道草Web

空木岳・南駒ヶ岳・越百岳縱走

梓編年

2003年8月22日 金曜日

晴れ。

タイマーの鳴動で4時に起床。就寝は2時だったが、すっきり目が覚めた。まだ、睡眠2時間では、神経は眠っていなかったのかも知れない。茹で牛用の牛肉と枝豆は、直前まで冷蔵庫に保存してあるので、それをコールマンのクーラーへ移す。牛は味噌漬けにするが、なるべく時間は短い方がいいので、出発直前に自家製味噌を、牛のブロックに塗りつけてビニール袋へ入れた。

ラクダ坂発4時50分。流石にこの時間だと、渋滞はまったくない。集合時間数分の遅れで新丸ビル前に到着。善さんと大森氏はすでに待っていた。二人が乗り込んですぐに出発。小人数だと事が早い。そのまま諏訪SAまでぼくが運転して、軽く朝食。ここで運転を善さ んにバトンタッチ。

塩尻インターで高速を下り、JR中央本線と木曽川に沿って、木曽路(19号)を南下する。このころは、ぼくは助手席で白河夜船。大分眠って、自分のイビキで目が覚める。JR須原駅先で19号は、木曽川支流の伊奈川の橋を渡る。その橋のすぐ手前で左折して(なぜか、そこに石川島播磨のタービン工場がある)、山道に入る。すぐとば口の集落で道路工左折事の通行止めがあり、大分右往左往させられ、結局、19号へ戻って伊奈川の橋を渡って左折する大迂回を強いられる。

19号から伊奈川沿いに18キロほど遡行した伊那ダムの少しの上部に、地図上の登山口がある。登山口といっても、その実態は、林道の一般車乗り入れを制限するゲートがあるということだった。その手前に50台ほどの駐車スペースが二ヶ所ある。上手の駐車場はもう満杯で、下のスペースに停めた。下にはまだ数台しか停まっていない。しかし、平日だというのに、これは予想外の台数である。これまで、悪天で延期、延期となっていたのが一斉に山に駆けつけたといったところだろうか。

到着は、ほぼ予定通り10時10分だった。実際の登山口までまだまだ林道歩きが続く。1時間半ほどの林道歩きで、うさぎ平。ここから、林道を離れて登山道が始まる。しょっぱなから樹林帯の急登となるが、やがて尾根へ出て斜度が落ち、あとは尾根を乗っ越して東川の北沢へ下降する。北沢は花崗岩の河床を洗う清流だ。水はもちろん旨い。この山行 全体を通じて、水は豊かで旨かった。

ちょっと、余談。“花崗岩は水を旨くする”。前にも書いたが、生一本で有名な灘は、酒の仕込みに六甲山の伏流水を使う。六甲山の山体は、大部分が花崗岩からなる。灘の近く の御影は、御影石の産地。御影石は、花崗岩の一種だ。サントリーが盛んに宣伝している白州の水は、尾白川の水。尾白側の水源となる大山塊、甲斐駒も花崗岩の山だ。今、思い 出しても一番旨いとおもったのは、梓で高天原の近くで幕営したときの、岩苔小谷の水だ。あの水で水割りを作るとトリスがオールドになる。あの付近の河床も花崗岩質だった。

閑話休題。途中から気付いたのだが、林道から北沢の出合辺りまで、地面に転がっている岩石が、どれも金粉を掃いたようにキラキラと光る。もちろん本物の金粉のような派手な ものではなく、うっかりすると見過ごすほど地味な光沢なのだが、それなりに美しい。昔、金と間違えやすいと憶えた、黄鉄鋼だか黄銅鉱だかが含まれているのだろうか。いまま でにない珍しい経験だった。

