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9月恒例 北ア穂高涸沢定着

1980年8月29日(金)〜9月5日(金)

井上、齋藤、田中、橋元

恒例の9月涸沢だが、兎脱会の直後のことでもあり多少の懸念があった。しかし、予定メンバー(ぼく以外はすべて兎)の同意を得たので決行とする。

8月29日(金)

晴れのち雨

上高地に7:30、涸沢14:30

テントとコッフェル担当の田中が約束の時間に新宿に現れず、ぼく一人で23時43分のアルプスで出発。つづいて齋藤も八王子に来ず、あとは井上を大月で待つのみ。井上だけ約束通り乗り込んできた。

久しぶりに松本から松本電鉄に乗り、まだ夜明けの安曇野を島々へ向かう。新島々始発のバスは二台。乗客は少なく空席も散見される。上高地まで1時間20分。釜トンでたっぷり待たされる。

齊藤に渡すつもりの四食分の食料や八日分の行動食、ガス2.5リットル、ブランデー1リットル、ザイル、三道具などでずっしり重いザックを担ぐ。久々の重荷は肩を締め付ける。横尾までは快調だったが、岩舎から登りにかかると井上のペースがぐっと落ちて足元までおぼつかなくなった。涸沢下部の丸山モレーンに達した頃から、雨がぱらついてきた。一昨年のテント浸水事件に懲りて、いままでになく上部にテントを張る。その頃には、相当な雨量で、間欠的に降り続いた。

雨の小やみになった頃合いを見計らって、涸沢ヒュッテへ鍋を借りに行く。はたして貸してくれるかあやぶまれたが、ダメもとで頼んでみた。あからさまな嘲笑をしのんで、中型の鍋と大きなコッフェルの蓋を借りることができた。これで、今晩の焼き肉は予定通り食べられる。今年は雨が十分降り、水質に問題はなかった(1978年、同じ9月の涸沢で、井上、齊藤、橋元などが水当たりで下痢、発熱の騒ぎがあった)。

8月30日(土)

雨。涸沢停滞

齊藤が11:30頃登ってきた。齊藤の話では、田中は寝過ごして気付いたときはアルプスが発車した後だったとのこと(そのころ田中は初台にいたのだったか)。田中からバトンタッチされたコッ フェルとテントがようやく到着した。鍋を返しに涸沢ヒュッテへ行き、ついでにワインを買って三時のお茶ならぬワインパーティとなる。ほどほどのアルコールで舌の回りがよくなった二人から、われら(冨山、後藤、鈴木、大森、橋元)が脱退後の兎の様子を聞く。

8月31日(日)

雨、のち曇り。涸沢停滞。

明日下山の井上は、ついに何処へも登らず降りることになる。それでも、今晩は泊まってゆくことになった。昨夜は、井上が自分のテント、齊藤とぼくがTBS.Bのダンロップに寝たが、井上のほうは浸水がひどく、夜中に起きて水を汲み出すほどだったという。テントの側面から浸み込んだ水が、底面の防水のために溜まってしったらしい。退屈なはずの停滞だが、三人で結構話がはずんだ。

すっぽかした謝罪を込めて松本で刺身を仕入れて登ってくるはずの田中は、予定の20時を過ぎても現れない。齊藤がヒュッテから電話すると、まだ家にいたとのこと。あきれてものも言えない。九州を襲った集中豪雨で、われわれが当然下山するとでも決め込んでいたのだろうか。明日は必ず入山するとの返事があったそうだ。彼がこないと食料が二日分不足するが、来なくていいと言ってしまった方がよほどスッキリする。

9月1日(月)

