道草Web

八甲田春スキー2004

梓編年

2004年4月28日 水曜日

明るい曇り。

東京駅9時半発、夜行バス。鈴木、中村、橋元

後藤さんとカメちゃんは、明朝仙台発で現地合流の予定。

バスは途中下車なしで青森まで。いままでは夜行列車で行っていたが、最盛期はこの時期5、6本はあった夜行列車が、一部新幹線が開通した今では皆無。はじめての青森行き夜行バスとなった。考えれば夜行列車に途中下車はないとはいえ、停車はしても下車できないのは閉塞感をぬぐえない。

2004年4月29日 木曜日

快晴。

青森駅前に7時前に到着。以前よく朝食をとっていた埼玉屋はまだ開いていなかったので、いまはビルの地下にもぐってしまった駅前市場の食堂で朝食。昔は6時には市場は(したがって埼玉屋も)全開していたのだが、近頃遅くなって9時近くならないと開かない店もある。埼玉屋は、いわゆる観光名店で昔から有名なのだが酒類を置いていない(持ち込みは可)。市場には食堂がいくつもあり、どれも大した差はない。

これまでの経験で、買い物の時間を3時間は見ていたのだが、最近は魚はあそこ、野菜はここと、迷うこともないので、2時間もかからず終わってしまった。酸ヶ湯に連絡し、送迎バスの予約を早めて10時に変更した。チャウがチェックインのとき来年の予約をしていたが、恒例の207室は今年もとれなかったという。今年の部屋は217号。以前、ガイドが使っていた8畳間だ。水場やトイレは近いが沢の流れる狭い中庭に面していて景色は見えず、見えるのは他の建家のみ。

早速、宅急便で送っておいた炊事用具を取り出して配置する。ちょっとした引っ越しである。天気は快晴だし、午後から出ようと思えば出られたが、善さんもどちらでもいいというので、適当に摘みを作って軽く一杯。

後藤さん、亀ちゃんは、枝垂れ桜の角館や八重桜の弘前城を観てくるというので夜になるだろうと思っていたが、予想外におもったよりはやく到着。

初日の夜はだいたいメニューは決まっていて、工藤のホタテと田中の生きじめのヒラメの刺身。それと、シドケ(ヤブレガサ)、ホンナ(ヨブスマソウ)、アイコ(ミヤマイラクサ)などの山菜がメインとなる。ことしはアイコがなくて、コゴミとハナワサビなど。ハナワサビは八百屋のおまけで、最初から期待はしなかったが予想どおりであった。魚類は文句ないが、今年は気候のせいか山菜がぱっとしなかった。

2004年4月30日 金曜日

曇り、やや風あり。

北八甲田ルート図西

北八甲田ルート図東

後藤さんは登山、残りはスキーだ。今日の予定は、赤倉大斜面から箒場。後藤さんは北八甲田の主陵(田茂萢岳→赤倉岳→井戸岳→八甲田大岳→地獄沢→酸ヶ湯)を縦走して酸ヶ湯へ戻る。

まず酸ヶ湯から10分ほどバスで下ったところにある八甲田ロープウエイへ向かう。このロープで田茂萢岳の山頂まで上がる。本当は、駅から少し登ったところが山頂だ。ここで後藤さんとスキー隊は別行動となる。山頂からはわずかだが滑降があって、そこから板をザックに付けて登高となる。ところが降りきったところで、カメちゃんがナップサックだったことに気付く。これでは板は着かない。シュリンゲとビナを出してああでもないこうでもないといっているうちに、後藤さんが追いついてきた。あとは登りなので、以降は同道となる。

後藤さんも装備は軽装、それに最近は身体も軽装となったので快調に行程をこなす。ほとんど休憩なして赤倉岳山頂を通過し大井戸沢のコルへ到着。ここは広い雪原となっていて、そのまま東へ下ると大井戸沢に沿って箒場へ下るが、本来の箒場岱ルートは少し北へ戻った地点からスタートし広大な急斜面を自由に滑ることができる。今回は、4人とも足慣らしはほとんどできていないので、大井戸沢を下ることにする。こちらは斜度が緩く下部で箒場岱ルートと交差する。ルート図では、黄色の箒場岱ルートの南に見えるグレーの名のないルートだ。

