道草Web

梓山行 早池峰山

梓編年

2004年7月17日 土曜日

曇り、時々雨。夕方土砂降り。

今回の山行は、旅行社のツアーもどきに現地集合。梓も求心力がなくなったというのか、人間関係が自在無碍になったというのか。金谷氏は愛車同伴で前日列車で先行し、カメちゃんは仕事先の秋田から車を駆り、冨山、中村、橋元は大森車に便乗して、花巻駅での再会を期す。大森氏が6時過ぎの来宅、共同装備をテラノに積み込み、定刻通り6時40分の地下鉄で到着した冨山、中村をひろって浦和ICより東北道へ入る。渋滞はほとんどなかったが、梅雨の明けた関東から北上するにつれて天気は悪化し、走行中、激しい驟雨に襲われて視界を失うこともあった。

花巻南ICで東北道を出て(12:56)、花巻市内でガソリンを入れ、係のお兄ちゃんに、適当な昼食の店はないかたずねる。マクドナルド式の対応にげんなりしかけたが、些細に店の説明をする段になると花巻らしい口調に変わりホッとする。なんでも“量は少ないが、懐に余裕のあるときはゆく”彼の好みの店だという。その焼き肉屋『DAIMON』に決定する。

花巻市内から4号線へ出て少し北上した上り側にその店はあった(13:13)。盛岡にあやかってここでも名物は冷麺。生ビールに、その冷麺や牛刺、ユッケなどめいめいが注文して食す。大森氏はビールもどきを少々ビールで割ってお茶を濁す。どうも冷麺というのは満足感がないというのが共通の感想。ただ、牛肉は悪くはなかった。店を出てふと携帯を見ると金谷氏から伝言が入っている。かけ直すと、すでに花巻に到着し駅前で食事を終えたところだという。3時花巻駅で集合ということだったので大分早い。もっとも3時集合というのは、冨山さんが遠野で前夜1泊することが前提だったのだが、夏祭りの混雑で宿が取れず、こちらへ合流したので本来の意味を失っていた。

市内のイトーヨーカドーで夕飯と行動食を仕入れる。その間に、カメちゃんも長駆秋田より合流。こと待ち合わせに関して、携帯ほど便利な物はない。買い物にほぼ1時間を要し、店を出たのは3時を回っていた。カメ車に冨山さんと金谷氏が移動して出発する。いったん天気は持ち直すかに見えたが、早池峰へ近づくにつれて急転悪化して激しい雨となる。岳の部落に到着したころには、ぼくが運転していたら車酔いしそうなほどの雨脚となっていた。

岳からは道路幅が狭まって急な林道となり、まもなく笠詰キャンプ場を左下に見る。ここは、前回(会報3号参照)の山行で幕営したところだ。あのときと比べると木が茂って、ひとまわり縮んだように見えたのは気のせいか。ずいぶん長いなぁの感あって、右手に山小屋(うすゆき山荘)を過ぎ、まもなく河原の坊へ着く。道路の左下に駐車場とキャンプ場があり、右に早池峰総合休憩所がある。瞬時にずぶ濡れになりそうな雨の中、大森氏が休憩所へいって様子を探る。休憩所には監視員が駐在していて様子が聴けた。その結果、いま通過してきたうすゆき山荘は無料宿泊所だが混んでいる。この先にも無料宿泊所はあるが少し歩く(あとで地図を調べたが該当する小屋は不明)とわかった。うすゆき山荘は通過するときに見たが、前庭は車で一杯だった。戻って見たがとても混んでいて泊まれそうにない。岳まで戻って宿を探すことにした。

