道草Web

梓ひだまり 佐久、北八ッ 還暦山行

梓編年

2003年11月22日 土曜日

晴れ。

目覚ましが鳴らず、8時に目醒め慌てて出発の準備。

外環下の国道が混んで南浦和は9時少し過ぎに到着。すでに冨山、後藤、中村は待っていた。全員が乗り込んで出発すると、すぐに携帯が入り、東葛組(カメ車オデッセイ 鈴木、大森、高橋、客員八重樫)はすでに外環大泉手前のトンネルへかかっているとのこと。こちらも外環下国道へ戻り戸田西ICから外環へ乗るが、ここからすでに渋滞に巻き込まれる。大森氏の 奥の手で、左端の走行車線を走って大泉で一旦川越街道まで出て、Uターンして関越へ乗り込む。30分ほど遅れて、三芳SAで東葛組と合流。横川SAで昼食。佐久ICで高速を降りる。佐久盆地(佐久平)を緩やかに下り、新幹線佐久平駅を経て望月町を目指す。車中からの展望から推して、目指す望月町は、蓼科山北方に展開する長い裾野に位置 する。善さんと話したのだが、望月町布施地区にある川喜多山荘は、裾野の起伏の中に抱かれているようだ。翌日の北八ッ池巡りでわかったが、望月町の境界は、北八ッの稜線にまで達していた。

山荘に着いて室内を掃除し(おびただしい数のカマドウマの死骸や半死半生の個体が室内に散乱していた)、家具を配置する。そのまま宴会に突入するのを避けたい大森氏の提案で、この近くを通る中山道の旧跡を訪ねる ことになった。望月町の中心である望月宿跡を通り、茂田井、芦田、笠取峠などを探索する。なかでも茂田井は、印象的だった。変哲もない田舎の風景を走って、両側を塀に囲まれたやけに狭い径の突き当たりを左折すると、突如、数十年を遡行したような町並みが現れる。茂田井は、茂田井宿とはいわず茂田井間(もたいあい)という。正式の宿場と宿場の間(あい)にある中継地ということらしいが、歴史的な景観は近隣の正規の宿場よりよく保存されている。坂道に沿った古い町並みに大澤酒造、武重本店酒造などの旧家が点在する。そのなかの大澤酒造が無料で開放している絵画館、民俗資料館などを見学した。絵画館は素人の域を出ない絵ばかりだったが、民俗資料館は面白かった。観世左近の監修したという謡曲百番の謡本があり興味をそそられたが、それにしてはあまりに 墨痕が稚拙だ。左近という名前は観世宗家に多い名前で、現在は世阿弥元清以来二十六代を経て観世清和が当主だが、その先代も先々代も左近だった。監修したのは、何代目の左近か書いてなかった。実は、『望月』という敵討ちをテーマにした能があって、前回のソバ援農のときから気になっていた。あとで調べてみたら、関係があった。この能自体の舞台は近江の国となっているが、敵役が望月某といい、この望月町の町名の由来である望月一族の一員と想定されているのだった。

資料館に車を置かせてもらい街路を散策する。古い町並みに斜陽が射し込み、われわれ以外に人影も少ない。思わず“返照は閭港に入り、憂い来たりて誰と共にか語らん、古道行く人まれに、秋風禾黍を動かす“などど嘯く。

返照入閭港/憂來誰共語/古道小人行/秋風動禾黍

村里(閭港 りょこう)に夕日(返照 はんじょう)が差し込み、街路を行く人も少ないく、背の高い草(禾黍 かしょ→粟などのイネ科の植物)が秋風にそよいでいる。思わずさみしくなって誰かと話したくなった。

旧中山道の探索を終え、スーパーで宴会の食料をどっさり仕入れて4時頃に山荘へ戻る。あとはひたすら宴会を目指して調理が始まる。コースは大森氏の刺身に始まり、後藤さんの煮豚や小料理の数々、チャウの天ぷら、そして、今回にメインディッシュである、八重樫氏の手打ちソバである。八重樫氏のソバの腕は、前回のらくだ坂花見で先刻保証済みである。茹で上がったソバは、巷のソバ屋では経験 したことのない、しなやかで滑らかな食感がある。食後にほのかな品のよい甘みを感じたのは、新ソバのせいなのか、ソバ打ちの腕の冴えなのか。ソバ音痴のOJとしては多弁は弄さないが、ソバつゆが文句なく旨かったので、日頃飲んだこともないソバ湯をお代わりしてしまった。

