道草Web

谷中・根津・千駄木探訪

梓編年

2004年2月20日 金曜日

晴れ。静穏。

今日は、後藤さんに計画してもらったやねせん(谷中・根津・千駄木)の探訪である。午前10時半、梓の面々は、鴬谷駅北口にほぼ時間通り集合する。参加は、冨山、後藤、鈴木、金谷、亀村、中村、橋元。例の「ワニさんシュレッダー」の受け渡しで、本日出社の八重樫氏も顔を出す。お天気もよく、風もない絶好の探訪日よりだ。

後藤さんが予備探査を済ませているので大船に乗ったようなものだし、金谷氏も昨日、自転車で踏破済みという。日頃、都心へ向かうときに見慣れてはいるが、櫛比する何とかホテル群の谷間を縫って、まず子規庵へ向かう。途中、中村不折旧宅(書道博物館)なるものをすぎると、そのはす向かいに東京都指定史跡子規庵があった。この近くにあると薄々知ってはいたが、まさかこのホテル街のど真ん中とは意想外。子規の句はほとんど知らないが、彼が晩年を過ごした、その凄絶な生き様(あまり好きな言葉ではないが、子規の場合はふさわしい)はつとに有名である。しかし、鴬谷からここまでくる途次、子規庵は関東大震災と戦災で2度も焼失・復元されたと後藤さんから聞いたので、あまり感興は湧かない。表からざっと眺めただけで金を払ってまで入って見る気にはならなかった。はるけくなるかな“根岸のさとの侘び住まい”であった。その並びに、コンポスト色のモダンな和風作りの三平堂がある。美術館かと見まごうばかりで、あの落語家の印象にはまったくそぐわない。まして入場料600円なぞは論外。

周囲のビルに睥睨されて、まるで谷底を這っているような狭い路地から抜けだし、羽二重団子前の善性寺へ。ここには、石橋湛山と双葉山の墓がある。双葉山の本名は穐吉定次だそうだ。両方ともに大きな墓だった。この寺には、(伝)安土桃山時代の不二大黒があり、山谷七福神の第九番札所になっている。大らかな笑顔の大黒さんで、小脇に抱えた小判の山から、景気よく小判をばらまいていた。

なお、羽二重団子の由来が話題になったので調べてみたところ、たしかに、店横の解説どおり羽二重織独特の柔らかさからくるらしいが、この団子とは別に、羽二重餅は福井の発生らしい。和菓子用語に羽二重餅の定義があり、「求肥(ぎゅうひ)を作る時の餅米をよく精製して、水挽きし乾燥させた米粉から作られた餅」とあった。

山手線に沿って日暮里駅まで出て、そこから陸橋を渡って急坂を上がり谷中へ。まず谷中墓地のとばっ口にある護国山天王寺を拝観。ここは整然として、隅々まで気持の行き届いた寺である。本堂の柱はコンクリート製だったが、瓦屋根とのバランスが考えられているし、すでに山門が近代建築然としたデザインなので、明確な設計意図を推し量ることができる。なにより、庭先のちょっとした手洗い盤にまで、真新しい菊の花が浮かべてあるのが心憎い。それと、境内右手にある大仏(後藤さん談、丈六[5m弱]以上を大仏という)は、表情を見ると近頃の作かと思われるが、実は江戸時代からあって、当時の参詣名所であったという。

そこから坂を少し戻って、日暮里駅北側を通る御殿坂へ出て、その途中の長久山本行寺へ。別名月見寺。境内に草木が多く風情のある寺である。山門内に花屋があるのは、よほどお参りの客が多いのだろう。道灌物見塚跡や一茶、山頭火の句碑などがあるが、なんといっても最大の売りはこの寺の場所だ。その名の通り月見には最高だろうと思わせる位置にある。山手の台地と下町の平野を区切る断崖の縁にあるのだ。墓所も崖間際まで迫っているから見晴らし絶好。“死去れば万事もとより空なるを知る”ではあるが、ここの墓なら入ってもいいかと思わせる。一度梓で、ここで月見の宴と洒落てみたいが叶わぬ望みだろうか。かっては、この断崖のしたに高巻く波濤が打ち寄せていたか、などと夢想してみた。

御殿坂の商店街をさらにゆるやかに登ると右手に大黒天経王寺。山名は、日蓮作の大黒天像からの命名らしい。彰義隊をかくまって銃撃されたときのものという弾痕が山門に残っている。あとで調べると大黒にまつわる経王寺というのは、新宿原町にもあり、そちらのほうが有名らしい。経王寺の先で登り坂が終わり根津へ向かっての下りになる。その下りが夕焼けだんだん坂である。本当は、「夕焼けだんだん」で“坂”はつかなかったのではとも思うが。西に向いて展望が開けているからなのだろう、なにやら懐かしくなってしまう坂名ではある。この段々に腰掛けて夕日を眺める子供たちの情景が彷彿とする。