晴れ

滝谷第一尾根ノーマルルート、第二尾根P2フランケ早大ルート。

朝4時、まだ真っ暗である。空には驚くほどの数の星が瞬いている。天の川もはっきりと見渡せる。待望の晴天である。残念にも、井上は下山。

今日は、手始めに滝谷の手頃なルートにする。齊藤の希望もあって、第一尾根を登ることにした。しかし、北穂南陵の登りでは、齊藤のペースのついて行けず、あまり体調はよくない。久々にキレットからB沢を降りて、クラック尾根の末端をトラバースしてT1に立つ。第一尾根は、大森とはじめて登った滝谷のルートである。あのときのような気分の高揚や恐怖感はまったくない。それでも、最初にルートに取り付くときの緊張で、二人とも無口になっている。

経験のある一尾根とはいえ、憶えているのは大きなチョークストーンを抱きかかえるように乗越したことくらいだ。そのときは、この岩がいつ抜けるかと不安だったことが思い出される。1ピッチ目はザイルを付けずにゆくが、高度感に負けて2ピッチ目の少し手前のテラスでピッチを切る。そのテラスから先は見通しがきかず、急に高度感のあるV程度の岩が現れるのである。2ピッチ目は齊藤がトップで登る。セカンドで登ってみると、Vとはいえ割合難しい。トップで登った速さからすると、齊藤もだいぶ腕を上げたようだ。3ピッチ目のW、A0は、例の チョークストーンのあるピッチである。今回は、その岩にちょっと触れただけでも、その岩が安定したものであることがすぐわかり、不安なく体重をかけてハングを乗越す。今でこそ靴先や指先が鋭敏に岩の浮き具合をかぎわけてくれるし、多少のぐらつきくらいなら力のかけ具合でスタンスやホールドにしてしまうことができるが、あの頃は、まだ石橋を叩くようにしてもまだ不安だったのだ。それに、スタンスに安心して立つことができず、つねに岩と自身の身体の間に、えたいの知れないもやもやした感触がつきまとっていた。尾根上のテラスからのWのピッチは、最初のトラバース気味にピナクルを右上するところがやや苦しいが、あとはなんということもなく、カメラを出してお互いに写真を撮ったりしながら登る。最後のガレを詰めると、まさに北穂の山頂に飛び出す。

北穂の小屋のテラスの見晴らしは素晴らしい。雨後の晴天で、空はあくまでも澄み渡って、遠くの槍の穂が間近に見える。はじめて大森と滝谷を登って、このテラスに立ったときに撮った誇らしげな写真は今も残っている。テラスで昼食をとりながら、午後のルートを考える。ドーム西壁にするか、P2フランケにするか。体調不良でこのまま涸沢に降りた方がという気もする。しかし、ひとの気分とは不可解なもので、いくつも選択肢があるのに“P2早大”を選んでしまった。このルートは大森と登る約束だったが、彼が病気になって、その目的は達成できそうになかった。

これは、大森氏とはじめて滝谷第一尾根・クラック尾根をやった後の写真(1975年8月31日)

ああなんと、二人とも若々しく輝かしいことか!!!

キレットを下りながら、午前中に比べて多少身体の動きが滑らかになっているのを感じる。しかし、B沢の下降では、齊藤に追いつくこともできず、落石もぼくのほうが多いように感じる。非常に苦しさを憶えながら、P2フランケの取り付きに着く。滝谷最難関のP2ジェードル・ルートへの下降点もこの辺りで、KAVの小川と登ったことがあるのだが、アプザイレンの支点らしきものははっきりしなかった。1ピッチ目は非常に苦労し、ついにハーケンを一本打ってアブミを使う。フリーと人工が交互に現れるが、その切換が難しい。体力に自信があれば何とかフリーで行けそうな個所も、途中で力がなえて墜落すると思うと、一歩が踏み出せない。じたばたしながら、あまり感心しないさまで、ようようにこのピッチを切る(20m)。齊藤はあまり苦労する様子もなく、ぼくの打ったハーケンを回収して登ってきた。ツルベでそのまま彼が次のピッチをトップで登ってゆく。大分時間がかかって、ジッヘルしているこちらは身体が冷え切ってしまった。このテラスにはまったく日が射さない。しかし、自分の番になって登りだして、驚いた。出だしの凹角はA1らしいが、ここはA0で十分。ここを過ぎるとルートはすっきりした垂壁をほとんどまっすぐ登ってゆく。斜度はあるが、岩は安定していて、ホールド、スタンスは信頼できる。こんなところを、あの齊藤が40mいっぱいに伸びるまでトップで行ったのかと思うと感激してしまう。第一尾根をやっても、まったく 感動はなく、ただ何となくだるさだけ残ったのに比べ、今度はまったく違う。1pの緊張、2pの豪快、3pの快適と、まさに、岩登りの醍醐味である。