まず岳の部落の一番上にある駐車場の前に峰南荘があって、大森氏が打診したがこの小屋の主人、けんもほろろの応対で泊まるなど論外と言う。大森氏、怒り心頭に発している模様。もう少し下って岳の中心部へ至り、左右の民宿の様子を見ながらそろそろ走っていると、ひとのよさげなオバサンが歩いてきた。大森氏が声をかけて、このあたりに泊まれるところはないかと問うと、自分にはわからないがきいてみてあげようとの返事(あとで民宿のお手伝いと知った)。そのオバサンの返事を待つ間に、カメ車の冨山さんも独自に同じ民宿に探りをいれていた(別の宿だと事だったが)。その結果、素泊まり2,500円で落着。この額は岳の協定料金だそうだ。雨で逃げ込んだのはわれわれぐらいらしいが、このあたりの民宿は、最上部の一軒を除いてどこも登山客があふれていた。なお岳の民宿は、昔の名残で“…坊”と称する。われらが宿は大和坊だった。後の祭りだが、素泊まり専用の施設もあるとWebで知った。

問題は調理で、山小屋ではないので自炊場がないが、一階の洗面所なら火器を使ってもいいということでやれやれ。部屋は二階の道路に面した角部屋ともう一部屋をあてがわれた。角部屋の下には沢が流れていて、この雨で茶色く濁ってゴウゴウと音を立てている。この沢は道路を隔てた向かいの山から流れてきているが段々滝のような急流で、一瞬土砂崩れの可能性が脳裏をよぎった。しかし、右岸には神社への参道があり、その両側にこれだけ密集した部落があるのだから地盤は安定しているに違いない。宿全体にゆったりとした間取りで、東京近郊なら一部屋へ詰め込まれても文句のない広さだった。角部屋を宴会場と決めて支度にかかる。大森氏が包丁をふるっているあいだに、洗面所のステンの流し台で炎の出方を案配しながらピークワンを2台点火する。屋外と違ってガソリンが燃え上がると騒ぎになるからなかなか神経を使う。だましだましといった感じで火を付けてまずは枝豆を茹でる。ゴウヤチャンプルー用に買った豆腐は、今日はあまり加熱料理はしたくないので冷や奴に変身。大森氏のカツオとホヤの刺身、それに枝豆、冷や奴などで宴会がはじまる。ホヤがとみに好評であった。はじまってしまえばあとは例のごとくである。メインの焼き肉では足りず、中止したはずのゴウヤチャンプルーも豆腐抜き、ゴーヤとバラ肉だけで片づけて、これまた例によって、共産党と公明党の対比から、汎神論と無神論の壮大?な論争(かたや一神論でないだけ救いか)におよんだが、助手席でただ眠りこけているだけのこちらを尻目に、今日一日、運転し詰めでお疲れの大森氏はもはや白河夜船、論議の行方の知るよしもない。

2004年7月18日 日曜日

終日、強風で曇り。

空が白むとともに目は覚めたが雲がたれ込めている。隣部屋のオバサン団体がやたらにうるさくてたまらず、まあこんなものよと諦めてはいたが、ついにたまりかねて、もう少し静かにできないものかと声をかけてみた。もとより悪気はないから一瞬静かになるものの長続きはしない。まあ、いたしかたなし。

朝は冨山風ニラうどんだというので、まずは湯を沸かす。コールマン2連でもステンの大コッフェル満杯の水はなかなか沸騰しない。屋外と違って目を離すわけにいかず、カメちゃんに目覚めのビールを出前してもらって待ちを決め込む。茹でが12分、蒸らし3分という時間のかかるうどんだったが、塩気はほどほどで煮汁は薄めずともそのまま使えると大森氏のご託宣。蒸らし終わったうどんに、たっぷりのニラとお揚げをぶち込み、ゴマ油で風味を整える。醤油は好みで適宜たらすことになる。これは冨山さんならではの豪快手抜き料理で、ひさびさに満腹になるまでうどんをすすった。もっとも、この手のものはいくら食べてもすぐに腹がへる。

朝5時を過ぎると自家用車は岳から奥へは入れないので(でも、交通整理係りは遠距離の車は制止せずに入れていたので、われわれは入れたかもしれない)、車に不要の荷物を残し岳の駐車場から有料のシャトルバスに乗る(8:00)。このバスは登山者の数に応じて30分おきに2〜3台ずつ出発している。気付かなかったが、200メートルほど下にさらに大きな駐車場がありそこがバスの始発だった。ぼくは河原の坊で降りるつもりだったが大森氏から小田越まで乗るとの指示。河原の坊ルートは沢通しなので増水を考えてのことだったのだろう。小田越へ着く(8:26)と風はますます強まっていた。小田越の地名の通り峠だから風も強いのだろうと思ったが、この日は終始、風の手綱がゆるまることはなかった。

