道草Web

水ノ塔山・篭ノ塔山・布引観音

梓編年

2004年6月19日土曜日

晴れ。6時過ぎに起床。鈴木車で鈴木、大森来宅。デリカに乗り換え南浦和で7時半にチャウをひろう。外環、関越の乗換が少し混んだだけで、関越はすいすい。予定より早く9時15分頃に、横川SAで、田中車の冨山、後藤、金谷と合流。

小諸インターで降りて高峰高原へ。積雪期の黒斑山以来の山道を走って、見覚えのある車坂峠へ10時半着。そこで今日のコースを検討する。結論として、高峯温泉を起点とし東篭ノ登まで縦走し池ノ平へ降りて高峯温泉まで戻る周回コースと決まった。大勢は高峯温泉から縦走して東篭ノ登山を目指すが、冨山、後藤組は池ノ平まで車で送ってもらい東篭ノ登山へ直行する。デリカ、田中車の2台は池ノ平まで両氏を送り、そこにデリカを残してドライバーは田中車で高峯温泉へ戻り先行隊を追う、こととなった。

10時50分、先発隊、高峯温泉出発。縦走路は、登山道というにはあまりになだらかで、高原の散歩に等しかった。梅雨時だというのに晴天はよかったが、だいぶ雨が降っていないようで登山道は乾燥して歩くとほこりがたった。しかし、高山植物は予想外に豊富で、いろいろと楽しむことができた。

イワカガミ、マイヅルソウ、コケモモ、ツマトリソウ、クロマメノキ、ツバメオモト、ウラジロヨウラク、レンゲイワヤナギ、ツガザクラ、キバナノコマノツメ、ミツバオウレン、ウスノキなど。ツバメオモトハクサンチドリ

われわれがまだ水ノ塔山へ達しない11時45分頃に後藤さんから電話があり、もう東篭ノ登へ到着したとのこと。遙かにその山頂を望むとわずかに人影が見えたが、それが後藤さんかどうかはさだかでない。数分後に水ノ塔山に到着。山頂はアスナロ、コメツガ、ハクサンシャクナゲなどの灌木に周囲を囲まれている。先行した団体が昼食をとっていた。

さほど息も弾まない山道なので、近頃、還暦記念に憶えた白楽天の長恨歌、七言120行を暗唱してみる。玄宗帝の寵愛をほしいままにした楊貴妃が、安禄山の乱によって長安を追われ、逃げ延びる途次、皇軍にも見放されてなすすべもなく、帝の馬前に扼殺される。それを悲しむ玄宗の以後の思いを綿々とつづった詩である。長恨歌の名前だけはあまりに有名だったが中身は知らなかったので、一念発起憶えてみた。流石に長くて、ものにするのにひと月ほどかかったが、最近やっと滑らかに口をついて出るようになった。まだ講談師のように立て板に水とはいかないが。長恨歌をぶつぶつ唱えながら歩いているうちに、前を歩いていた金谷氏が突発性の痛風に見舞われる。それも、下山する頃には引っ込んだようで、こないだの八甲田の我が身を思い出して他人事ではない。

長恨歌の最後の2行を唱えていると、耳ざとく大森氏が聞きつけ、何で今頃長恨歌かという顔。これこれ、こうだと話すと。いまさら無駄だから止めとけ、般若心経でも憶えた方がましだという。益なきは、はなから承知。以前にも書いたように、漢詩を暗唱するのは、こちらにとっては、カラオケの好きなひとが歌を謡うのと同断である。長恨歌の一節など、何度唱えても背筋がぞくぞくするほどの魅力がある。お経でぞくぞくしたら、もうおしまいである。それに、般若心経は後藤さんのテリトリーだ。

12時半、冨山、後藤さんの待つ東篭ノ登山2,228メーターへ到着。冨山さんはスケッチに専心し、後藤さんはわれわれを迎えてスナップに余念ない。山頂は岩がむき出しになっているが周囲は草原状で、矮小化したカラマツ、ダケカンバ、ハクサンシャクナゲが散在する。眺望は雄大で、東をふり返ると黒斑山の背後に浅間山の輪郭が望まれ、北側には吾妻渓谷に沿って開けた嬬恋村が、南側には千曲川に沿った佐久平が展開している。縱走を続ければ西篭の登山だが、今日はここまで。すぐ南の足元にはこれから下りる池ノ平の湿原と駐車場が見える。

東篭ノ登山で行動食をとり、12時43分、池ノ平を目指す。この下山道の路傍もなかなか美しい。坪庭のような草地には、コケモモ、クロマメ、コメツガ、イワカガミなど背の低い植物が花を着け、ウスノキ、コメツガ、カラマツ、ダケカンバ、ヒメコマツなどの灌木が散在している。とりわけカラマツの緑がみずみずしい。丈の低い針葉樹林の下生えにマイヅルソウが密生している。マイヅルソウの小さな群落を後藤さんが撮影していたとき、ふとその奥を見ると見慣れないランがひと株だけ咲いていた。持参した夏の花の図鑑を見たがラン科には該当するものはなかった。しばらく下ってゆくうちに、もしかしてこれは春の花の図鑑に載っているのではと思いつき、立ち止まって開いてみたら、あった。イチヨウラン一葉蘭だった。そのあと、同じような植生のところで目をこらしたが、ついに見かけなかった。

