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梓山行 飯豊山

梓編年

大森、中村、橋元

<予定>
7日:12時に東川口駅集合→天狗平駐車場(幕営)
8日:石転び沢→梅花皮小屋→御西小屋(幕営)・歩程8〜10時間
9日:大日岳往復→飯豊本山→ダイグラ尾根→飯豊山荘・歩程7〜9時間
10日:下山

<実際>
8日:駐車場5:30→石転び沢出合い8:30→梅皮花小屋11:20→御西小屋16:10
9日:御西小屋5:00→大日岳6:00→御西小屋7:10・御西小屋9:00→飯豊本山10:15→宝

以上:大森氏のメモ
 

2002年8月7日 水曜日
晴れ。
ほぼ時間通り11時半少し過ぎて大森氏のテラノが到着。チャウを東川口で拾って東北道を北上。佐野SAで昼食に名物ラーメンを食したが、茹で方が雑、スープも今一。

小国、天狗平

福島飯坂インターで降りて、国道13号(米沢南陽有料道路経由)を小国へ。途中、ビール500oを12本と氷を買う。大森氏が行動食の用意がないというので、小国のセブンイレブンへ寄ったが(大森氏はセブンのオムスビとソフトクリームに執着を見せる)棚は空っぽ。5時になれば荷が届くというが、まだ少々時間がある。その前にと、別の店を探訪して、戻ったが未着。やむなく、他のコンビニで行動食を仕入れ、小国を後にしようとしたが新潟側の外れにもう一軒セブンがあった。後の祭りである。

小国を出て13号を新潟方面へ進むと数キロで赤芝渓谷という観光スポットがある。おそらく紅葉が美しいのだろう。赤芝渓谷の立て看板を過ぎるとスノーシェード、続いてトンネルがある。トンネルを出て2つ目の橋が玉川橋で、これを渡るとすぐに飯豊山荘方面への入口がある。方向としては左折だが、実際は右折してループする架橋を経て玉川沿いの道へ入る。

道は、急な山道になると思いきや、玉川に沿った広闊な谷間に民家が点在するなかを、緩やかに南下する。北アルプスの山懐と違って、迫り来る山容の圧迫感はなく、大らかで明るい。一般道の終点が天狗平で、そこに最終日に宿泊予定の飯豊山荘があり、そのすぐ先に駐車場、そこからさきは整備された林道は続いているが、ゲートがあって一般車は入れない。

様子見がてら飯豊山荘の前庭を一巡して、駐車場にテントを張る。山荘近くにキャンプ場があるが、そちらは1人500円取られる。駐車場ならタダだし、広くてスペースは十分ある。水は、大森氏が山荘から貰ってきた。

今夜は、火は使わずに、チャウが家で用意してくれた総菜をつまみに一杯。酒は2升用意してある。新政純米と春鹿純米。後者は酒屋のお薦め。純米でまとめたのはOJの趣味である。小谷温泉での玉乃光(あれも純米)は不評だったが、今回はどちらもまあまあ。春鹿は、優しい酒で今一物足りないものの許せる範囲だ。話題は例によってあれこれ飛び交った。OJが、今度のコースは厳しすぎて無理だと言うと、大森氏は自分の身体をいじめ抜いて、鍛え直したい。七十歳まで現役の山屋でいたいのだという。読売新道以来、“難”とか“長”とかつくコースは避けて、物見遊山程度に山と接している当方とは、スタンスがまるで違う。ふーん、そんなこと考えてたのかと、こちらもそれなりの覚悟をする。とはいっても、今度のコースを予定通りこなせる気はまったくしなかった。

最後はチャウ特製の塩鮭の混ぜご飯で済ませ、早々に就寝。

2002年8月18日 木曜日
晴れ。

林道歩行、温身平

5時前に大森氏の声で起床。まだ酒が体内に相当残っているのは、小谷温泉と同じだが、今回は停滞という選択肢はない。朦朧とした頭で装備をザックに詰め、テントはそのままテラノに放り込んで、出発。朝食は抜きで歩きだし、腹が減ったところで行動食を、という段取りだ。