このあたりで、そろそろ腹ごしらえを考える時間だ。坂を降りきったところから急に道幅が狭まって根津銀座ポエムナード商店街の雑踏が始まる。商店街入口にレトロな後藤飴店があり、坂の右手には屋台部落のような一画があるが、今日は催し物がないらしく閑散としている。さらに商店街中程まで進み、左手の「支那麺はしご」に入る。カウンターだけの店は若い夫婦がやっていて、かみさんは如才ないが調理する亭主のほうがいまいちレスポンスが鈍い。このノンビリ加減は、客商売には不利かもしれない。どうやら先達は先刻この店を踏査済みのようで、メニューのお薦めまである。揚げブタ、煮ブタ、餃子などつまみを数品とって軽くビールで喉を湿し、各自好みの麺をたのむ。とりわけどうこういう味ではないが、真面目に料理をしているようだ。

根津銀座を戻って夕焼けだんだん坂を上り返し、右手へ入って朝倉彫塑館へ。今回の探訪では、この建物が一番見応えがあった。入口は、多分家としては裏口になるのだろうが、こちらは洋風のアトリエ謙彫塑塾の教場で、表の玄関側(玄関は閉鎖)は住居区域で純和風だ。さらに、洋風側は鉄筋コンクリートの三階建てで屋上庭園がある。

洋館の大半を占めるアトリエには朝倉文夫の諸作が展示され、早稲田のキャンパスで睨みを利かせている大蔵重信像や、意外に華奢に見える九代目団十郎像があった。一見してロダンどっぷりである。あの時代の彫刻はロダン抜きには考えられないのだろう。アトリエの脇に大きな書斎があり二階までぶっ通しの書架には東西の書籍が集められている。『マイフェアレディー』のヘンリー・ヒギンズ教授の書斎には数歩譲るがなかなかのスケールだ。

住宅中央の中庭の部分はすべて池になっていて大きなコイが群泳している。湧水を利用しているというが、この高台で本当に湧水があったのかと不思議に思った。居住区はその池を回廊式に取り囲んでいる。主人の居間は純和風だが、明らかに中国趣味を思わせる置物やコレクションが多く見られた。三階の広びろとした客間は、眺望の趣は除くにしても、水戸偕楽園好文亭の上階を思い起こさせるものだった。

何度も増改築されて重層的で複雑な構成であるが、ある種のバランスが取れているのはさすがである。温泉旅館の建て増しとは訳が違う。通常、この手の個人宅を改造した博物館もどきは、ひとまわりすればもういいやとなるのだが、ここはなかなか懐が深い。最後にのぞいてみた屋上庭園も、近隣の住宅街にはない三階建ての上で、さらに建家全体が高台にあるとあって、絶景この上もない。梓で宴会をやっていいとなれば、ここにするか、それとも三階の客間にするか、いややはり月見寺がいいかなどと、勝手なことをおもってしまう。

赤穂浪士ゆかりの観音寺、谷中学校(旧谷中初音町二丁目)、都内では珍しい築地塀というか、瓦をコンクリートでサンドにしたようなもの、慈悲観音で知られる狩野芳崖の墓所長安寺などを経て谷中墓地へ戻る。前回荒川線探訪の雑司ヶ谷霊園と並んで、ここも古くからの墓所なので徳川慶喜を筆頭に有名人の墓が多い。そのなかに石原純の墓もある。ちょっとゴシップ風に解説しちゃうと、このひとは東北大で教えていた物理の先生だが、相対性理論の日本で最初の理解者や岩波の理化学事典の編纂者として知られ、アインシュタイン来日のおりには通訳・解説者としてついて歩いたという。昔のひとだと岡本一平のイラストでアインシュタインの平易な解説を書いた本を記憶しているかもしれない。ぼくの大伯父は天文学者だったが、その大伯父の帝大での同期が石原純。その縁で音楽学校(今の芸大)でバイオリンを習っていた大伯母と知り合って結婚した。しかし、純はアララギ派の歌人としても知られた多情なひとで、歌人仲間との大恋愛で家を出て、大学を辞めざるをえなくなったという。その当時としては大スキャンダルで、そのもみ消しだか後始末だか、末弟である祖父が東奔西走したという話を聞いたことがある。要するに大伯母は捨てられちゃったわけである。この大伯母には会ったことがあり、すでに少しぼけてはいたが気丈で怖かった(純が逃げた気持も理解できる)。ぼくが行くと間違えて父の名を呼んで“おお文雄か”といわれたっけ。梓のみんなが面白半分で純の墓を探してくれた。乙4号4側だ。石原の墓は、純の息子の紘が亡くなったときに、一度来ているのだが、そのときは木立が鬱蒼として、木の根に持ち上げられて墓は傾いていた。ああ、いずれこの墓も草木に埋もれてしまうのかと思った。場所はだいたい同じ辺りだったが、以前の記憶と様子がまったく違っていたので、あのあと区画整理でもして建て替えたものらしい。やれやれ脱線が長引いた。