吊橋を前に、川端のテント跡で一休みする。ここから先は主稜線へ至る尾根を一途の登りになる。つまり、本来の登高尾根へ取り付く前に、前衛の尾根を乗っ越したわけだ。吊橋 からは単調な登りが続く。ルートはほとんど針葉樹林帯の中を行くので、真夏でも暑さに苦しめられることはない。それに、ツガ、シラビソ、トウヒ(下部ではヒノキ)からなる 明るい針葉樹の疎林は見晴らしがよく、路面の整備状態も悪くない。登りの苦しさを差し引けば、快適なルートと言える。林床には、カニコウモリ、セリバシオガマ(最初、エゾ シオガマと勘違い)の群落が多く見られ、ユキザサ、ハリブキ、マイヅルソウなどはすでに結実し、枯れがてのギンリョウソウもあった。

水場も、北沢の吊橋、仙人の泉、木曽義仲の力水と豊富で水量も文句ない。とくに、最後の力水は、稜線まで7分というのに滔々と流れ落ちる沢であった(今年の気候の影響もあるだろうが)。小屋の直下にも、わずかに湧き水があったが、小屋の話ではここは枯れる こともあるらしい。

最後の木曽義仲の力水で、本日の割り当て分のビールロング缶4本を冷やし、それを冷水を入れたポリ袋に詰めて、小屋まで手持ちで運ぶことにする。もちろん水タンクも満タン にする。小屋から降りてきた人にたずねると、小屋でもここの水を汲み上げていて、客に水は提供していないという。水場の周囲は、ハクサンフウロ、タカネグンナイフウロ、オ タカラコウ、イブキトラノオ、トリカブトなどが小さな御花畑を作っていた。

木曽殿小屋のある木曽殿越には、5時をまわって到着した。小屋は、木曽殿越の西側を少し掘り下げた敷地に、風を避けるようにして建っている。二階建ての清潔な小屋で、第一印象は悪くない。予想外だったのは、登山客の多さ。シーズンのピークも過ぎた平日なの でがら空きを期待していたが、とんでもなかった。小屋の周囲のテーブルは、夕食を待って宴をはるパーティで満席。大森氏は到着を告げに小屋に入り、善さんとぼくは宴会場所 を探した。小屋から少し上がったところに、コルを切り開いて作った小さな広場がある。コルからは、もう明かりの入った伊那谷(天竜川)の町が見える。あとで調べると、駒ヶ 根だった。コルの広場には、二つの石に板を渡しただけの簡単な席があったので、そこで用意にかかった。どうもトイレの風下らしく臭う。受付を済ませた大森氏が、相席ながら 小屋の脇にテーブルを見つけたので、われわれも宴会に突入することができた。

最初の相席のひとはすぐに立ち去ったが、そのあとに一人で座った男がひどかった。やたらに口数の多い中肉中背の男で、脳細胞と舌細胞が連動しているらしく、頭に浮かんだ言葉は反省もなく口からこぼれ出る。われわれ三人の話題に、ことごとく口を挟むのである。 この男、大学院へ通う息子が同行していると、先ほどのコルの広場を指し示す。そこには、長身やせぎすの、この男とは似てもにつかない物静かな青年がいた。遺伝子の情報伝達に は気まぐれもあるのだろう。携帯の電界強度表示が3本も立っていたので、チャウに電話をしたらきれいに通じた。

小屋は主人夫婦と娘さんが切り回しているらしいが、われわれの持つ山小屋のオヤジというイメージとは違って、どちらかというとペンションの主といった感じ。客への対応は適切・正確で、驚いたことには、すべての客の代表者の名前を呼んで、あれこれ言っている。 われわれへ対してなら、“大森さんは、食事は第二グループになりますから少々お待ちください”、“大森さん、食事の用意ができましたので、中へどうそ”といった、調子だ。 一水会の四方さんを思い出してしまった。