幕営した駐車場のすぐ先のゲートをすり抜けて林道へ入る。道幅は十分で、路側帯も広く取られ、周囲の大きな木立が林道を取り囲んでいる。林道はほぼ平坦で玉川本流に並行している。1時間ほど進むと、梅花皮沢が右手から合流する。この辺りを温身平(ぬくみだいら)という。そのまま本流に沿って進めば帰路に予定するダイグラ尾根の取り付きへ至る。もちろん、右折して梅花皮沢に沿って進むが、この分岐からはじめて飯豊の主稜線を望むことができる。遙かの稜線に小屋が見える。そのときは、みんな、これが梅花皮小屋かと思ったが、実は北股岳より北の門内小屋であった。林道も終わって登山道になり、しばらくすると先ほどの小屋よりひとつ山を越えた左手に別の小屋が見える。つまり、中央の山塊が北俣岳、右の小屋が門内小屋、左が梅花皮小屋である。

梅花皮沢・石転び沢

梅花皮沢を遡行し、右手から大きな沢が合流したところで、雪渓が現れた。ここで一本立て様子を見る。ここではじめて先行パーティの姿が見え、あぶなっかしげに雪渓上を歩いている。いよいよ、雪渓登高の開始だが、まだ右岸の草付きにある登山道をからめながらの登りである。

入り門内沢と石転び沢の出合も過ぎ、広い雪渓が一望できる(とっても上半分は左へ曲がり込んでいるので見えない)ようになると、先行パーティの姿が蟻のように見えてくる。なるほど石転び沢である。大きな岩が雪渓のあちこちに転がっている。本格的に雪渓を上りだして一本立てたところでチャウと大森氏は軽アイゼンを付ける。こちらはチャウの予言通り、サロモンの山用運動靴なので着けようがない。最初からアイゼンは持参していなかった。しかし、靴が今回の山行のために買った新しいものだったことと、ソールの刻みが深かったのでほとんどスリップしなかった。登りはアイゼンはなくてもよいが、下りはあったほうがよかろうと思う。

アイゼンを着けたチャウのほうがたびたびスリップしていたが、それも無理はない。軽アイゼンは、ほぼ土踏まずの位置に着けるが、次のステップを踏みしめる前に、つま先だって靴底を浮かせてしまうので、アイゼンが雪面から離れてしまい、グリップは普通の靴と変わらなくなってしまうのだ。

先行していた大オバサン軍団をやり過ごし、雪渓の終わるところで一本。こに沢が流れ込んでいるので喉を潤し、水を補給する。痛風以来、水はできるかぎり飲むことにしている。しかし、この辺りですでに相当バテが来ている。ここから、さらに斜度が増し、胸突き八丁である。イブキトラノオとオタカラコウの広大なお花畑に、なんとか気を取り直して重い身体を押し上げる。実は荷物はそれほど重くない。20キロはないだろうし、昨年の餓鬼岳のときよりも軽いことは間違いない。しかし、身体がいうことをきかない。

梅花皮小屋が見えだしてからの、最後の詰めが長かった。2,3歩登っては、息を整える。しまいには、チャウにも置いていかれてしまった

梅花皮小屋

バテバテながらも、小屋へは11時半頃に着いた。何と立派な小屋になったことか。小屋とは別に管理棟まであり、管理人が常駐している。無料ではあるが、利用の申告をしなければならない。小屋の建つ乗越は定常風にさらされ、日差しも薄雲で遮られていたので、すぐに寒くなった。小屋の中に入ってしばし休憩。見かけだけでなく、内部も立派だ。トイレは水洗でピカピカである。

壁にかかげてある歴代の小屋の写真を見ると、どうやら前回(1981年の8月29日〜2日)に梓で来た頃の小屋は先々代になるらしい。小屋内で宴会をしていたら、他の登山客にうるさいと言われ、表にテントを張ってさらに宴会を続行したことが懐かしく思い出される。

さて、普通ならここで一泊だ。しかし、大森氏のスケジュールでは、さらに長駆、御西小屋まで行かねばならない。小屋の板の間でノンビリすると、なんとか体力も回復し、御西までお足を伸ばす気になった。それに、まだ午前中ではある。そこへ、あのオバサン軍団が到着し、一瞬にして静寂は消し飛び、いや喧しいこと。子育ても終わり、ダメ亭主には愛想をつかし、自由闊達この上ない女性達である。出立の支度をするわれらに、オバサンが、ここへ泊まらないんですかと、声を掛けてくる。当然であるかのように、“ええ”と言い放って小屋を後にした。