ボランティアが早池峰のマナーガイドを配っている。どうやらここは大小便の持ち帰り運動をしているらしい。あとで知ったが携帯トイレを販売していて、その袋に用を足し、早池峰エコパックなる袋で、願わくは自宅まで持参して欲しいとのこと。途中でポリ容器を背負子に積んだボランティアが大勢登っていったが、彼らは山頂のトイレの糞尿を運び下ろすのだろう。しかしいくら自分のものとはいえ、ナニを飲料や食料とともにザックに詰めるのはどうか。第一、山を行動する清涼感が失われてしまう。確かに徹底はしているが、相応の人数を動員して糞尿を処理できるだけの意志と行動力があれば、別の処置を案出してもいいのではないか。自然保護には進んで参加するが、どうもこのやりかただけは気が乗らない。オーバーユースで汚染が問題なら入山制限をすればよいだろう。そうなると必ず地元の利害が浮上するが、地元の反対を回避するためボランティアに過大な負担がかかるのでは長続きはしない。利用者と受益者の応分の負担で解決すべき道がないだろうか。

出発(8:31)してしばらくはオオシラビソの樹林帯を進む。木々に囲まれて風の直撃は受けないが、針葉樹の樹冠は激しくざわめいている。すぐにギンリョウソウ、それにカニコウモリとモミジカラマツの花に出会うが、樹林帯にはほとんどそれ以外の花はない。マイヅルソウがわずかに林床を飾っていたが花期はすでに過ぎていた。樹林帯は比較的短く、矮性のコメツガやハイマツ、マルバシモツケ(これだけは山頂部までまんべんなく生えている)、コメツツジ、ミネカエデ、タカネナナカマドなどの低木が増えてきたとみるとすぐに樹林帯は終わり岩稜帯に入った。すると防壁を失って俄然横風の直撃を受ける。西風だから登る向きに対して左側から吹きつのる。気温は高いので寒さを感じないのが救いだが、バランスの悪い姿勢を突かれると、男でも転倒しそうな風圧だ。そんななか、先ほど駐車場であった小学生の団体が、こともなげに駆け上がってゆく。元気なものである。

岩稜帯にはいると路傍の高山植物も一挙に種類を増してくる。解説書によれば、この山の主体をなす蛇紋岩のせいでアルカリ性が強く一般の植物には適さない土壌だという。アルカリ性ということでは秋芳洞のようなカルスト地形とも通じるが緯度・高度が異なるせいかあまり共通する植物は少ない。それと、前回は気付かなかったが、蛇紋岩というのは非常に滑りやすい。少し表面が磨かれたところでは、乾いていてもつるつる滑る。柔らかい岩なのだろう。

早池峰特産のハヤチネウスユキソウ、ナンブトウウチソウ、ナンブトラノオ、ナンブイヌナズナ(大きな株にわずかに咲き残っていた)、ミヤマヤマブキショウマ。そのほか、思いつくままにコミヤマハンショウヅル(ミヤマよりわずか小さい)、ミヤマアケボノソウ、イブキジャコウソウ、ミヤマカラマツ、キンロバイ(これも株は大きいが花はわずか)、ミヤマオダマキ、ホソバツメクサ(他の山ではイワツメクサが多いがここではこれが圧倒的)、キバナノコマノツメ、ヨツバシオガマ、ミヤマシオガマ(両シオガマともに花も葉も色が濃い)、ミヤマアズマギク(ほとんど花期を過ぎていた)、タカネグンナイフウロ、タカネアオヤギソウ(山頂付近に多い)、コバイケイソウ(花はほとんどなし)、ネバリノギラン、タカネニガナ、タカネヨモギ、ミヤマアキノキリンソウ、タカネヒゴタイ(似たものでナガハキタアザミがあるが見なかった)、タカネナデシコ、ハクサンチドリ、チングルマ(穂のみ)、ハナヒリノキ(ウラジロか?、有毒)、クロマメノキ(実)。