食事も整然と進行し、食卓で酒を飲んで宴会をするものなどいない。第一、そういう雰囲気がない。われわれもそそくさと食事(混ぜご飯とおでん。トホホ!)を済ませ、8時が 消灯というので、7時半までは宴会をすると主人に告げて、また外へ出た。暗くなって気温も下がり、屋外の客もいなくなったが、室内を見ると手持ち無沙汰の登山客が、まるで 夜汽車の待合室のように無表情に座っている。とても入るきにならないが、7時半になると“大森さん、中へお入りください”ときた。ああ、何たる束縛感。いくら感じがよくて、 清潔で、整然としていても、まったく梓向きではない。

二階だけでは収容しきれないので、一階の食堂もテーブルを片づけて寝室となる。遅く着いたわれわれはもちろん一階で寝る。布団一枚に二人だそうだ。一階にわずかに残ったテ ーブルで、消灯までのわずかな時間を、主人と旧知の登山客らが語り合っている。宴会などという雰囲気は皆無で、雲上の清談といったところか。あきれたことに、先ほどの口先 男もその場へ潜り込んでいた。布団は善さんと同じだったので、まったく窮屈は感じなかった。イビキで迷惑を掛けないように、両隣の善さん、大森氏と頭を逆にして、足下に水 を置くと、そのまま熟眠に落下した。

2003年8月23日 土曜日

晴れ。

戸外が白む前から、ごそごそ動き出す客もいたが、やがて電灯が着いて強制起床となる。なにせ、食堂だから起きなければ食事にならない。まだ日の出前で、周囲は暗かったので 少し時間をつぶして、やや明るくなったところで出発(朝食は、前夜、大森氏がキャンセルしてあった)。早朝の出発、それも日の出前の出発は梓では珍しい。西穂・奥穂縱走以 来か。あのときと同様、ルートがほとんど稜線西側の日陰を通るので、ご来光は拝めなかった。

上空は快晴だが、下界は雲海に覆われて、風は強く定常的に木曽側から吹き付けてくる。そのせいで、高々度にはわずかに巻雲が見えるくらいだが、空木岳の上空には大きな笠雲があり、近くの稜線でもあちこちで滝雲が発生している。本尊は拝顔できないが、ご来光 で周囲が明るくなると、うっすら赤く染まった木曽側の雲海に空木の山体が暗く影を落としていた。

起きがけの動きの鈍い身体であえぎあえぎ50分ほど登ったところで、登山道が東側に回り込み、風がぴたっと止んで、日の当たる斜面へ出た。ここで朝食とする。そのあとも、 空木山頂まで、これほど条件の良い場所はなかった。朝食に間にも、天気は目まぐるしく変わり、太陽が山越の雲に覆われ、周囲がガスに巻かれたと思うと、知らないあいだに風が弱まって雲が消滅していたりする。

6時半に空木岳山頂に到着。記念撮影をする。主稜線の遙か北に、特徴的な宝剣の岩峰が見える。ここからは、稜線の脇に、途中で折れた幅びろの剣先を立てたようで、あまり格好がいいとは言い難い。稜線の東側を見はるかすと、右手、南方に南アルプス、その奥に 富士山がわずかに山頂をのぞかせている。南アの左は八ヶ岳、そのはるか北に北アルプスのシルエットが見える。ここでは、南アは山塊としてしか把握できなかったが、その後、 休憩の度に山座を同定し、甲斐駒、千丈から、北岳、間の岳、塩見、赤石、聖、光などがだんだん区別できるようになった。山頂の西北側は、もちろん御嶽山の巨魁が鎮座してい る。南西奥には、鈍牛の背のような恵那山の稜線が見える。

このあと、赤梛山、南駒ヶ岳、仙涯山、越百山(こすもやま)と縱走するが、全稜線を通じてもっとも目立つ花はトウヤクリンドウ。これは多すぎるくらい多かったし、岩稜帯で はどこにでもあった。この花を見ると高山の秋を感じる。そのほかの花は、イワツメクサ、エゾシオガマ、ウメバチソウ、ミヤマアキノキリンソウ、ミヤマホツツジ、タカネコウ ゾリナ、クロトウヒレン、タカネヨモギ。わずかに残っているのはコケモモ、ミヤマキンポウゲ、モミジカラマツ、ミヤマカラマツ。南駒を境に、イワツメクサはタカネヅメクサ に代わる。珍しいところで、南駒の先で善さんが見つけた、チョウノスケソウ。もう穂だけになっていたが、咲いていれば花はチングルマとそっくりで花弁の数が多い。もっとも 特徴的なのは葉で、チンの切れ込みの多い葉と違って、チョウは小粒の小判のように横筋の目立つ長楕円形である。

