道草Web

甘利・千頭星山、転じて甲府盆地探訪

梓編年

2003年5月31日 土曜日

曇り、のち雨。 

せっかく大森さんに立案してもらった計画だったが、出発当初より台風4号の影響で、山行など予想もできぬ天気予報。それでも、集まることに意義があるとばかりに、誰も異論を立てず、計画どおり決行。

新宿発の高橋、中村、亀村、橋元組と、八王子発の冨山、後藤、田中組は、中央道藤野SAで合流(この間、尚やんが独り丸ビル前に集合したという梓らしいハプニングもあったが、さしたる遅延はなし)。その頃には雨は本格的となり、登山は論外、明日の予定を繰り上げて本日こなすこととはなりました。

まず、後藤さんがネイチャースクールで知り合ったソムリエがいるという勝沼ワイナリーを訪問。ネオクラシックとでもいうのか、小規模ながら小ぎれいで清潔感の行き渡ったワイナリ(元は絹糸の商家だったという建物を改造したもので、そこに味がでている。ただ、見かけだけ装ったのとはベースが違う)。一人千円なりのガイドコースをたのみ、指名したソムリエ氏の解説で、白赤ワインを10種類ほどテースティング。質疑応答1時間以上におよび、そのうち、ソムリエ氏、なんと冨山さんと同郷であることがわかり、一段と話が盛り上がる。ソムリエ氏には気の毒ながら、このワイナリーのワインに関するわれわれの評価はあまり芳しくなく、OJの感想では、確かに研ぎ澄まされた清楚な味わいを醸成しようとする方向性は理解できるものの、心地よくゆったりと飲むには神経質すぎる印象でした。挨拶程度に、テースティングでまあまあだったワインを赤白それぞれ一本ずつ購入し、今晩に備えました。

空腹でのテースティングですぐにも昼食としたいところでしたが(実はワイナリには、5000円、2800円で食事付きのコースもあったがチャウの一言で却下。もっとも、5000円コースには、社長が相伴するとあって、これは一体サービスなのか?)、空腹をこらえて国宝の金堂があるという大善寺へ。大善寺は、国道20号から中央高速勝沼ICへの分岐の少し東京寄り、国道のすぐ脇にある。そぼ降る雨の中、水たまりのできた参道の石段を登りましたが、残念ながら金堂の屋根を葺き替え中で、全容は拝めませんでした。

待望のお昼は、後藤さんが食い物屋の情報を仕入れようと、ワイナリーで偶然声を掛けた町会議員に紹介された食堂へ。後藤さんが、町会議員“真澄ちゃん”の話を出したところ、たちまちお銚子3本のサービス。しかし、味の方はどうも、でした。

昼食後は、昇仙峡にある藤城誠治の影絵原画美術館へ寄りました。あの煩縟を極める切り抜きで、自己の幻想世界を華麗に展開するクラフトマンシップには敬意を表するものの、趣味の違いはいかんともしがたいところ。子供達や、知的発育の遅れたおばさんたちは、ずいぶんと展示を楽しんでいるようでした。

最後に、昇仙峡を少し戻って途中から開墾地へ入り込み、本日の宿である甲府ハイランドユースホステルへ。

http://www.yin.or.jp/user/takumi/kofuyh_001.htm 

ホステルは、山を背に、溜池を前面にした高台に位置し、晴れた日には甲斐駒を眼前にできるとのこと。建物はもう古びているとはいえ、鉄筋コンクリートの二階建て、1960年代の超モダンといったデザイン。難は、ペアレンツの雰囲気がいまいち“暗い”というくらい。酒や副食の持ち込みは自由ということで、早速持参の酒2升とワイン2本は、宴会場となる16畳の談話室のテーブルに鎮座。この部屋は二面が全面ガラズバリで、広い前庭を隔てて周囲の森や山が望めるなかなかの風情。ほかに客もいないとあって、さっそく宴会が始まったのでありました。