山に対する考え方や、山仲間とのつきあいなど話ながら、のんびり南陵を下る。半信半疑ながら田中の入山を期待しつつ、途中何度かコールをかける。北穂沢を大分下ったあたりで返事があった。どんな顔で迎えにくるかと思うと、腹立たしいやら、おかしいやらである。

9月2日(火)

曇り、のち晴れ。

屏風岩一ルンゼ

涸沢から下った場合の取り付きは、新道の橋のやや手前にある枯れ沢を登るらしい。今回は、田中がぼくのルート図をテントに忘れてきたこともあって、枯れ沢の位置が分からなかった。右岩壁の辺りからルンゼをたどったら上部へ出てしまったため、薮を漕いで下った沢がどうやら、目的の沢だったようだ。じたばたルートを探してもムダだと判断し、横尾の岩小舎前の一ルンゼ押し出しまで下って取り付くことにした。これなら、間違いようがない。

昨日の二本の疲れが残っているので、少しでも日が当たると苦しくなる。こんな体調でこの長大なルンゼを登り切れるか、まったく心許ない。唯一の頼みは、緊張が身体を引き締めてくれることだ。田中をミッテルに、齊藤とぼくがツルベで登る。9o二本でやや変則的だが、斜度はあまりないので十分だろう。下部のW/W+は、ほとんど問題ない。W+のチムニーでは、登山靴の二人は大分苦労したが、アシックスの齊藤は何の苦もなく外面をフリクションで登ってくる。

ルート図の8p目のスラブあたりで昼食にする。ここまではルンゼの中で、まったく日が射さず、大いに助かった。日向と日陰の境目で、影の側に座りながら気付いたのだが、ちょうど南中の時刻だったのか、だんだん近づいてきた日差しは、しばらくすると遠ざかって行ってしまった。丁度、この辺りが沢の奥に日の差し込む限界だったのだ。昼食は、今朝のサンドイッチ(ベーコンとトマト、マヨネーズ)の残りで、田中にしてはこの献立はよかった。

何処でも登れるような広いスラブを、城壁のように岩が取り囲んで、その中央に狭いルンゼが切り込んでいる。それが最後のWを含むルートだ。スラブの終わったところから、ルート終了までは、正確には3pある(ルート図の60mVは、U〜VとV+の2pに分かれる)。最後のW+、A0は、非常にもろい。中央のブッシュを境に、左右二本のルートがあるが、われわれは右を取った。こちらには、カラビナが二つも残置されていたのだ。われわれの直前に登ったパーティーは、いかにも未熟なひとたちだったらしく、おびただしいほどの真新しいシュリンゲが回収されずにあったが、ここへきてついにカラビナまで残っているとは恐れ入った。A0で登ったあと、回収するゆとりがなかったのだろう。その程度でよくこのルートへ来たものだ。たしかに、このピッチは非常にもろく、しかもややかぶり気味である。力のかけ方で、すぐにでも大落石を誘引するような浮き石を支点とせざるをえなかった。案じてはいたが、後続の二人が大きな落石を起こした。後で聞くと、ほとんど地形が変わってしまったそうだ。ラストの齊藤が登るときは、A0に使ったロープが切れてしまったそうである。