仙涯嶺ピークの手前の岩峰は、独特な形をしている。大きな石のブロックを積み上げて作ったビル群のようだ。大森氏が、仙人が修行のために飛び降りる崖だろう、などと冗談を 飛ばしていたが、さんずいが付いているので仙界の意味かも知れない。仙涯嶺を過ぎる頃には雲海も消え、木曽側も伊奈側も、下界がきれいに見渡せるようになった。伊那側の天 竜川から手前には、家屋が少なく、田畑が多く残っていて、四角い緑のパッチを区切るように道路が走っているのが見える。

仙涯嶺から越百山までは、なだらかな吊り尾根で、緑の植生を縫って、白い花崗岩質の砂 礫の道が延々と延びている。越百山山頂を眼前にして、大休止して軽く食事。天気は良いが西風が依然として強いので、山頂ではのんびり休憩できそうもなかったからだが、疲れ もピークに達していた。ここまでの緩い登りで、あまりに苦しいので呼吸法を変えてみた。呼気を二度に分けて深く吸うようにしたのだ。これが効果をそうしたか、その後少し調 子が戻った。善さんも、そろそろ体調が山モードに切り替わったと言っていた。

木曽殿越小屋を出発以来問題になっていたのは、今日、越百小屋で泊まるべきか否かとい うことだ。早朝立ちだったから、小屋へは昼には着く。大森氏は、時間をもてあますよりは本日中に下山しと…………その先の欲張った計画を目論んでいる。ぼくは越百小屋避難 小屋素泊まりを主張する。小屋止まりは昨夜で懲りたが、越百小屋には、横に避難小屋があるので、そこへ泊まれば鬱陶しくなかろう。大森氏は、山では自分を虐めるのが趣味の ようだが、こっちは頑張って12時間も歩くことはイヤだ。それに、ぼくのザックにつめた今晩の食料(味噌漬け牛ブロック、枝豆、バランタイン12年の瓶1本)と善さんのロ ング缶4本は、大森氏の日本酒1升の残りは、消費されることなく中央アルプスの高嶺を周回するのか。さらに、くそ暑い下界へ長駆降りて、ヤブ蚊に悩まされつつ天張ることも なかろうとの思いである。避難小屋の場合は、善さん以外、泊まりの用意はないが、ありたけ着込めばなんとかなるだろう。結局、最後まで互いの主張を引き下げなかったが、越 百山の山頂で、まずは小屋を見て判断しようということになった。大森氏も、小屋の状態によってはと、多少の譲歩を見せたのだ。

越百山でも携帯が通じそうだったので、またチャウに電話をしてみた。ここから高度が下がるので、もう携帯は通じない。電波状態は携帯の表示ほどよくなく、会話が数回途切れ たがなんとは話は通じた。彼女の膝の状態はあまり芳しくないようだ。

越百山からは20分ほどの下りで越百小屋へ着く。越百山から須原へ下る尾根の最初のコルに建てられた小さな小屋で、その横にさらに小さな避難小屋がある。もう、稜線でのよ うな強風はなく、針葉樹樹林に囲まれた狭い裸地をむっとした熱気が包んでいた。まずは、避難小屋を偵察する。入ってすぐの土間にテーブルがあり、周囲に椅子が置いてある。 その奥に6畳ほどの寝場所があり、さらに四畳半ほどの中二階がある。天井は低く息苦しい。

