうか。富山に降りず、山屋に悪名高い立山アルペンルートを使ったのは、松本に寄りたかったからだ。松本の夜を独りのんびり過ごして、23時57分のアルプス8号に乗れば明朝は新宿である。高所の気候に慣れた体には、松本盆地のそれは蒸し暑くてかなわないはずだったが、例年にない冷夏のせいでさほどでもない。少し雨を帯びた生ぬるい空気の立ちこめる町を松本城に向かう。お堀を渡ると、盆踊りの引けたあとに去りかねて居残った風情の若者達があちこちにたむろしている。それにしては、まだ時間が早いが、旅の終わりにある自分にとっては、そう見立てることが相応しく思えた。

城の近くに「静」という民芸風の大きな飲み屋がある。暖簾を分けて店へ入ると、ほぼ満員の盛況だった。ちょうど今し方客がたって、まだ片付けをしている二人用の席が隅の方に空いていた。壁に背をもたれさせると店全体が見渡せる。さまざまなグループが楽しげに、また子細ありげに語り合っているのをぼんやり眺めながら、まず馬刺しに冷や奴、最初はビールがいいなあ、などと考えていた。久々の下界の味覚だ。行動食の残りの塩豆をかじりながら、テントの中で独りウイスキーの水割りも悪くないが、こうしたにぎやかな場所での一杯も楽しい。

 

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周囲が騒がしくなって目覚める。眠気と昨夜の酔いで定まらない視界がしだいに固定してくると、窓越しに見慣れた新宿の風景が見えた。しばらくは、自分がなんでこんな窮屈な格好で寝ているのか、なぜ新宿にいるのか分からなかった。やっと、昨夜の松本のことを思い出した。あれから次にいった裏小路の小さなバーで、気の良い松本弁の青年と「…………そんでせー」「…………それからせー」とやっているうちに、少々呑み過ごし、あわてて松本駅へ駆け込んだのだった。夜中に腹が減ると思って、途中でかったパンをかじっているうちに、塩尻も気づかずに寝込んでしまった。ザックを背に、食べかけのパンを片手に、早朝のホームに降り立つ。行きつけの飲み屋街で朝まで呑んで、一番の山手線に乗るときと同じ新宿の空気がそこには漂っていた。

 

後記

この原稿は、梓の母体となった兎山岳会の会報に掲載すべく書いたものだ。梓の成立は1980年だから、この原稿で記録した年から4年経っている。その間、兎の会報(復刻2号)が何号まで出たか記憶にないが、この原稿が会報に載ることはなかった。当時の自分としては、はじめての山行報告ということで、そうとうな意気込みで書いたものと思う。いまから振り返ってみるとこの年は、それまで敬遠していた岩登りを本格的にはじめて2年目である。KAVの小川君という、若いながらも、ぼくにとっては最高の山の師匠がいたおかげで、またたくまに本格的なクライミングを経験することができた。読んでくれた方はおわかりのように、本人はドジばっかり踏んでいる。タイプしながら改めて読み直したが、あのころの記憶が生き生きと蘇ってくる個所が少なくない。最近の紀行文は、読み返してもさっぱり思い出せなかったりするが。文末の冗長さや表現の微調整など、多少、手は入れたが基本的な内容はいじらなかった。

それにしても、ワープロもパソコンもないころに原稿用紙50枚とはわれながら呆れる。自分でも読めないような悪筆を、浄書してくれた齋藤君の努力にも感謝する。おそらく自分の書いた原稿なら、いままで残っていなかったかもしれない。        2009/01/30

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