ここから先は、完全に別ルートとなるので後藤さんと分かれる。予想はしていたが、数日前の新雪が残っていて状態は悪い。この時期の新雪は、気温があがると滑りにくくなり、非常に曲げにくく膝を痛めることがある。新雪と旧雪の入り交じった斜面では、新雪部分に入ると急ブレーキがかかり危険でもある。ワーとかギャーとか叫びながらも慎重に下り、やがて本来の箒場岱ルートと交差して、そのまま滑降を続ける。われわれのルートは、箒場岱へは降りるが正規の箒場岱ルートとは異なる。後者は無難なルート取り(つまり、間違えにくい)ではあるが、滑降に良いとはいえない。これは、いまや超有名人になってしまった三浦敬三さんが設定したルートだ。ご当人から直接うかがったことだが、八甲田のスキールートの標識は敬三さんの指導で敷設されたという。

思い出話をすると、池田さん夫妻に誘われてぼくがはじめて八甲田へ来たのは多分1979年だ。そのころは、敬三さんの名前はスキーの世界ではすでに通っていたが、お歳はとうに七十を越えていたから現役というわけにはいかなかった。若手のバリバリのスキーヤーからはどちらかといえば敬遠されていた。丁度手頃な相手がわれわれで、敬三さんの部屋へ挨拶にうかがったり、敬三さんもわれらの部屋で時間をつぶされるような時期もあった。敬三さんはまったくの下戸で、体質が合わないので温泉も身体を拭くていど。ただ、甘いものは好きだから、ぼくが持参していた自作のイチゴのプリザーブをぺろりと一ビン平らげられたこともあった。チャウも、敬三さんが風邪を引いたときに、カツミソ(中村家では風邪の治療にこれを食すという)を作って部屋に届けて喜ばれたこともある。

その当時でもすでに急斜面は滑らなかったが地形には精通していたから、ガイドにないバリエーションルートを同行しながら教えてもらった。普通のひとはいかないルートがほとんどだからステップはない。敬三さんにとっては、どんな斜面でも多少の新雪でも、池田さんとぼくが先行してステップを切るので便利だったのだろう。そのときの知識はいまでも生きている。添付の地図に小さな手書きの字が見えるだろうが、それは敬三さんにルートをたずねたときにご自分で書かれたものだ。

ときにはドイツの大統領の甥や青森の開業医なども一緒だったことがある。前者は寡黙な人だったが(といっても互いにしゃべれないせいかもしれない)、後者はやたらに音高く唾を吐くので、ガガペッペのあだ名をつけた。それに南八甲田の山中で青森スキー(ブルーモリス)の社長に遭遇しことがある。そのとき、相手がスキーウエアのポケットから名刺を出して挨拶したのにはあきれてしまった。もちろん敬三さんはスキーに名刺など持参しない。このひとをわれわれはモッキンポット師と呼んでいた。人物録のついでに、エゾ禿げについても触れねばなるまい。この男、敬三さんの甥だとかだが、厳つい顔で髭が濃く、つるっ禿げで北海道出身なので、このあだ名になった。多少、そちらの気があるらしく、風体に似合わぬたおやかな身のこなしで、浴衣の襟を合わせながら横座りなどされると、背中がザワついたものである。

閑話休題

箒場岱ルートを横切って、赤倉大斜面の下部まで滑り、そこで昼食。これはわれらがお定まりのランチスポットである。去年は、沢を隔てて、このすぐ横までミッキーマウス雪崩のデブリが来ていた。ビール、ワインを空け、みそ汁に八甲田ムスビを食す。八甲田ムスビは、行動昼食の定番で、池田さんの発案である。昨日のおかずの残りをすべて放り込んで、醤油と七味で味付けした、まあチャーハンのようなものをムスビにしてノリで巻き、アルミホイルでくるんだものだ。今回は池田さんがいないので、ぼくが作ったので雰囲気は大分違ってしまったが、まあお許されませ。