下見を済ませて、利用条件を確認しようと並びの宿泊小屋へ行った。すでに先客が数人いて狭い土間にわだかまっていた。その中の痩せぎすの中年男が、ぼくが近づくのを見て、名古屋訛りで“さっきの三人組じゃないか。知らない間に奴らを抜いてきたんだ”と、聞こえよがしに不躾なことを口走る。われわれが風をよけで縦走路から見えないところで休 んでいるときに、気付かずに抜いて行ったらしい。といってもナップザックほどの軽荷だから、偉そうに言うほどのことではない。彼らに“小屋の方はどなたか”と声を掛けたが、 だれも素知らぬ顔である。土間を通って奥へ声を掛けようとすると、彼の男、“何も焦らんでもいいが。まだ、早いんだけ。”と、またまた不愉快なことを言う。まさに、余計な お節介である。

呼びかけに応じて出てきたオヤジは、まさに山小屋のオヤジであった。しかし、素朴さなど薬にしたくてもない。現在は避難小屋はやっていない。昼は開放しているが、泊まりは 一人2000円。寝具の貸し出しはないという。もう、この返事を聞く前に決まっていたようなものだが、とてもこの小屋へ泊まる気は起きない。この狭い場所に、あの無礼な男 と一晩過ごすなどもってのほか。それに、昨日の木曽殿小屋の混み方と、今日、土曜日に上がってくる登山者の人数を考えると、今夜のこの小屋の混み方は昨夜の比ではない。そ れに、水場もなく天水利用らしい。昨夜のお喋り男も、越百の小屋に7000円払う価値はないと、繰り返し言っていた。

避難小屋で待っていた大森氏に、2000円なりの宿泊料と、くだんの男の態度を説明し、“不愉快だ、下りよう”というと、オジサンの物事の決定要因はそういうところなんだなと笑って応じた。そうなれば長居は無用。この先、40分で「上の水場」がある。そこ で、ビールでも冷やして喉を潤してからゆるゆると下ればよい。大森氏が、斎藤君でもいればビールを冷やしに先行してもらうんだがと、余計なことをいうもので、善さんが“じ ゃあ、ぼくが先に行く”と、さっさと歩き出してしまった。小屋からはしばらく登りとなる。呼吸法を変えたせいで、縦走路ほどは苦しくないが、疲れていることに変わりはない 。とうに姿の見えない善さんを追って、われわれも下山を開始した。予想通り、登山者がどんどん登ってくる。

しばらく下ると沢音とが聞こえてくる。ホーホイのコールのやりとりで、水場が近いことを知る。上の水場は、尾根が一旦平坦になって小さな広場があり、そこから50mほど斜 面を下ったところに見える沢だ。われわれが到着すると、すでに善さんは冷やし終わったビールを二本、日陰のコケの上に置いて、ニコニコしていた。早速、乾杯。この甘露、いわく言い難い。これに匹敵するものといえば、前々回の白山で、南龍ヶ馬場への分岐を前 にして、滔々たる雪解けの清水で冷やしたあのときのビールくらいしかない。大森氏のたっての要望で、もう一本となったが、どうせならと、残りの二本を冷やしに水場に下りた。 この山の水場はどこも水量が豊で気持ちがいい。しかし、ビールとは不思議なもので、あれほど旨くても、ある量を飲むと、まあいいかとなる(後藤さんに関しては知らない)。 結局、あと一本を空け、残りの一本はまた善さんのザックに舞戻った。

さあこそこからが大変。天国のあとの地獄である。ふらつく足を踏みしめつつ、下がってくる目蓋を吊り上げつつの下降となる。ただ、昨日の登りと同様に、傾斜はほどほどだし、 ほとんど針葉樹林の中を通るので、太陽の直射はあまりない。路面もさほど荒れてはいないので、大いに助かった。林道到着は4時少し前、駐車場に戻ったのは、4時半だった。 またまた、おおよそ12時間にならんとする強行軍になってしまった。