梅花皮岳、烏帽子岳

小屋を出て山道を行くと、一面のタカネマツムシソウの大群落。前回もマツムシソウを見た記憶はあるが、時期が遅かったせいか、これほどの群落とは思いもよらなかった。そんななか、道ばたのミヤマリンドウが目を引いた。開花まもない色鮮やかな株だ。大森氏、早速に撮影開始である。この後もいろいろな花を接写したのだが、彼のカメラの接写機能がダメになっていたらしく、接写はすべて全滅であったことが、後で判明。

すでに雪倉単独行の記録でお分かりのように、大森氏は高山植物に関して、長足の進歩を示している。これまで、あれこれ植物名を当方に質問し、枝葉は要らない、核心部だけと、言っていた彼が、ミヤマかタカネか、はたまたクモイかクモマかの峻別を要求するようになった。それにパターン認識が鋭いし、正確だ。OJはもはや落ち目なので、頼もしい限りである。

すでに石転びの急登をこなした後では、涼風の吹き渡る、なだらかな起伏の縦走路とはいえ、また、雪田を取り巻く美しいお花畑の連続とはいえ、歩を進めること自体が相当につらい。梅花皮岳、烏帽子岳を経て、御西小屋までの4時間の行程は、駄馬にむち打つがごとくであった。

ただ、ビールを冷やすことだけは、怠りなかった。休憩を雪田の近くにして、雪をかき集め、ビールとともに、かねて用意の厚手のビニール袋に詰める。こうすれば、ザックを揺り籠として、ビールは極限まで冷やされるのである。

御西小屋

4時をまわって、よたよたと御西小屋の天場に着いた。今日の行程は10時間を超えた。設営よりなにより、まずはビールで乾杯。冷え切った液体が、乾いて火照った身体を駆けめぐる。血液の濃度が一挙に薄まるかのようである。何が何でも、ビールは冷えていなくてはいけない。

大森氏が小屋の様子を見に行ったが、小さいので結構、登山客が詰まっているらしい。しかし、天場はがら空きで、サイトは選り取り見取り。格好の場所に幕営する。眼前には、大日岳が悠然と鎮座している。主稜線からは外れているが、飯豊山塊の盟主、すなわち最高峰である。飯豊本山ほどの量感はないにしても、端正といってよい山容だ。明日、登るか否かはおくことにして、疲れた身体を励まして、夕食の支度にかかる。

夕食のメニューは、天狗ブランドの枝豆(今年からの新しい品種だという。茹でた香りから茶豆かと思っていたが、違っていた)と我が家のニガウリがつまみ、メインはみそ漬けの茹で牛。仕上げがみそ汁とお好み焼きだ。酒は1升、ビールは500o缶が5本ある。この牛は、超豪華である。OJが段取り悪く、間際に肉屋に電話したので、予算に見合った肉がなかった。そこでやむなく、あるものでいいからと注文したところ、ステーキ用の霜降り肉で、100グラム1400円のものになってしまったのだ。ただし、こちらの提示した予算の倍以上だったこと、ブロックのままなので整形の手間がないことと、それに、多少は馴染みのせいもあって、それを100グラム900円にしてくれたのだった。そんな経緯で、前代未聞の霜降り茹で牛となったわけだ。これが不味かろうわけはないが、かわいそうにバテ果てたチャウは、わずかしか口にすることができなかった。

初日の目標を達成した大森氏は上機嫌。得意の寅さん節を唸って、ケツの周りをクソだらけにし、これ以上起きていると気持ち悪くなりそうと、ぱたんクー状態で寝入ってしまった。かろうじてみそ汁は飲んだが、お好み焼きまで到達しなかったのは、言うまでもない。

2002年8月19日 金曜日
やや雲の多い晴れ。

大日岳

4時半、大森氏の腕時計のアラームで起床。さてどうするか、寝たまま様子をみる。意外にも身体にだるさはない。大森氏もすぐ大日岳を目指すとは言わず、どうするか訊いている。いろいろ思いめぐらせ、ここで行かなければ今後行くことはまずあるまいと、決断した。チャウは、この後の長丁場もあるので、テントキーパーをすることとなった。