屏風の頭に着くと、すでに空は鉛色に覆われていて、風が強かった。そのときの田中の言葉が印象的だった。最終ピッチの取り付きのテラスで、はじめて下の風景に再会して、横尾から涸沢へ向かう登山道を見たとき、ああ俺は今まであの道から見上げていた屏風の上にいるのだなと、強く感動したそうだ。

夕食の茹でブタは成功だった。入山後五日たったが、塩漬けのブタロースは美味であった。

9月3日(水)

奥又白 前穂東壁Dフェース

曇り、のち雨。

今日下山する田中を残して、齊藤と二人で三四のコルへ向かう。五六のコルへの踏み跡と分かれると、踏み跡自体はっきりしないガレ場歩きになる。三歩登って、そのうち一歩はずり落ちているといったペースだ。五六のコルと同じ高さまで登って一本入れる。

三四のコルは、左手の岩稜が張り出しているので、下からは直接見えないが、ルンゼ沿いに登るよりも、この岩稜にできるだけ早く取り付いたほうがよいかもしれない。後で吊り尾根から下降するときに気付いたのだが、あまり明瞭ではないが踏み跡が見られる。下部の斜度の強くなるところで見えなくなるが、これは雪渓の残り具合によるものと思われる。

三四のコルから奥又側のルンゼ(C沢上部)を見ると雪渓はほとんど残っていない。例年に比べると残雪が驚くほど少なく、三峰リッジと四峰側壁に囲まれたルンゼの向かいに、明るい奥又の上部が望まれる。今回は、ピッケルを持参しなかったので、残雪の具合が気になっていたが、これなら好都合だ。四峰側に戻るように着いている踏み跡をたどって、適当な個所からC沢へ入る。

三峰リッジの末端についている踏み跡をたどると、すぐB沢に出会う。出合の部分でB沢は非常に細くくびれていて、はじめ少し登り出したが、あまり狭いような気がして、戻って踏み跡を先へたどった。しかし、どうも様子が違うので、また戻ってB沢を登り直す。前回北壁に取り付いたときの記憶と状態があまり違うのでDフェースを直前にしてまだ不安があった。前に来たときは、だいぶトラバースがあってDフェース下部に達したと思ったのは、実はB沢の詰めのあたりらしく、Dフェースの下に斜度の緩い広いテラスがあると思ったのは、ひとがやっとすれ違えるくらいの外傾のテラスだった。Dフェースの右側に落ちる易しそうだがもろそうな岩稜には三峰リッジを登るルートがあるらしい。左側は、もちろん北壁である。しばらくしてようやく状況がのみこめて、現在位置を確信するにいたった。

われわれがテラスで休みながら行動食をほおばっている間に、数パーティーが登ってきてはいずれも北壁に取り付いた。最初のパーティーを除いて、技量は未熟らしく、ガスが立ち込めて視界はなかったが、落石の大音響は頻繁に北壁に轟いていた。最後のパーティーなどは、あまりの落石の多さに恐れをなし、われわれの登攀をしばらく見物した後で、下山していった。谷川の烏帽子奥壁あたりのルートでも思うことだが、いくら初心者が多いとはいいながら落石が多すぎる。登るのが精一杯で落石まで気が回らないくらいなら、パーティーの多いルートに取り付くべきではないだろう。

1pの最初は易しいがだんだん難しくなってくる。朝一番にはこたえた。岩は安定しているのだが、斜度がだんだん増してきて、最後は自然に立っていられるスタンスが少なくなってくる。40m一杯に伸ばしてスラブ帯の直下に到達する。数メートル下のレッジでもピッチを切れるが、ここまで登っておいたほうがいい。人工が主でフリーも多少混じった2pは齊藤がトップに立つ。人工はぼくも得意でないが、齊藤はさらに心許ない。しかし、次の核心のX、A2が控えているので、このピッチは齊藤に任せる。途中アブミを落としてひやりとしたが、ザイルに絡まって事なきを得た。このピッチは快適といいたいところだが、今日は次のピッチが頭にあるせいか、高度感にさいなまれる。この壁に気合い負けしたせいか、われながら動作に流れがない。