食後は、そのまま斜面って箒場岱へ下る予定だったが、まだ時間はあるし、膝を痛めているチャウも大丈夫そうだというので予定を変更した。方向を反転して小岳へ登り、石倉岳・硫黄岳のコルを乗っ越して酸ヶ湯まで滑って帰ることにした。このルートは、以前敬三さんと歩いたときの記憶を頼りに、地図を眺めながら勝手に設定してものだが、以前にも池田、チャウ、去年は大森、チャウとも行っている好きなルートだ。ルートとはいっても、そのときの気分でどうにでもなり、地形を眺めながらアドリブに近いコース取りだ。まあ、それが八甲田の雪の大斜面を楽しむ醍醐味といえようか。

まず大岳から東へ張り出すプラトー(溶岩台地)へ登り返す。この登りは雪面の急登で、われわれは何度も登っているが、カメちゃんや善さんはしばらくこれを直登するとは思ってもみなかったようだ。プラトーへ出てそれを横断し、大岳・井戸岳のコルから流下する沢(今ははるか雪の下)を越えて小岳の頂上まで登る。小岳頂上には、酸ヶ湯のツアーとおぼりき団体が休んでいた。小岳大斜面の出だしは板がなければ滑落するほどの急斜面で、かなずベルクシュルンドが口を空けているが、今年は予想外に小さなものだった。ここは、カメちゃん、相当緊張したはずである。普通、この斜面は猿倉方向へ向かって南下するが、それをやや西にとって小岳の稜線を石倉岳方向へ滑降する。急斜面をやりすごすと、ほどほどの斜度の長い斜面を滑降できる。ここの雪質は赤倉よりややましだった。同じように雪が降っても、八甲田は斜面によって雪質の良し悪しが大きく違う。稜線の途中から小岳山腹の樹林帯を巻くようにトラバースすると、眼前に石倉岳から硫黄岳へ向かってせり上がる稜線が見える。この稜線は、後藤さんが踏破しているはずの八甲田大岳へ連なっている。斜度の緩んだところで板を外して、石倉・硫黄間のコルのなるべく硫黄寄りの稜線を目指して登高する。

この稜線まで出てしまえば、あとは硫黄岳山腹の樹林帯を巻ながら地獄沢(大岳と小岳の間から硫黄岳に沿って流下する沢で、後藤さんがすでに下っているはずのルート)へ出ればよい。ただし、この巻は、うまくコースをとらないと途中で雪解けで出てきた薮で行く手をはばまれてしまう。五目並べのようなコース取りの難しさがある。地獄沢へ出れば、あとは通常の大岳循環コースへ合流し、酸ヶ湯までだらだらとスキーで下るだけだ。はじめてであれば、楽しい樹林帯散歩となる。最後は、鳥居があって、雪が少ないときは日本全山縱走路出発点の標識が見える。

部屋へ戻ると、すでに後藤さんが帰っていてビールで乾杯。目出度く本日の山行終了である。

2004年5月1日 土曜日

快晴、静穏。

後藤さんは休養。今日は天気が上々なので、高田大岳を目指す。この大斜面は、高度差といい斜度といい八甲田で最高のバーンである。

赤倉岳までは昨日と同じだ。ただ、田茂萢岳の下りで雪質は昨日より相当良くなっていることが感じられた。天気は快晴無風だが気温が昨日より低いからだろう。今日は、昨日は回避した赤倉岳大斜面を滑降する。今日は期待通り素晴らしい雪質で、みな快哉をあげて滑る。そのまま滑ると昨日と同じ登り返しになってしまうので、途中から小岳方向へトラバース気味に滑降する。昨日、下部から横断したプラトーを、今日は上から滑り降りる。プラトーの小岳側の、大岳・井戸岳のコルから流下する沢の手前で昼食。

昼食後は、小岳・高田大岳の稜線に沿った斜面をトラバースして高田下部まで滑る。適当なところで板を脱ぎ、雪面をステップを切って登る。高田の登りは八甲田で一番きつい。今日は、高田大岳にツアーが数組入っているようで、途中からそのステップを利用したので楽だった。それに、樹林帯の薮こぎもいつもになく簡単に終わった。薮こぎといっても、普通の夏道とおぼしきあたりをたどるのだが、その上に積雪が数メートルあるので、周囲のオオシラビソの樹冠をくぐることになるのだ。上部では夏道が出ているが、この出口を間違えると、ハイマツの密生を下からよじる最悪の薮こぎになる。