5時に、雨具と行動食程度の軽装で出発。大日の山頂部はガスに覆われ、全天に雲が多いが、まあまあの天気。終始穏やかな風が吹き付けることも、昨日の縦走路と同じだ。先行する大森氏が、半ズボンでは朝露が冷たいと、テントへ聞き返して雨具のズボンを着けてくる。

御西小屋から大日の間は、南西へ伸びる長い吊り尾根になっていて、左手(南側)にチングルマが主役のお花畑が展開している。これまでのところ、チングルマはすでに花期が過ぎて穂の状態のものばかりだったが、ここはまだまだ残っていた。

ここで面白いことに気づいた。上からお花畑を見下ろすと、手前から赤紫の群落、次に黄色の群落、そして、一番下に白い群落が、なかに砂礫地の茶色を挟んで、縞模様になって見えるのだ。さらに、観察すると、これは咲いた時期をそのまま示しているようだった。まず開花したチングルマは、花弁の白が主調となる。次に花弁が落ちると、雄しべの黄色が目立ってくる。最後に、実が着いて、お馴染みに薄い赤紫のチン穂状態となる。雪田が消えるに従って、この時系列の変化が、そのまま上から下への空間的な変化としてお花畑を形成しているのだ。

吊り尾根をだらだら下り、だらだら登り、最後は一気の急登になる。これは、遠望したときにすでに分かっている負荷配分だ。しかし、最後の急登が終わってもなかなか山頂に達しない。主縦走路から見ると、大日岳の山頂は、この急登の終わったところあたりのはずなのだが、山頂部が横長に引き伸ばされた地形になっていて、実際には山頂は一番奥の一段低い位置にある。一番高い位置には、標識が外れてしまったのだろうか、白く塗られた鉄のアングルが刺さっているだけだ。要は、三角点があるので、低いけどそこを山頂としたらしい。

このころには、先ほどのガスも吹き払われ全方向の視界がある。モヤっとしてはいるが、日本海の海岸線もはっきり見える。しかし、いかんせん、山のほうは、深田久弥でも連れてこないと、どれがどれやら、さっぱり分からない。風を避けた窪地で軽く行動食をとり、帰途についた。

本日は、われらが一番乗りだったらしく、何パーティかとすれ違った。ほとんど、大日ピストンと思われるが、なかにはまともにザックを背負っている夫婦もいたので、このコースから下山するのかもしれない。最近のお互いの仕事のことなど話あいながらの帰路となった。彼の最近の仕事から、確定拠出型年金の話が出た。従来の企業年金の計算方法として、複利計算と割り戻し、転職や死亡の確率の組み込みなどの仕組みが話される。そのような仕組みの結果、年金用基金の不確定性と準備不足が生じる。そして、そうした面倒を逃げるために、確定拠出型年金が、いかに企業の論理から導入されるかに至ったかを、わかりやすく説明してくれた。

 

往復約2時間ほどで、7時過ぎに天場に戻ると、チャウが驚いたようにずいぶん早いねという。こちらは、昨日ピストンしてきた登山者からそのくらいかかると聞いていたので、ほぼ予定通りと思っていた。しかし、いろいろチャウと大森氏が話しているのを聞くと、どうも地図のコースタイムが大分違うのだ。同じ昭文社の地図で、大森氏のは2000年版、チャウのは2002年版なのだが、前者の方が、どれも所要時間が大幅に短い。一方で、2時間半のコースがもう一方では、1時間半となっていたりする。大森氏は短い方でハードな行程を組んでいるから、長い方が最新情報となると、もう殺人的にハードな行程となる。

飯豊本山とイイデリンドウ

なにはともあれ、最後に1本残ったビールで乾杯し、のんびりと朝食を済ませた。大日を往復したこと、朝食に時間を取りすぎたこと、それにコースタイムの大幅な誤差などが相乗して、あとでひどい目に遭うのだが、まだ知るよしもない。御西小屋天場を、9時に出発。御西から飯豊本山までは、草原を散歩するようなのんびりしたコースだ。これから下るダイグラ尾根も左手に見下ろせる。最初に目立つ岩峰が2つあり、あとはいくらか高度をさげて、ステゴサウルスの背中のような起伏が続く。飯豊屈指の難コースだそうだが、技術的な意味ではなく、体力的にだということは、予想に難くない。