閑話休題

石原の墓のすぐそばに、最後の将軍徳川慶喜の墓がある。塀で囲まれて中へは入れないが、円墳風の立派な墓だった。以前は公開されていなかったように思うが定かではない。午後の寺のハイライトは言問通に面した東叡山浄名院だ。発願の地蔵菩薩像が八万四千体というが、実際には四万体余りらしい。それにしても、おびただしい数のミニ地蔵像がある。一体ずつなんらかの願をかけてこの寺へ寄贈したのだろうか。多くは明治・大正年間の年代を示す彫刻があったが、すでに風化して顔が崩れたり手足がもげたりしている。普通に石を彫ったのなら、これほど痛みは進まないはず。いくら多数を発願したとて粗製濫造はまずかろうの感ぬぐいがたい。

さて、やねせんからは少しはずれるが、これから上野の杜の核心部をかすめることになる。本来この辺りの諸寺の中心を占めるべき寛永寺は広くはあるが、なんだかさびれた印象をぬぐいがたい。境内の傍らに、虫めずる「殿」の寄進した虫塚や乾山の墓碑がうち捨てられたように立っていた。上野公園へ入って、まずは国際子供図書館。これは、旧帝国図書館を改造したもの。たしか、以前芸術新潮で改造後の様子を特集したのを読んだ覚えがあるが、それも大分前だ。リフレッシュされた煉瓦造りの建物全体と、改造後の金属とガラスのエントランスがほどほどの対比をなして心地よい。ここは外見だけ鑑賞し通過する。その並びに黒田記念館がある。いわずもがな、日本洋画界の初代?重鎮、黒田清輝の記念館だ。驚いたことに、ここは無料(耳糞かっぽじってよく聴けこぶ平!)。誰しも見覚えのある「湖畔」や、初期の印象派の影響が歴然とする作品が多いが、「智・感・情」の裸婦図は圧倒された。その大きさだけではない、日本的な骨格と肉付きと、それにしてはやや長すぎるかの脚、その量感ある輪郭を際立たせるわずかな金箔の輝き。そして、中央に正面を向いた“感?”の女の射すくめるようなまなざしの強さ。とても明治時代の男が描いた女とは思えない。ちょっと、ときめいてしまった。そう思って、清輝の紹介文を読み直すと、薩摩っぽにしては珍しく相当リベラルなひとだったらしい。なにか当時の女性のステータスについて感じるところがあったのだろうか。

そろそろ書き疲れてきた。先を急ごう。

今日からはじまるという芸大の卒展だったが、近づいただけで雑踏が予想され、ここはやりすごすことになった。ここらから、名前は意気込んでいるがせせこましいLa Rue des Art(ラ・リュー・デ・サール 芸術の小径?)を抜けて、また言問通りへ戻り吉田屋本店へ。吉田屋は本屋でなく酒屋であるとの冗談が飛ぶ。ここは以前も何度か来ているので適当にやりすごし、その横の喫茶店「かばや珈琲」で休憩する。われわれが学生のころの喫茶店の風情。店の雰囲気に相応のオバサンが二人で、ほとんど予想通りのコーヒーを出してくれた。

ここで、昨夜から鴬谷に置きっぱなしの自転車を取りにもどる金谷氏と分かれて、谷中の寺巡りを続ける。この谷中というところは寺町だったのだろうが、それにしてもおびただしい数の寺がある。寺とか墓というものは、生産性に一切関与しないわけだから、あらためて江戸時代の都心近傍に、よくもこれだけ非生産的な領域が存在し得たものだと思う。カメちゃんも、これなら仙台の寺町とあまり変わらないとつぶやいていた。鴎外の小説になった渋江抽斎の墓のある感應寺、川口松太郎の愛染かつらにヒントを与えた愛染明王像のあるという新義真言宗自性寺(こちらはカツラでなくクスノキ製というが、一昨年の山田温泉の帰りの別所温泉にも同じような由来を掲げた寺があったが?)、神田上水の掘削を指揮した大久保主水(もんと)の墓があり、全国潮師法縁本部とかのある慈雲山瑞輪寺(潮師はそのときも何の意味かと話になったが、ネットで検索すると日蓮宗関係のページでよく使われている。潮はもしかして人名、師は尊称で、このひとの法縁に繋がる宗内一派のことか?)、山岡鉄舟の建立になり自らの墓と三遊亭円朝、弘田龍太郎の墓のある全生庵(ここは後藤さんのお気に入りだが、東が丘で西が開け、こぢんまりと居心地?の良さそうな墓所が本堂の奥に広がっていた。ここで催される円朝忌法要は盛大らしい)、笠森おせんの墓と菊祭りで有名な日蓮宗大圓寺。…………もう有名人も寺もお腹いっぱい。