13時20分。池ノ平の駐車場到着。指導員詰め所やトイレなどの施設のある一画のかたわらに、いかにもピクニックで弁当を広げるにふさわしい緑陰の草地がある。そこで、プチ宴会。チャウの仕入れたツマミで軽く一杯となる。たっぷり氷をぶち込んだクーラーでビールは冷えすぎるほど冷えている。それに赤のワインが3本。金谷氏は孤独にアメリカワイン不買運動中とはいえ、持参のワインのあまりの不味さに閉口してこちらのカリフォルニアワインに手を伸ばす。

そのあと、有志は池ノ平を散策。池ノ平は、カルデラ湖の水が引いて湿原となったらしいが、いつの頃かカルデラの南側が崩壊して水位が下がって乾燥化した(と見たが?)。一部に池溏が残っているが、いまでは湿原というよりササが卓越した草原となっている。尾瀬でいうと、見晴らしから温泉小屋へかけての燧岳裾野に似た状況だ。これを湿原というのはちょっと苦しい。湿原付きの笹ヶ原といったところか。池ノ平のを横断した南東の奥にその名もコマクサ岳があり、その裾野にコマクサの自生地があるというのでいってみた。頑丈な防護柵に守られ、柵の一部に撮影用の窓まであって興趣を削ぐ(あとでガイドマップを見るとコマクサ園となっていた)。ひさびさにシロバナのコマクサが目に飛び込んできたくらいで、あとはなんということはない。どうやら車で来て少し歩けば手軽にコマクサを見ることのできる場所として有名らしい。柵のこちら側の草群に、まだ咲き立てのハクサンチドリの濃い紫が新鮮だった。

14時8分、池ノ平を出発。高峯温泉で田中車へ分散し、望月町布施へ向かう。途中、17時半頃、スーパーえちご屋へ寄って買い出し。隣に酒のディスカウントショップがあるので、日本酒はともかく、ビールは買っていく必要はないかもしれない。18時山荘到着。前回のように小屋中虫だらけということはなかったので、すんなりと居住空間が整う。はじめガスが着かず、元栓の開け方で少しとまどったが、何のことはないレンジの下の栓だけが閉めてあり、屋外の元栓は閉めてなかった。結局、最新式のレンジの点火方法を間違えて火が点かなかったのが混乱のもと。いや、お恥ずかしい。うちのレンジは、捻るとカチカチいって火の点くのが一台、もう一台はチャッカマンがないと火も点かない代物である。その手癖が判断を妨げた。なお、ここの給湯システムは、風呂が湯元になっていて、風呂場の給湯器を点火すれば家中の温水栓が使える。二階のシャワーも同じだった。ぼくはシャワーですませ、金谷氏は午睡、みなは汗を流しに布施温泉へ。宴会は、何を話したのか皆目憶えていないが、例によって楽しくわいわいと過ごす。そういえば、八甲田で偏西風の成因について、地球は東に向かって回転しているのになぜ偏西風が吹くのかと善さん独特の鋭いつっこみがあり、調べておいたのだが、説明するどころではなかった。それと、修学院、桂離宮の見学はこのとき出たのだったか、どうせなら、西本願寺の飛雲閣もいいなあ。最後はソウメンで締めた。最初のソウメンが少し茹ですぎだったので、もう少し硬くと後藤さんにお願いして、しこしこしたソウメンをたっぷり食べて、宴会終了。

2004年6月20日日曜日

晴れ。

ニラの黄身和えとオムレツで軽く朝食。掃除を済ませ、川喜多山荘をあとにする。早速、昼食はどこでということになり、それなら小諸の藤船のウナギにしようとなった。しかし、携帯が繋がらない(帰宅して念のためネットでチェックしたところ一件だけヒット。市外局番の末尾が1違っていた。失礼しました)。諦めて、近場の観光地ということで、後藤さんが以前行ったことがあるという布引観音へ向かった。

布引観音は、その名の通り布引町にあり、千曲川の削り残した河岸段丘の段丘崖の上部にある。参道は千曲川沿いの道路から、段丘崖の割れ目を縫ってジグザグに登高する。そそり立つ岩と鬱蒼として樹木に囲まれて森閑とした風情である。普通の観光地と違って、あまりひとの通りはない。最初に、耶馬渓に比肩するという布引二段の滝が現れる。しかし、これでは耶馬渓どころか、子犬のションベン滝がいいところである。途中、何ヶ所か同様の見所があり、参道は延々と登高を続ける。