飯豊本山への登りで、明らかにこれまでのミヤマリンドウやタテヤマリンドウと形の異なるリンドウを大森氏が発見した。持参した図鑑に写真はないが、ここ特産のイイデリンドウに間違いなかろう。ミヤマやタテヤマと違って、花弁が丸みを帯びている。後で調べると、飯豊のなかでも本山周辺にしかないらしいので、非常に運がよかった。見つかったのもこの株だけだった。

ダイグラ尾根、ヒメサユリ

本峰の手前のピークで一本立てたので、本峰(10時15分)では記念写真だけにして、いよいよダイグラ尾根の下りにかかった。この尾根は、本山山頂からほぼ北に向かって高度を下げて、最後は、尾根の両側を流れる2つの沢(西は桧山沢、東は大又沢)の合流点で消滅する。

はじめは快適である。まだ高度もあって気温は低く、西からの風が一定に吹いて涼しい。すぐにヒメサユリにも出会った。群落というほどの数ではなかったが、今が盛りの数株を見ることができた。ちょっと高山植物の風情とは異質だ。なんだか、都会育ちの美人が山村に紛れ込んだようである。

だが、快適はほんの束の間だった。北上する尾根に、縦走路は西に絡み、東に絡みしているのだが、次第に、尾根の西か東かで、天国と地獄の差が生じてきた。西側は尾根の影になり、風が吹き渡るので快適そのものなのだが、東側は風がまったくなく、背後からの日光の直射に曝されて、息もできないほど蒸し暑い。しかも、縦走路は東側を巻くことがほとんどで、西側はわずかしか通らない。

しまいに、顔が火照り、足下がふらついてきた。頭にタオルを巻いていただけなので、首筋が無防備だった。そこで、タオルの上から水を掛けて、帽子を被って直射を遮る。これで、しばらくは、シャキッとしてなんとか歩けるのだが、しばらくすると、またふらついてくる。半分はバテ、半分は熱中症である。もう固形物が喉を通らないので、チャウの持参したオレンジ(かってなく美味であった)やナシや、キャンデー、ドライフルーツ類が頼りである。

この尾根は、延々と登降を繰り返すのだが、高度はわずかしか下げない。こんな尾根を登ってくるひともいるのだ。難コースと評されれれば、それだけでも挑戦したくなるのだろう。それも何パーティーか出会ったが、すべて単独行で年配の男だ。下りは、若い男が1人だけ、われわれを追い越していった。そうこうするうちに、御西で満タンにした水筒も底をついてきた。山頂から4時間ほどのところに水場があるはずなのだが、現在位置がなかなかつかめない。

水場

相当バテバテになった状態で、多分ここは休場の峰だろうというところで一本立てた。それが正解なら、もう小一時間で水場にたどり着くはずだった。ところが、これがひとつ手前の無名峰だったのだ。それからの行程の長かったこと。とにかく段差を降りるのが億劫なのだ。2、3段降りては、息継ぎである。しまいに、大森氏もチャウも見えなくなってしまった。こんなことははじめてだ。尚やんならまだしも、下りでチャウに追いつかないなんて。最近は、しょっちゅう同じことを書いているようだが、自分にとっては、その都度内容の違う新しい境涯なのだ。

まるでロスオリンピックの女子マラソンの、最後の選手のような状態で、朦朧と降りていると、眼下の大きなミズナラの根本に、大森氏とチャウのザックとが並べておいてある。やっと休めるかと、近寄ってミズナラを見上げると「水場 3分」の表示があるではないか。2人はすでに水場へ行っていたのだ。欣喜雀躍というところだが、踊り跳ねる余力はない。空っぽの水筒を手に、水場へこけつまろびつ下る。水場への踏み跡は相当斜度があり、真っ白な補助ロープが張ってある。日頃、補助ロープにすがるなど、元岩屋らしからぬと手にしないはずが、よれよれで、そうも言っていられない。