2003年11月23日 日曜日

快晴。やや北風。 北八ッ池巡り。

今日はどこへ行くべきか、大森氏と後藤さんで相談の末、北八ッ池巡りと決まった。途中、コンビニで昼食のおにぎりとサンドイッチを仕込み、長門牧場へ寄って搾りたてもミルクを飲んだり、昼用の摘みとして牧場製のゴーダチーズやサラミソーセージを買って、女神湖、夢の平林道を経て大河原峠を目指す。

11時前に大河原峠へ到着。コースは前半はほとんど下りのみで楽ではあるが、同じ所へ戻るのであれば後半は上りになるのだから、さして喜ばしいことではない。この季節で標高が2000m近いとなると、天気は良いとはいえ寒風は体温を奪い、とても日だまりの雰囲気ではない。来たことを少々後悔する。霜枯れた草地に点在する水たまりには、晴天の昼近くだというのに厚い氷が張っていた。道はだらだらと南へ下り、天祥寺原(善さんがチーをしたら善ション寺原と名付けようと思ったが、そうはならなかった)から東へ転じて、夕日の丘と北横岳の間の谷間を上り返す。その谷間の日当たりのよい草原で一本立てる。早くも宴会の気が満ちてきたが、そこは大森リーダーがぐっと睨みを利かせて手綱を引き締め亀甲池へと向かう。亀甲池から双子池の間は、暗い針葉樹林を縫う山道で、近頃、家の周辺ではあまり見かけなくなった霜柱が多く見られた。なかでも、双子池直前の崖一面を覆った霜柱は長く成長して見事なものだった。そこでまた、“白髪三千丈、愁いによりてかくの如く長し、知らず明鏡のうち、何処より秋霜を得たる(白髪三千丈/縁愁以箇長/不知明鏡裏/何処得秋霜)”なん ぞとブツブツ言ってみる。

双子池は、その名前の通り雄池と雌池があり、手前が雌池である。雌池の縁に格好の宴会場があり、そこにするかと一旦決まりかけたが、突如寒風が吹き下ろしてくると、やはり雄池の畔の双子池ヒュッテまで行ってみようということになった。これは絶正解であって、小屋の前は、風の凪いだ日だまりとなって絶好の宴会場だった。ここでビール数本と赤ワイン3本を空け穏やかな昼食となった。双子ヒュッテからは、双子岳へ向かってひたすら上りになるが、ほろ酔いにほどほどの斜度で何ということもなく過ぎる。双子岳の山頂はなだらかな起伏の草原状で、遙かに北アが望まれる。鹿島槍から白馬へかけて、真っ白な連嶺を指呼し、あれは何岳、これは何山とやっていたが、なかなか意見が集約しない。チャウ曰く、“いつまでたっても、山ってわかんないもんなのね”。ははは、これは参った。

大河原峠からは、蓼科仙境都市とかいう荒廃としたリゾートを縫って、鹿曲川林道を下る。あとで調べると、この鹿曲川(かくまがわ)というのは、望月の町を抜けて千曲川へそそいでいた。林道は急速に高度を下げたちまち春日温泉へ着く。春日温泉には温泉宿は多数あるようだったが、町立の湯沢荘で汗を流す。単純アルカリ泉でくせがなく、流しの温湯まで温泉だった。湯量が豊富なのだろう。

夕食の材料は、前日の残りがたっぷりあるので特に追加しない。途中の酒屋によってビールを補給し、明日の朝食のチャーハン用の卵(なんと一個50円)を買って、山荘へ戻る。

この晩の宴会もメインは八重樫製手打ちソバであった。前夜は、CDの再生をバックに、昔懐かしの小学唱歌が飛び交ったが、今夜は、大森氏のアジテーションが展開された。どうしても高山植物100選を作りたいという。例えば、ネット上である花を、競争入札風にして選抜し、最終的にもっとも優れた 写真を集めて一冊の本にまとめようというのだ。久弥の日本百名山でわかるとおり、“100”というのがミソだと強調する。それには、まず100種をリストアップせよとのご託宣。はて、どうなることやらん。山行の疲れか、それとも酒が少々足りなかったせいか、今夜の宴会は、やや早めに切り上がったが。