大森氏の計画で、すぐに出発して妻籠宿方面へ向かう。妻籠の先にある、あららぎ温泉で汗を流し、近くのキャンプ場か避難小屋で泊まることにする。そして、明日は妻籠宿、馬籠宿の散策だ(これには、善さんもぼくも大賛成。ただし、その前に大森氏の主張する恵 那山登山を断念させる必要があったが)。善さんの運転で、19号をさらに南下し、JR南木曾駅(“なぎそ”と読む。地元のひとに確認したが“みなみきそ”ということはない そうだ)の先でUターン状に左折して太平街道に入り、妻籠宿へ向かった。妻籠宿の先の南木曾温泉郷にあるはずの、あららぎ温泉はなかなか見つからず、街道をいったりきたり したが、やがて道ばたに小さな看板が見つかる。あららぎ温泉は街道のすぐ横にあった。街道を挟んで反対側に、大きなホテルと、悪趣味の高級指向丸出しの日帰り温泉施設があ るので、そちらに目がいってしまったのだ。

やっと見つけたあららぎ温泉で、大森氏が今晩のビールと生鮮食料の調達できる店を訊ねると、妻籠近辺には、酒屋らしきものはあるがスーパーはなく、南木曽駅まで戻らねばな いという。しばし、考えたが、どうしても生野菜と豆腐が食いたいということで、また善さんにご苦労願うことになった。19号を南木曾駅の近くまで戻り、なんだかうらびれた スーパーというか、食品雑貨屋で、旨そうではなかったがトマト、ミョウガ、豆腐などを仕入れ、近くの酒屋でビールを仕入れ、温泉へ戻った。あららぎ温泉は、どちらかというと食堂が目立ち、その横に広い休憩室を持つ温泉が附属 している印象だ。入口は食堂と共通で、レジも共通。レジの下のガラスケースには、地元産の旨そうなトマトを売っていた。後の祭りである。あのスーパーで、この付近のひとは どんな食生活をしているのかと思ったのはとんだ間違い。礼文島と同じで、自給自足で、買い食いするひとなど少ないのだろう。あららぎ温泉は、木曽のど真ん中とあって、浴室 の側壁から流し場、桶と腰掛けまで、すべて木製であった。無臭のアルカリ泉で、少し濁っていてヌメリがある。湯の温度は相当低い。これは、ぼくには助かるが、この温度では 冬場には出られなくなるだろう。

湯上がりでさっぱりしたが、問題は宿泊場所。登山地図の裏には、『南木曾岳』(妻籠はその山麓に位置する)のサブマップがあり、そこへの登山道の周囲にキャンプ場、避難小 屋の記号が見えるが、実態は未知。温泉で訊いても、いってみなければやっているかどうかもわからないという。まずは、登山道へ続く林道を見つけて、キャンプ場の矢印に沿っ て進んだが、その頃にはすでに7時を回り、周囲は暗くなっていた。地図にはテント記号がいくつかあったが、たどり着いたオートキャンプ場は、一個所だけ。相当広いので、地 図には複数の記号が載ったのだろう。料金を訊ねると一台4000円。見渡すと、林内のあちこちで、すでに電気が灯り、食事が始まっている。だがうらびれた雰囲気で、こんな ところで金を払って泊まる気にはなれない。

あるのかないのか分からないが、避難小屋を探すために、林道を奥へ進んだ。この先はキャンプ禁止と看板が出ている。やがて、林道の路面は荒廃として進行をためらう状態にな ったあたりで、左に駐車スペースが見え、デリカのライトで、小さな管理棟のようなものが暗闇に浮かんだ。実は、暗くて見えなかったが、この先にはゲートがあり、そこで行き 止まりだった。この辺りで不安は頂点に達した。いったい、避難小屋などあるのか?。沢音はするので、とうとうここらで強行幕営かと腹を括った。念のためと、管理棟らしきも のをチェックした。窓の横に掛かる表札に何やら墨書されている。闇を透かして読むと、“避難小屋”の文字が読める。あまり小さかったので、避難小屋とは思わなかった。ほっ と安堵の胸をなで下ろす。イメージした避難小屋とは違い、宿泊用途は意図されず、荒天をしのぐためのシェルター的なものだった。朝になって読むと、『南木曾営林署  南木曾岳山麓避難小屋』とあった。横長の建物の両端に出入り口があり、当然、カギはかかっていない。一方の入口から入ると、中央に土間があって、左右に腰掛けの高さの板敷きがあ るが、寝るほどの奥行きはない。それに、一方の板敷きは、小屋の長手の三分の一ほどしかない。板敷き長手に使っても、寝るとなると三人がやっとだが、われわれにはそれで十 分。屋内に蛾が数匹いたが、きちんと使われているらしく、ゴミもなく整頓されている。