樹林帯の手前で団体を抜き、そのまま高田頂上の社を越えて滑降開始点へ下る。普通は、社の辺りから見下ろしてもハイマツの海しか見えない。雪面は下りの山道の左側数メートルのところにあるが、ハイマツの陰に隠れている。はじめてだと、どこから滑っていいのかわからず、そのまま山道を下って、雪面へ出たときは斜面の三分の一も降りてしまうことがある。いつもなら、山道を下りながら左へ分岐する何本かの踏み跡のどれを選ぶか経験を要するのだが、今年は山頂から雪面がわずかに覗いているくらいだから、最初の踏み跡をとればよい。この踏み跡の選択を間違えてもやはりハイマツの薮こぎとなるのだ。

今年はすんなり開始点の雪面へ出て、一休みする。開始点は数人でいっぱいになるほど狭い斜面で、背後はハイマツに囲まれているが、眼下には南八甲田の山並みが遠望できる。高田の大斜面は、ここから巨大な三角布を拡げたように国道まで展開している。しかし、出だしの少し先で急に斜度が増すので、斜面の全容は休んでいる場所からは見えない。先行する団体はもう出発していて誰もいないが、彼らが滑ったあとだから雪面は相当荒れている。

ここでチャウのザックから、モモの缶詰が取り出された。地上ではモモ缶など食べないが、行動中の疲れた身体は絶対の美味である。そうこうするうちに、途中で抜いた団体の先発が薮の彼方に姿を現したので、早速滑降を開始。大勢が滑って真新しい雪が掘り起こされている。気温は低いので、雪は硬くて滑りは早い。自分が思っているより早く板が抜けてしまう。そのため、善さんは出だしで大分苦労したようだ。数年前まで、ここはノンストップで降りたが、流石にもうできない。できなくはないが、怪我が頭をよぎってしまう。それでも、ほどほどの部類に入る雪質で快適に滑降した。斜面を四分の一ほど残して、あとは高田の山腹を巻いて猿倉温泉へ下る。このあたりは樹林がまばらで、広く空いた木立の間を好きなコースで滑ることができる。ルートの後半は、小岳斜面の下降ルートに合流して猿倉温泉のバス停へ出る。バスの出発までは小1時間あったので、ビールを買いに猿倉温泉まで行く。バス停から温泉は下りで500メートルほどあり、スキー靴で往復はしんどいが、時間つぶしに丁度よかろう。残念ながらアサヒであった。

ビールを飲みながら、いま滑ってきた高田の大斜面を見上げるのは爽快である。近頃はさして感動もないが、昔はよくもあそこを滑り降りられたものだと感動しきりだった。いま、善さんやカメちゃんも同じような感慨を抱いているだろう。

2004年5月2日 土曜日

晴れ、初日ほどではないが、やや風がある。

今日は、後藤さんカメちゃんは仙台へ帰る。カメちゃんに八甲田ロープウエイまで送ってもらう。今年のロープはけっこう混んでいる。スキー最盛期は1時間待ちなどはざらであったが、昨年はなぞはほとんど待った覚えがなかった。今年は、二〜三台は待つ。まさか今年からロープウエイの車輌が新しくなったせいでもなかろう。今日は、初日に行くはずだった箒場岱ルートとする。赤倉岳の手前のピークを目指して登っているときに、前方にものすごい人数の団体がいていて、これはいったいどこのツアーかといぶかっていたが、どうやら「三浦敬三さんと滑る何とやら」であった。肝腎の敬三さんの姿はなかったが、これでは敬三さんは息子のスキースクールのひとよせパンダである。あれだけメディアに露出すればこうなるよ、とはチャウの弁。