高山植物図鑑によると、ここにはハヤチネウスユキソウ、ミネウスユキソウ、ウスユキソウの三種類のウスユキソウがある。ハヤチネはすぐにわかるのだが、あとの2種の区別ができなかった。決め手は頭花の花茎が長い(ウスユキソウ)か短い(ミネ)かだが、あの烈風のなかではそこまでチェックできなかったと言い訳しておこう。

山頂まで一キロのところで斜度は緩まるが風はますます強くなった。ひたすら風に耐えて登る。最後にちょっとしたハシゴ場があり、それから少し登って剣が峰分岐(11:01)を過ぎると平坦になり木道が現れる。木道の周囲は小規模な御花畑だ。木道が終わってまた岩が出てくると山頂は間近い。われわれが山頂避難小屋に着いたときには、途中で抜いていったボランティアの一団がトイレの汲みだしをしていた。この小屋は、避難小屋であって宿泊は不可だそうだ。臭気が漂っていたので、小屋の中は見ずに横を抜けて少し上の山頂へ出る(11:15)。金谷氏は例によってスキットルを取り出してジョニ赤の水割りをなめなめ、冨山さんは心臓と相談しつつマイペースで登ったが、ほとんど数分の差しかなかった。前回のことはまったく記憶にないが、山頂は小さな広場になっていて、その北側に社がある。その社の背後を護るように小さな岩峰が突きだしている。その裏側に回り込むと、岩と岩の間に風のない小さな草地があったので、そこで昼食とする。

わが背負子のクーラーには、たっぷりの氷にビールロング缶4本と赤ワインが一本冷えている。もう一本の赤はクーラーにはいらなかったのでカメちゃんが背負った(赤ワインを氷で長時間冷やすのはやりすぎだが、高峯での高温のワインにこりた)。暑いとはとてもいえない状況下で、ビールの盛り上がりには欠けるが、完璧に冷えた一口はたまらない。ワインもまあまあで、大森氏お好みのモンダビのカベルネソービニヨンと、ぼくが最近気に入っているイタリアのレンツオ・マージのキャンティ・ルフィナだ。後者はサンジョベーゼというブドウを使っていて、少し華やかな香りがある。実は前者が905円、後者が830円。この値段でこの程度のワインが飲める。いったい昔の値段はなんだったんだ。翌日、仙台のニッカの工場へ寄ったとき、同じレンツオ・マージのボトルを1200円で売っていた。山頂の昼食は行動食の流用だったが、担当のチャウが何を考えたかツマミ類をいっさい仕入れていず、不満だった。山頂の儀は梓の恒例。ツマミがないとはなんたる手抜きか(次回はよろしく)。

気温も下がって寒さもおぼえるようになったので下山を開始する(12:30)。風はいっこうに収まらず視界も良くないので同じルートで戻ることにする。ただ、このタイミングは最悪だったようで山道は延々長蛇の列。みなが一斉に下山を開始する時刻だったのだ。金谷氏と大森氏は先にいったが、残りは冨山さんのペースで下った。途中で適当に休んだりしていると、ほとんど人影もなくなった。少し下山時刻をのばせばのんびり下れたのだ。小田越へ戻ると(14:31)、バス停にはバス3台分ほどの登山者が並んでいた。

岳の駐車場へ戻り、大森車、カメ車に分乗して仙台はカメ邸を目指す。途中、大迫産直センターで野菜を仕入れ、シャトー大迫でワインを仕入れようとしたが、試飲の結果、却下。これがワインとは僭称であるとの結論になった。花巻ICから東北道に乗り、途中、ゴミの処理がてら前沢SAで前沢牛を仕入れようと立ち寄ったが、前沢牛の販売は下りSAのみのようだった。仙台宮城ICで高速を降り、この辺りで一番大きいヨークベニマルへ寄って宴会と明日の朝食の買い物。日本全国どこへ行っても、この手の店は似たようなものだが、海に近いだけあって生け簀のカレイが目にとまる。生け簀で飼い殺しになって疲れ果てたやつとは違って鮮度がいい。活きているものを鮮度がいいもないもんだが、まあそういう様子なのだ。これで1800円なら文句はない。大森氏も同じ意見で、あいにく刺身包丁の用意はないから、その場でさばいてもらった。いまのカレイは時期はずれだが、大森氏の聴いた話では、このあたりではカレイは夏のものだそうだ。夏以外は釣れないという。肉売り場には前沢牛の姿はなく、昨日同様、焼き肉セットに多少肉を買いましする。