長丁場で疲れ果て、温泉には入ったものの、暗闇のテント場探しでうんざりしていた気分も、これで一掃。周囲に人気はなく、小屋はわれわれの独占だ。願ってもない理想的な、 梓向け環境である。先ほどの、天国から地獄とは逆で、地獄の果てに天国を見る思いであった。水場は、駐車場の奥に沢音がしたが、その支流が、林道のすぐ上手で路を横断して流れ込んでいるのを、善さんが素早く見つけた。この支流で水を汲んだが、川底はやはり 花崗岩質の砂だから、旨いに決まっている。さっそく、蚊取り線香を付けて、ランタンを取り出し、宴会準備が開始される。虫は多いと覚悟したが、ほとんど気にならない。今日 のメインは、松坂牛のブロックの味噌漬けである。これを茹でて、ミディアムからレアで喰らう。大森氏の参加する夏山行では、必ずこの茹で牛と枝豆が定番メニューとなる。こ ちらも自分でひねり出した山料理だから、文句のあるはずがない。去年の飯豊の牛は高級すぎて霜降が多く、この調理法には向かなかったが、今回のはぴったりの部位である。茹 でないで、スライスを焙って食っても旨いかもしれないが、それだと、味噌味が濃すぎるか。

ということで、長歩きの疲れと、酒の酔いに身を任せつつ、今日の山道の苦しさや、理想的な小屋の見つかった幸運などを話し合いつつ、南木曾山麓の静かな夜は過ぎていったのでありました。

2003年8月24日 日曜日

晴れ。

早朝から表が騒々しいと思ったら、善さん、大森氏の話では、年配の団体が30人ほど駐車場に集結し、準備体操をして出発していったという(帰る途中に、林道脇に千葉のバ スが止めてあったが…だとすると、このようなローカルな山へ何たる執念か)。避難小屋というからには、深夜、早朝の出入りがうるさいか、などという懸念は当たらず、にぎわ いはそれだけ。あとは、通過する登山者をちらほらと見かけるばかりだった。

残りのビールで目覚めの乾杯をし、味噌の残りと豆腐でみそ汁を作り、ミョウガを散らした朝食を簡単に済ませる。小屋の入り口に募金箱があったので、大森氏に共通費から50 0円を投函してもらう。まずぼくの運転で出発。林道を下って太平街道へ出て、妻籠集落の最初の駐車場に車を置き、妻籠宿を見学。さらに、デリカで山越えをして馬籠宿を散策 する。両方の宿を比較すると、妻籠の方がはるかに史跡としての保存状態、というか、復元状態が良い。前者は極力、昔の業態をそのまま再現しようとしているが、馬籠は町並みが擬古態というだけで、営業内容は普通の観光ショップである。大森氏は再訪だが、善さ んとぼくははじめてなので、ずいぶん楽しかった。妻籠は緩やかな坂に沿って町並みがあったが、馬籠の方は、なんでこんな急坂に宿場町ができるかと思うほど急だった。