赤倉岳の大斜面を同じに滑っても変哲ないので、少し北によって、昨年のミッキーマウス雪崩の斜面を滑ることにした。そのために、赤倉大斜面の開始点から北へ、つまり、左側へ大きくトラバースする。写真にある虹色の雲はそのときに善さんが撮ったものだ。珍しいというより、この歳にしてはじめて見た雲であった。

ミッキー雪崩の斜面を滑をって途中から本来の赤倉大斜面に戻り、また渡り返して昨年のデブリのあった下部まで滑る。善さんがしきりに、ああもったいない、ああもったいないと叫んでいる。もちろん、快適すぎてさっさと滑り降りてしまうのが惜しいのだ。適当に斜度の緩んだところで、昼食とする。時間があるのでのんびりすとごす。燦々たる日差しのなか、残雪の大斜面から数メートル頭をだしたオオシラビソの陰で、ビールとワインでほろ酔いになりながら、とりとめのない時間を過ごす。これがあるので八甲田が二十五年も続いてしまったのだ。

昼食後は、八甲田の広大なブナ林を適当に検討をつけながら滑り降る。食事中にわれわれの側を通り過ぎていったツアーに追いついてしまったが、ついていくのもシャクなので別コースを取った。しかし、最終的にまた出会ってしまった。相手は、八甲田最古参のガイドで池田さんとは古い馴染みの貝森さんが率いるツアーだった。

箒場岱のルート終点は広い牧場で、そこを縦貫する県道に沿って三軒の茶屋がある。その三軒のどれかが毎年持ち回りでバスの発着所となっている。われわれにとってはどこでもいいことなのだが、地元の談合によるものだろうか。このバスは、青森市の交通部(青森弁ではコチブと聞こえる)の運行するもので、八甲田春スキーシャトルバスという。ここは、酸ヶ湯と北八甲田の山塊を挟んでほとんど真反対の位置にあるので、酸ヶ湯に帰るには北八甲田山麓の循環道路を半周することになる。それも、最終便以外はロープ止まりで、JRバスに乗り継がねばならない。だが頃合いがよく、酸ヶ湯の送迎バスがロープで止まったので、それに乗せてもらい早めに帰ることができた。

2004年5月3日 月曜日

曇り、時々小雨。

どうも昨夜寝ていて、左足の親指の付け根に違和感があったが、どうやら痛風が再発したらしい。朝起きておはようビール、昼は雪上でビールとワイン、帰ればビールにはじまって延々と宴会だから、ここの生活は痛風にはよかろうはずがないが、まあ仕方がない。

今日は、天気も悪いし、三日連ちゃんで疲れもたまったので、善さんの希望で三内丸山遺跡の見学にする。そのあと昼食は、恒例一八寿司として、昨日のうちに、午後1時に予約をしておいた。

8時半の酸ヶ湯の送迎バスで青森へ。バスの本数があまりなかったのでタクシーで三内丸山へ向かう。一昨年までは、遺跡以外はプレハブの食堂兼土産物屋と資料館しかなかったのだが、昨年、忽然として縄紋時遊館なる巨大観光施設が出現してびっくりした。ここには、以前から30分おきにボランティアガイドの率いる遺跡ツアーがある。今回は10時のそれに間に合った。ガイドは鶴賀さんといって、ツルもガも目出度く、頭も目出度いなどと冗談を言っていたが、いまで何度か聞いている解説のなかで一等のできだった。博引旁証、理路整然、話の運びがうまくテンポもよい名解説。そのうえ歩くのも速いので、こちらはどんどん痛みの増してくる左足を引きづってついていくのがやっとだった。

この遺跡には、再公開以来毎年のように来ているが、そのたびに新しい事実が明らかになる。今年は、墓の意味付けに新発見があった。従来は、この集落には階級差別はないものと思われていたらしい。しかし、これだけの大規模な集落が単純な自由平等社会で維持できるわけがない。ギリシャのデモクラシーもローマの共和制も実態は特定階級の独裁だ。事実、墓においてその証拠がでてきたという。すなわち、これまで大人の墓所、子供の墓所の二種類だけと思われていたのが、別の所にストーンサークルで囲まれた桁違いの規模の墓が発見された。そうなってみると、人口の推移と墓の数を比せば、あるいは墓に埋葬もされなかったひとびとも多数いるはずだと。このところ多様性の概念の重要さが生物学の分野から提起されてきたが、差別は多様性の根幹にある。差別の印象が悪ければ、区別でも差異でも相違でもかまわないが、差別は、解消すべき人類の課題であると同時に、人類の活動を活性化する原動力でもあろう、なんちゃって。でもしょせん、生き物ってのは、こうした矛盾をはらみながらもがき苦しみ、また、楽しんでいるんでしょうな。あれあれ、なんだか大風呂敷になってしまった。