カメ邸は仙台市街を少しはずれた住宅街のマンション。ここの様子は、後藤さんの既報のとおりである。その5階の部屋は眺望満点で、はるかの青葉山まで視野を妨げる大きな建物はない。ドアを開け放てば涼風が吹き抜け、エアコンなど不要だった(もっとも、使うのは年に数日くらいとのことで設置しなかったとカメ談)。冨山さんの帰りがけの一言ですべては尽きている。“居心地がいいからまたくるわ”。仕入れたカレイは、〆たて独特の歯ごたえがあり期待を裏切らなかった。ただ、夏場だけに味は散漫。昨日に味をしめてホヤも仕入れたがこちらは今イチ。鮮度は花巻が一段上だった。宴会も例の如く和気藹々、談論風発。

2004年7月19日 月曜日

晴れ。にわか雨。

今日は二手に分かれる。大森氏はカレイの釣り場を探訪し、ついでに泳いでくると奥松島へドライブ。残りはカメ車で山形の山寺を目指して出発(9:42)。仙台宮城から山形北まで高速でいって山寺へは11時過ぎに到着。土産物屋の駐車場へ止める。駐車料500円なり。ただし、2000円以上買い物をすれば無料とか。山寺へは一度来てはいるのだが、月山で滑った帰りで、膝を痛めていたために肝腎の山頂部はスキップして、門前でソーメンを喰っただけ。まあ、はじめてといってよいだろう。

山寺の正式名称は宝珠山阿所川院立石寺で天台宗に属す。まず麓の伽藍を、1200余年の不滅の法灯が灯るとう根本中堂をはじめに一巡して、茶屋で名物玉こんにゃくを買って体力を整え、力水を購入して発汗に備える。入山料300円也を払っていざ出発。参道に足を踏み入れると、とたんに冷気に打たれて気が引き締まる。両側の苔むした杉林が真夏の太陽を遮っているため数度低い涼風が参道を吹きおろしてくる。ただこれも最初だけで急な階段を登るに連れて木立は減じて暑さが増してくる。

ここの急峻な岩峰を密教の修験場にしようという着眼は自然である。たんに山体から諸処に岩石が露呈しているだけではない。凝灰岩(火山灰の堆積したもので大谷石も同類)の岩峰と、そこに穿たれた風化穴の姿形が、密教の謎めいた雰囲気にふさわしい。芭蕉は“岩に巌を垂てて山とし、松柏年ふりて土石老いて苔滑らかに…………”と表現した。こう端的に描破されては、こちらが駄文を弄する余地がないのではあるが。

芭蕉の奥の細道と山寺に関しては、きわめて充実した芭蕉と山寺があるのでそちらを参照してもらおう。山寺を調べていて逢着したページだが欲しい情報がほとんど提示されている。とくに伽藍の写真はここからすべて見ることができる。

ま、芭蕉はおくとして、噴き出す汗を拭いつつ行けるところまで登り詰める。最上段の小広い前庭には、右手に鐘楼があり、正面の階段脇には、ここを登れば煩悩が断たれるという掲示があって、その上に通称奥の院、如法堂と大仏殿が鎮座まします。如法堂の本尊は開祖慈覚大師が背負って全国を行脚したという釈迦像と多宝如来だ。これらは12cmに満たない小仏だというが、その横の大仏堂の大仏は座高5mとあって、これは丈6(1丈6尺)以上という(谷中の寺で憶えた例の)大仏の定義に合致する。大仏堂の脇に売店がありお札など置いてある。坊主の売り子(といっては失礼か)は暇をもてあまし参拝客の懐を品定めする卑しき目つき。どうみても煩悩の塊である。さきほどの階段脇の掲示はなんなのかと訝しいことしきりである。