3pのトラバースを開始する。日常生活ではほとんど経験することのない、強い不安とためらいを振り切って一歩を踏み出す。昨年のブランクがあったせいか、こんなに緊張するのは久々である。出だしのX級のカンテの乗越は、フィフィをたよりにほとんど人工といった具合。カンテの次ぎにある凹状にも直上するハーケンがあり、これが鵬翔ルートだろう。頭上をハングに押さえられて、A2のトラバースが続く。下を見れば、B沢の詰めの河床まで、遮るもののない一直線である。しかし、ここまで来ると、墜落の可能性は明瞭に意識するが、それに伴う恐怖はまったくない。不自然なほどない。これは、苦しさのあまり気を失ってしまうに似た心理的な防御機構なのだろうか。それとも、熱中のあまり痛覚が麻痺する状態に似た遮蔽効果なのだろうか。込み入った岩肌を縫いながらのトラバースは、あるときはセカンドの確保点からも直視できる位置に浮上したかと思うと、また次の岩窪に沈みながら続く。アブミを使ってのハングの乗越を二度繰り返すと、はじめて背を伸ばしてスッキリ立てる外傾のバンドへ出る。このバンドへ這い上がったときの安堵感は忘れがたい。ここから数メートルのトラバースで小さな洞窟のあるテラスに着いた。次のピッチは40mいっぱい伸ばせば、終了点にいたる。

前穂の山頂は、涸沢側からも奥又側からもガスが巻上がり、ときたま岳沢から上高地がかいま見られるだけだった。

9月4日(木)

曇り、のち晴れ。

白出のコルから新穂高温泉経由松本

主要な装備を齊藤に降ろしてもらい(下りのザックは優に60キロを超えたろう)、ぼくは白出コルを越えて、飛騨側から下山することにした。途中、奥穂の小屋に寄る。沼田さんから、昨年の遭難救助についての謝意を伝え、品物を渡すよう頼まれたのだ。しかし、出てきたのが奥穂の主人かどうか知らないが、いやに軽薄な、いかにも事故ずれした感じの、不快な男だった。

ゆっくり早めの昼食をとってガスの巻く白出沢を下りはじめると、左膝の外側に強い痛みが走った。昨日の吊り尾根の下降で痛みはじめたものだったが、こんなにひどくなるとは思わなかった。だましだまし、蒲田川沿いの車道まで下りる。車道とはいえ、車もひとも通らない。しっとりと銀紫に輝くススキや、まだ緑の深い山ブドウの大きな葉の垂れ下がる風景を楽しみながら新穂高温泉へ下る。快調とはいえなかったが、思い切り登った三日間の余韻を楽しみながら一人の時間が過ぎてゆく。

焼岳越えで帰る予定は膝の痛みのために中止して、平湯へ泊まるつもりだった。しかし、平湯のあまりの変貌ぶりに嫌気が差し、バスを乗り継いで松本まで下る。乗るつもりだった最後のあずさが、季節列車で運転せず、松本へ泊まるか、夜行かしかない。一週間も山にいた髭もじゃの、薄汚れた男は数件のホテルで断られ、夜行を覚悟して城の近くの飲み屋“しずか”で、下界の食事を楽しむ。飲み終わっても、夜行には時間があったので、城のベンチに寝転がって時間をつぶした。夜行出発まで小一時間になったので、駅までぶらぶら歩く。駅前の横断歩道を渡りながら新しく建ったビル群を見ると、東急インがあった。だめもとで4Fのフロントへ行ってみると、いまキャンセルがあったところだという。これで一週間ぶりのシャワーが浴びられる。そう思うと、急に自分が汗臭くなった。


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