寺社巡りの最後は、不忍通りを横切って根津神社で止めを刺す。都内としては大規模な神社で、朱塗りの建物の相当部分が重文となっている。内垣の外には重文、内には重々しく旧字で國宝と掲示があってどっちが本当か議論になったが、冨山重鎮のご託宣で、国宝とあるのは旧文化財法?による指定であろうとの結論に達した。この境内は西側が丘になっているが、そこにツツジの群落があり、その麓に多数の朱の鳥居を連ねた乙女稲荷がある。鳥居の列の途中に六代将軍家宣の胎盤を埋めた塚があった。この神社自体は大和武尊の創祀との由緒があるという。もともとあった千駄木から現在の地に、現在の規模で造営し寄進したのは五代綱吉。彼には嫡子がなく、養子家宣が世継ぎに定まったのを祝って、家宣の屋敷跡を奉納したのだという。だから胎盤塚があるわけだ。ここで自転車を取りに行った金谷氏と合流。

やねせん探訪ランドマークの最後は、弥生町のお化け階段で、東大のすぐ裏にあたる。段数を数えると、上りは40段、下りは39段で不思議だというのだ。みんなで段数を数えて、わいわいやっていたが、結局どうなったんだっけ?。うやむやになるからお化け階段か。それはともかく、この辺りは23区内でも有数の静閑地ではないかと思われる。都会の隠れ家なんて持てる身分ならば、このあたりがよろしかろう。

お化け階段から弥生町の裾をかすめて不忍通りへ戻り不忍の池へかかるあたりで、動物園から蛍の光が流れてきた。ひずんで大きすぎる音で気分は出ないが、今回の探訪の最後にふさわしい。不忍池の中島の弁天さまはすでに閉扉、本来なら最後に予定していた下町風俗資料館も閉館だった。たとえ開いていても、もう疲れて見る気は失せている。あとは、最後の宴会へ突入するのみだ。ここまでの費用は後藤さんがすべて立て替えていたので、ではここでさようならなどと冗談が飛び交ったが、帰るものなどいないのは、いうまでもない。

とくにあてもないので、ネットで調べた御徒町吉池の直営する飲み屋「池田屋」へ。だれもいったことのない店であったが、御徒町の駅の直近であるというのに、なかなかよい店だった。なにはともあれの生ビールで乾杯し、〆張り鶴本醸造を一升ビンでたのみ、宴会に突入する。カメちゃんによれば、かって百貨店と自称して馬鹿にされたという吉池だが、近頃は魚の専門店に転進しらしい。その直営店だからと期待して注文した青魚刺身盛り合わせは合格だった。量が少なかったのでお代わりをしたほど。酒、ビールともに(たのまなかったが洋酒なども)品揃えが豊富で、他の肴も好感のもてるレベルに達していた。

一升を空けて、さてそのまま居座るか場所を変えるかとなったが、次はそばにしょうとの結論に至る。池之端薮はとうに閉まっているから、上野の薮にする。JRを挟んでアメ横の反対側にあり、神田の薮、池之端の薮など、名だたる薮の陰に隠れているがまともな店である。そば音痴ではあるが、八重樫氏のそばを食して以来、そばの評価基準が変わってしまったので、普通の店では細々というまい。この時分になると、つまみがなんだったか憶えていない。板ワサや卵焼きを食べたような気もするが。

で、それでもおさまらず、仕事を取りに神保町へ行くという金谷氏と別れ(ここだったよね)、〆の水割りとなって、上野駅へなだれ込む。水割りというよりビヤホールのような店へ入り、たしか最後の仕上げはギネスのスタウトであったよな。ではそろそろ、このへんでお開き。お疲れ様でした。

なお次回探訪は、鶴見総持寺から中華街、あるいは中華街から三渓園などを後藤さんにお願いしましたが、いかなることになりましょうや。お楽しみに。


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