2003年6月1日 日曜日

曇り、のち日がでて大分蒸す。

早朝、雨は止んだものの靄が立ちこめ、山行の話はなし。今日の目的は、甲府市内の武田神社と、甲斐善光寺となった。独り先に帰京する田中車とは、宿を出がけに分かれ、残りはデリカへ乗り込む。

武田神社は、武田家の躑躅が崎館跡とのこと。武田信玄はもともと城を構える意志はなく、甲府盆地全体を城とみなして守備していた、とは冨山さんの解説。なるほど、背後を山で守られ甲府盆地全体を見下ろしている位置取りは、ここが甲府盆地の天守閣といったところか。ただ、伝統ある神社というには、門前に土産物屋が一軒のみと、やや寂しい印象。

甲斐善光寺は、甲府からJRを二駅ばかり東京へ戻ったところにあり、信玄が川中島の戦火の及ぶことをおそれて、長野善光寺の本尊などを遷した寺だそうだ。善光寺がここにもあるとは意外だったが、まあ何ということもないお寺。本家のご開帳にあやかって、こちらもご開帳の最中であった。このころには天気も回復し、日差しが強く、蒸し暑くなった。

昼には時間があったので、次はどこにするか大分わいわいとやったが、カメチャンのFormaもOJのDocomoも、使い慣れていないせいもあってあまり情報検索には役立たず、結局、昨日行けなかった海湧山清白寺へとなった。下調べした後藤さんによると、清白寺はJR東山梨駅の近傍にあるという。多少迷いながらも、県道に大きな標識を発見(国宝だもんね)。そこに清白寺方向の指示はあるものの、その指す道は、車のすれ違いはおろか、デリカがやっと通れるほどの農道で、とても入り込む気にならない狭さ。近くのローソンで確認したが、たしかに寺はその小道の奥だという。カメちゃんが学生時代に来たときの記憶がなければパスしてしまっただろう。当のお寺は、その小道をしばし辿った、ブドウ畑、梅林の真ん中にあった。国宝の本堂は、金属の柵に囲われ、放水ガンが設置されてはいるものの、観光客の来訪などまるで考えてもいない様子。1333年建立という小振りな本堂は、一重裳階の入母屋造桧皮葺きで、カメちゃんの解説では、これは鎌倉の建長寺とも通じる禅宗様式の典型とか。それにしても、田園の真ん中の、このちいさな木造建築が、幾多の天災、戦災をしのいで、今日まで残存していることに、不思議を憶える。別棟に庫裡があり、戸が開いていて、だれでも入れそうだったので、上がろうとしたが、奥の間に配膳された机が並んでいるのが見えて、慌てて外へ出た。まるで農家の裏口からだまって上がり込んでしまったようだった。どうも、それが気に入らなかったと見えて、すぐに庫裡の戸を閉められてしまった。こちらに非があるとはいえ、寺ともあろうものが来訪者に声も掛けずに戸を閉めるとは嘆かわしい。

最後は、昼飯の場所を探してまたも放浪が始まろうとしたところ、偶然にも以前入ったことがあり、評価もまあまあの『奥藤』という店に再会して無事昼飯となる。この店、冨山さんの記憶のように、河口湖で梓20周年の宴会をやった帰りにみんなで寄っている(2000年11月26日)。しかし、最初は、鈴木、大森、中村、橋元で、笛吹川鶏冠沢右俣をやったとき(1996年07月20日)にはじめて入った店である。大森氏のソバの評価がまあまあだったので、データブックに登録したのだった。河口湖の帰りの日誌を見ると、ほったらかし温泉で、この店を携帯で予約したとある。OJにはこの記憶はまったくない。我ながら近頃まだらボケである。

ちょっと脱線すると、OJはこの鶏冠沢で、左足の親指付け根に違和感を憶え、その後の笹ヶ峰の夏山で徹底的に尿酸に悪い生活を送り、ついに8月23日に第一回痛風を発症している。

まあ、そんなこんなで、3時前には東京へ無事帰着。

なお、中央道の談合坂付近は、従来の上り2車線を下りに併合して4車線、上りは新規に3車線となって、往き帰りとも渋滞もなく通過できた。


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