もうそろそろというあたりに山門があったが、これがそっぽを向いている。山門の向こうは行き止まりで、仕切の奥には急峻な崖に刻まれた階段が薮に消えていた。あとで気付いたが、これが本来の山門で、あまりの傾斜で危険なために閉鎖したものらしい。山門の傍らを過ぎるとすぐに、小さな門があって布引観音の境内に至る。だらだら登ったせいもあるが20分ほどかかった。入ってすぐの社務所のような建物に、天台宗総本山比叡山延暦寺直末布引山釈尊寺とあった。観音が本尊で釈尊寺とは釈然としないが、まいいか。解説には、宮殿と観音堂は鎌倉時代の様式を残し、旧国宝、現重文とある。根岸神社相当の扱いだ。まあこれで十分といったところか。この時点では神域の全体像が見えていなかったのだが、どうやらこの門を入った辺りが末端で、そこから崖の中腹に開けた狭い平地にわずかの建物があり、その先端に崖の岩をくり抜いて朱塗りの観音堂がある。色は別として、崖をえぐった建物の配置は、鳥取三朝の国宝投げ入れ堂を思わせる。あちらはたしか着色はなかったが、剥落したか。この観音堂の真下に、先ほどの廃止された参道と山門がある。観音堂の前面はネットで覆われて内部は見にくかったが、ネットからのぞきこむようにして金色の仏像を見ることができた。お堂全体が舞台に乗ったようになっていて、そこから千曲川方面を望むことができる。

観音堂の奥に暗がりがあり、例によって胎内潜りかと少し入ってみると、堂の裏を回り込むのではなく、岩を窓のようにくり抜いた通路が崖にそって伸びていた。そこをくぐってしまったのが運の尽きだった。そこそこのところで、一巡して元のお堂へ戻るのかと思いきや、延々と登りが続く。昔は修行道だったのではないかとおもうほど急な登りで、先ほどまでの参道とは違い、一転周辺は開けて明るく、踏み跡は崖の表面を辿ってゆく。このころには気温も相当上がり、登山の用意などしていないので、流れる汗を手で拭っては払うようだった。足元がしっかりしているからいいようなものの山道としても結構厳しい。いつまでたっても登りは果てるともしれず、途中、素晴らしい見晴台があって、千曲川、小諸の町並み、昨日登った高峰高原から浅間方面を一望することがきる。結局、追い立てられるように最後まで登って山頂へ至る。多分、段丘崖の入り組んだ突端の一ピークなのだろう。昔はお堂があったのか、八角形?の礎石が残って、中央にケルン様に石が積んであった。山頂からは、下山道の標識に従って下る。山道は境内の上部を山腹を絡むように一巡し、断崖丘の上部から侵入する車道へ出る。車道を下ると、さきほどの小さな門へ出た。最初から、これだけの登りがあると知れば、この観音を目指すことはなかったろうが、頭から決め込んでいた通常観光地とは異なり、寺社本来の風情を残すよい観音であった。下まで戻って改めて看板を見ると、厳しい参道で怪我をするやも知れず、それなりに覚悟して参拝せいという旨の注意書きがあった。

さて小諸はだめとなったので、では、望月へ戻ってあけぼの屋のウナギにしょうとなる。大森氏が携帯すると昼は2時まで。もう20分ほどしかない。いま布引にいることを告げると、すぐに来られるなら開けて待つとのこと。あけぼの屋、常連の川喜多氏の名前を出してダメを押し、急ぎ来た道を引き返して、めでたく昼食にありつく。去年の志賀の帰りに来たときには車酔いで、たどりつくなり小上がりに横になってしまい、しばらくは食事どころではなかった。冷や奴にウナギの白焼きと蒲焼き、最後はソバで仕上げ。ここの奥さんは、男っぽい美人であるが、愛想はよく応対もてきぱきとしている。ウナギそれなり、そばそれなりで、ツマミの種類も多くはないが、気分はよい。最後は、無愛想でめったに口も利かないが、川喜多氏とはめっぽう馬が合うという御主人まで出て来ての見送りであった。2時少し前にあけぼの屋に着いて、あがりは3時半。たっぷり1時間半居たことになる。

帰りがけにあけぼの屋の位置が明確にわかった。この店を右へ出るとすぐに丁字路に行き当たり、その信号が「望月」。ということは、ほとんど望月宿の中心だ。いままで、あれこれ分かりにくいようだったが、これで間違えようはない。あとで地図を調べると、佐久からの往復に通っている国道142号と並行してもう一本県道(国道の旧道か?)があり、望月の信号をどちらへいっても国道へ出る。左折して佐久方向へ行けばトンネルをくぐって斜めに国道へ合流し、そのすぐ先に布施の信号がある。右折すれ左へ回り込むようにして、ばほどなく信号で国道と交差する。この交差点が、何度も買い出しに通っている142号のトンネルをスーパー方向へ出てすぐの信号だ。

帰りは善さんの運転で、まず佐久平でゴミを下ろし、ひたすら高速を急ぐ。途中、乗用車同士の事故があって1時間ほど渋滞に巻き込まれたが、それ以外では混雑はほとんどなく順調に帰路をたどった。南浦和で冨山さんらを降ろし、らくだ坂帰宅は8時少し前だった。善さんは、それからもうひと運転。お疲れ様でした。


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