2003年11月26日 月曜日

雲の多い晴れ。

天気は昨日ほどではないが晴れ。OJも最近早起きになってきたが、こちらが起きたときにはすでにNHK衛星の朝ドラ観劇が催されていた。昨夜の刺身の残りのズケで 、すでに軽く宴会が並行していたのはいうまでもない。その最中、大きな陰が窓外をよぎったと思ったら、カメちゃんだった。マウンテンバイクで早朝サイクリングをしていたらしい。朝食は、後藤さんのチャーハン。山荘に残しておくはずのビールまで飲み干し、あとでカメちゃんが補給にコンビニへ出かけることになる。

山荘の掃除を済ませ、何処へも寄らずにひたすら帰途を急いぐ。なにしろ三連休の最終日とて、遅くなれば渋滞は必至である。佐久平SAでゴミを始末し、デリカ組と東葛組は別行動とする。荒船・妙義の山塊を貫く長いトンネル群を過ぎると天候は急変して曇天となったが、早立ちのおかげで渋滞はまったくない。所沢手前で、新座料金所の渋滞が1キロの表示を見たが、もう昼時分も過ぎる頃でもあったので、どこかで昼飯をということになり、所沢で下りた。

浦和所沢バイパスで店を物色したが、なぜかソバとうどんの店ばかりが目に付く。ウナギ、とんかつの類はという話から、それでは南浦和の小島屋にしようとなった。携帯で確認すると営業しているという。OJは地元なので、以前に数回行ったことがある。鳩ヶ谷や南浦和はウナギ屋が多いが、そのなかでもこの店がこの辺一帯のウナギ屋の元祖だと称していて、太田窪(だいたくぼ)のウナギ屋といえば、この店のことだ。

実は、以前行ったといっても30年ほども前であてにならないが、味、接客ともにあまりよい印象は残っていない。後藤さんも接待で使って、注文の段取りが違ってどえらい勘定書を突きつけられた経験があるという。真偽のほどは確かめていないが、表の県道から店まで延々数百メートル小径を入るが、そのあたり一帯がすべて小島屋の土地だと聞いている。もっとも、昔の地主ならさほど不思議な話でもない。

店は台地の先端にあり、敷地の周囲を築地塀が取り囲んでいる。車道は、その築地塀に沿って台地の外周を回るように迂回し、行き止まりでUターンするように門をくぐって前庭兼駐車場に入る。台地の前には一段下がって広い田畑が展開している。多分、昔はこのあたり一帯は沼沢地で、そこで取れたウナギを調理したのだろうと思わせる。

小島屋の店構えはほとんど変わらず昔通りだった。この辺りの旧地主の屋敷をそのまま店舗にするとこうなるという印象だ。正面に広い土間があり、右手に調理場、左手に母屋の座敷がある。調理場のさらに右手にテーブル席の別棟もある。庭の手入れや屋内の装飾など、以前より大分洗練されたようだ。今回は空いていたらしく座敷へ通されたが、混んでいると別棟も使われる(値段は同じはず)。

OJが手洗いに席を立っている間にビールと鰻重が注文されたらしいが、ビールを飲み終わらないうちに、もう鰻重が出てきてしまい、あわてて酒を3本頼んだ(OJはドライバーだったので直接関係はないが、実はこれが正解であとで勘定書をみると一合にも満たない酒が一本700円だった。因みにビールは800円)。ウナギは調理に時間がかかるのが普通で、これでは老舗のウナギ屋に来た気分がしない。ウナギは蒸しが浅いのか、江戸風に比べるとやや堅めだったが、ウナギの質は合格。だが、焼き具合は 、焦げ目なし、焦げすぎありとてんでんで、さほどの技術があるようには見えない。鰻重は3600円だから、この店の格式への料金を多少勘案して、まあ値段に見合った品質といっていいだろう。サービスは、手慣れてはいるが上っ調子で情が薄い。一度行ってみる価値のある店だとは思うが、本当に旨いウナギが食いたいなら別の店があるだろう。

冨山さんとチャウと南浦和へ送り、後藤さんを新井宿で下ろして、今回の還暦山行は無事終了した。


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