青森への戻りは、やっと間に合うほどドンピシャのバスがあった。買い物やアスパムの見物などで少々時間調整して一八寿司へ。いつものことながら大繁盛。しばらく小部屋で待たされて、刺身の盛り合わせ(写真参照)などで席の空くのをまった。やはり寿司屋はつけ台でネタを眺めながら注文しないと調子がでない。長谷川君という古参の職人に、池田さんがこられない理由を説明して、お互いさみしいねえ、などと話し合う。彼はなかなか才気煥発で話がはずむ。気分よく飲んで、帰りがけ久しぶりに会ったオヤジサン(西村氏)と握手。われわれより大分年配だとおもうが、それにしては大柄なひとだから、がっちりした大きな手だった。すっかりいい気分で3時半の終バスで酸ヶ湯へ戻る。一八で飲んでバスで帰ったのははじめて。

夕食はもういいやの気分でナイターを見る。でも残っていた酒はしっかり片づけながら。もちろん巨人戦だ。大森氏がいないから、今夜は純粋の巨人ファンだけ。ぼくは野球を見るようになって日が浅いので実のところあまりゲームの委曲がわかっていない。善さんのヤジを聞いていると、おおそこまで読めるのかと感動する。一球ごとに球種や審判の判断などビシビシとコメントしながら、ときどきゲームの大局について言及する。その的確なこと。こちらは、感心して拝聴するばかり。へたなプロの解説者よりよほど面白い。ぼけた解説者のように“三割打者なら3回打席に出れば1回は打ちますから”なんてことはいわない。こういうのは、野球解説でなく小学校の算数の問題である。

2004年5月4日 火曜日

雨。やや風あり。

今日は最終日。いつものことながら、またたくまに連休は終わってしまう。6時過ぎに起きてゆっくり朝食をとってから荷造りをする。好きなだけ飲み食いして、たまたま昔からの顔見知りに風呂で会い、めずらしく長湯になって足を温めてしまったというのに、痛風も大事に至ず引っ込んでしまった。あまりの荒療治で機先を制されたか。

エプロンかけて頻繁に売店に出入りするので、売店のおばちゃんにすぐに顔を憶えられてしまう。最後に残ったサラダ油や調味料を売店のおばちゃんにもらってもらうと、そのお返しにと部屋までリンゴ3つを届けてくれた。酸ヶ湯へ来るようになっていらい、ずーっと売店の担当だった木村さんが2年前に引退してから、売店とは馴染みが薄くなっていたのだが。

11時20分の酸ヶ湯の送迎バスで青森へ。八戸まで在来線の特急。八戸で新幹線へ乗り換えて盛岡。盛岡はまだ雨が残っていたが、歩いて東屋本店へ向かう。ここは椀子そばの店として有名だ。われらに、その手の悪趣味はないが、酒の肴が揃っていて、店員の教育も悪くないので、ここでの一杯が帰途の通例となっている。ほろよいの帰りは善さん課題の石割桜(もちろん花はとうに終わっている)を見て盛岡駅へ戻る。地下街のジャジャ麺ののれんを見ながら、後藤さんとカメちゃんはどこでジャジャ麺を食べたのか、などと思う。新幹線は大混雑と思いきや、やまびこの自由席はがらがら。みんな予約を取って安心したいから、はやてに殺到するのだろう。近頃、飛行機を真似て座席のポケットに入れてある雑誌で、津軽半島は、岩木山のはるか北、十三湖(じゅうさんこ)と十三湊(とさみなと)の遺跡の発見などを読みながら、満ち足りて帰途についた。


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