水場は先行の2人がやっと立てるくらいの広さしかない。一段上でしばし待つことになる。周囲の森林を取り払った状態を想像すると、おそらく断崖絶壁の途中に3人がへばりついている構図になる。2人と入れ替わって水場に立つ。水場の周囲は腐葉土に覆われ、水量はさほどではないが、湧きだし口の奥を覗くと花崗岩が露出している。花崗岩質からの湧水といえば美味が保証されたようなものだ。灘の生一本は、背後の六甲山系の花崗岩(御影石)からの湧き水がその命である。水場に立つと、まずはホーローのカップに水を受けて喉を潤す。甘露、これに優るはない。立て続けに何杯飲んだだろうか。少し落ち着いたところで水筒を満たし、カップに満たした水を頭からかけて体熱をさまし、また水を飲みと、浅ましいほどである。

縦走路に戻って、話しているのか、呻いているのだがよく分からないような会話をして、たっぷり休みを取って、また出発だ。なにせ歩かなければ永久に宿へは着かない。水を補ったので少しは回復したものの、少し歩くとまたふらふらになる。水場から尾根の末端の吊橋までは、1時間強だったろうか。最初は、ほとんど高度を下げない。両側の尾根の高さを見ると、これから下降しなければならない高低差にぞっとするほどだ。三分の一ほどいったところで、一挙に急下降に入る。

西に回り込んだ日は容赦なく照りつけるが、木立が覆ってくれるので、直射とはならない。太陽もやがて、隣の尾根の背後に落ち、温度環境はやや楽にはなったものの、瀧なす流れのごとき急下降は変わらない。李白の詩に曰く“飛龍直下三千尺 疑うらはこれ銀河の九天より落つるかと”の勢いである。先行の2人の姿はとうになく、救いとなるのは近づいてくる沢音のみとなる。

木立の合間から遙か下に吊橋が見え、対岸に2人の姿がちらほら見えたときの嬉しかったこと。ああ、これでもう下らなくて済む。朦朧と吊り橋を渡るが、橋が揺れているのか、自分が揺れているのかわからない。対岸に渡り、倒れ込むように座って、先ほどの水場の水を飲み干す。大森氏が“激しい旅だった”と独りごちる。一息ついて、やっと沢の水で汗を洗って人心地が着いた。ここからなお、林道歩きが1時間以上あるが、これまでの下りに比べれば楽なものだ。タダ、足を右左交互に出すだけでよいのだ。

飯豊山荘にて

長蛇の林道を、群がる虻を払いのけ、気分の悪くなるようなクサギの臭いをかき分けて、やっと駐車場にたどり着いたのは、6時頃か。大日往復をいれると、また10時間を超える強行軍だった。“どんなに長い旅も、いつかは終わる。人生と同じだ”。

なんとか山荘にたどり着き、温泉で汗を流して、食事にありついた。最初のビールの一杯が、ネクターのように全身に浸みわたった(昔の缶ジュースのことではない。オリュンポス山におわしますギリシャの神々が喉を潤した神酒のこと。私は飲んだことないけどね)。普段は、冷たいものに弱いので、ビール一杯を一気飲みはできないのだが、このときばかりは違った。一杯では終わらず、何度も杯を重ねたのだった。

2002年8月10日 土曜日
晴れ。

これまでの勢いで早朝から目が覚め、テラノに放り込んだテントの整理などをして時間をつぶしてから、朝食を済ませる。まことに申し訳ないが、来るとき同様、帰りも大森氏の単独運転だ。来るときには多少の緊張感があったが、帰りは目的を完遂して(いささかの体力的敗北感は残るものの)、のんびり気分のドライブである。大森氏も、運転を楽しんでいるようだ。

通り過ぎてゆく山村の風景に目を和ませながらも、この歳で、あんなに無理をして予定通りにコースをこなすこともなかったろうにと自分に問いかけるが、一方で、まあいいんじゃないの、歳とともに縮こまるだけが人生じゃないよ、ともつぶやく。それにしても、自分だったら、いまさらこんなハードなコースを組まなかったろう。“長”と“難”とを避け、いざとなれば敵前逃亡できる計画にしたに違いない。大森氏の“七十歳まで現役の山屋でいたい”という声を、自分はどう受け止めるのか、大きな課題を突きつけられた山だった(なんだか新聞記者の定番コメント調になってしまった。ポリ、ポリ)。


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