どちらにも、枡形といって街路を直角に二度曲げ、外敵の侵入を妨げる仕組みがある。ぼくは五平餅なるものを、善さんはいも焼き餅(里芋が入っているという)を食し、二人で 一本の缶ビール(なにせ一人はドライバ)で喉を潤した。大森氏は興味を示さず、共通費の財布を投げてよこし、先へいってしまった。もっとも、餅を焼いている前に、氷を浮か べたビールの桶があったことまで、彼は気付いていない。馬籠宿を出て、すぐ近くの中山道落合の石畳を訪れる。部分的に残っていた中山道の石畳を補修し、約1キロにわたって 復元したという。本当に昔の石畳という個所を歩いて見た。

今回の最後の目的地は、大森氏の提案で、飯田の「手打ちとんかつ」に決まる。前回、善さん、大森氏、チャウ、ぼくで南ア光岳を目指したとき、帰りに発見した店だ。そのとき は、昼食は済んでいたので寄れなかった。大森氏はよほど“手打ち”が気に掛かっていたらしく、確認してみたいという。19号へ出て中津川から中央高速へ乗り、飯田へ向かう。 くだんの店は、飯田インターから右折してアップルロードに入り、飯田の中心街へ向かって2キロほど進むと、左側にある。正確には『手打ちとんかつ 志瑞(しみず)』とい う。さっそく、ロースカツの定食を頼み、若いウエイトレスに手打ちの由来を訊いた。珍しくきちんとした話し方で丁寧に説明してくれたが(接客マナーは合格)、判然としなか った。ようは、下ごしらえに手間をかけている、ほどの意味らしい。それなら、“手打ちは”おかしかろうと思うが。ま、いっか。とんかつとしては、水準よりやや上。衣も肉質 も良いが、ロースというのに脂を削ぎすぎる。わざわざ訪ねる店ではないが、通りがかりならお薦めという評価に一致し、梓データベースへ登録することになった。

あとは善さんの運転で中央道を戻るのみ。中野トンネルから談合坂付近が3車線となったので、笹子の規制とその先の渋滞がなくなったが、その代わりに、小仏先頭の渋滞へと移 行した。その対策のためか、現在、登坂車線を工事中である。長い上り坂が渋滞を引き起こすという判断だろう。それに、都内へ入っても珍しく数カ所の渋滞があった。 東京駅到着は、5時40分。とんかつ屋が12時半の出発だから、結構、渋滞で時間を食った。いすれにしても、今回も無事山行を終了した。

梓夏山山行空木岳・南駒ヶ岳・越百岳縱走記録

今回の山行には、はじめてICレコーダーを持参した。録音した時点の日時がファイル属性として記録されるので、今回の記録は分単位で正確・詳細である。ただ、録音を忘れるこ ともあり、その場合は“??”となっている。

8月22日(金)東京駅丸ビル前 5:35

伊奈川ダム上部駐車場 10:10〜10:16

うさぎ平(登山道入口) 11:54〜12:13

八丁のぞき 12:38

北沢吊橋 13:19〜23

7合目 14:04〜14:22

仙人の泉(水場) 14:35

8合目 15:19〜15:36

旧見晴台 15:56

木曽殿力水(水場) ??〜??

木曽殿小屋着 17:00??

8月23日(土)

木曽殿小屋発 4:57

朝食 5:43〜6:07

空木岳山頂 6:33〜6:43

赤薙山山頂 7:39〜7:58

南駒ヶ岳山頂 8:31〜8:41

仙涯峰 9:46〜10:10

越百岳手前ピーク 11:07〜11:37

越百岳山頂 11:43〜11:52

越百小屋 12:25〜12:35

上の水場 13:34〜13:58

林道 15:43

枝沢 15:58〜16:05

木曽殿・越百分岐 16:27

駐車場到着 16:29

あららぎ温泉入浴 18:24〜??

南木曾岳山麓避難小屋 19:20??

8月22日(日)

避難小屋 7:58

妻籠宿 8:18〜??

馬籠宿 9:52〜10:35

中山道落合の石畳10:45〜10:59

飯田(手打ちとんかつ「志瑞(しみず)」) 11:44〜12:31

東京駅帰着 17:10


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