少し下って枝道に入り開山堂と五大堂を訪れる。ここは山の西端にあって、他に目障りな売店や電線がないので、一番絵になるとは冨山さんの評。唐破風の向拝をもつ開山堂は芭蕉のいう“岩上の院々扉を閉て物の音きこえず”状態だった。五大堂は岩壁から突き出すように懸けられた舞台造りの建物(佐久の布引観音と似る配置)で、その舞台からは周囲の眺望をほしいままにできる。眼下の立谷川の両岸に開けたわずかの平野を挟んで向かいはゆったりとした山並みが視界を限っている。その一部に、後藤さんの提案で下見した面白山が見えるはずであるとカメちゃんはいうが、どれがそれだか定かでない(山寺の前を通る車道には面白山7キロの案内板があった)。地図で調べると眼前に横たわる山陵は、奥羽山脈の一部で、山寺の位置する山塊は奥羽山脈の一枝陵であった。つまり、枝の先から幹を見ているようなものだ。奥羽山脈は、南から安達太良、吾妻、栗子、蔵王と起伏を繰り返してきて、眼前で面白山を含む山並みとなり、さらに船形山へ続いている。五大堂は五大明王を祀るというが、展望に忙しく明王の陰は薄い。五大明王は葵上、道成寺など能に頻繁にでてくるが、ワキの行者や僧侶が、数珠をもみながら“東方に降三世明王、南方に軍荼利夜叉明王、西方に大威徳明王、北方に金剛夜叉明王、中央に大日大聖不動”と唱えて、般若面のシテを降服するのである。五大堂を最後に山寺のめぼしい仏閣は見終わり、のんびりと階段を下る。登りに比べるとらくちんの天国である。暑さでしたたる汗には辟易したが、以前から気になっていた山寺を参拝できて満足した。

ふたたびカメ車に乗り山寺をあとにする(12:37)。時間がゆるせばと保留付きだった寒河江の慈恩寺へ足を延ばす。この寺は五木寛之の百寺巡礼というTV番組に触発された金谷氏の希望である。たまたま、カメちゃんも同名のそば屋を知っているらしい。途中、にわか雨となるが天童を抜けるころには、それも止んだ。まず、腹ごしらえにと「慈恩寺そば」を目指す。これは、カメちゃんが,前任者との引き継ぎに使った店だという。古い農家を二軒横に並べて、そば屋に造り替えたような店で、広い前庭が駐車場をかねている。田舎のそば屋としては、雰囲気はたっぷりある。ありすぎるくらいだといってもよい。入口も左右にそれぞれあるが、まず右手の本屋とおぼしき入口をはいるとほぼ満席。係の女性から、別棟へいってくださいと案内される。一度表へ出て左側の口を入りなおして座敷にあがる。こちらは先客はいないが、一番奥へ詰めろと指示がある。二つの棟の中央が厨房らしく、どちらへもサービスできるが客は通過できないようだ。ここの主人は、自動車会社の役員だったがそばの趣味が高じて店をだしたとか。天ぷらとニシンの煮つけをツマミにたのみビールで喉を潤す。その間にそれぞれ品物を決めて、冨山さんはめおとそば(へぎにそば半分、うどん半分を盛るから、この名前はうどんへの差別であるが)、あとは大盛りの、板そば(へぎそば)の、鴨そばのと、それぞれ注文する。

わいわいやっていると、そこへもんぺ姿の白髪長身の老人が現れた。これが主人らしい。79歳というがどうして若々しい。五木の例の番組では、ここでそばを食してから寺へ出かけたことから始まり、新沼憲治のだれのかれのと有名人話がはじまった。普通ならうんざりするところなのだが、さらさらと人ごとのように話すのであまり嫌みはない。どうやら彼自身もこの辺りではそうとうの有名人らしい。いったん引っ込んだが、客もわれわれ以外に増えず、暇であったのかまた登場。こんどは手品である。カードを使って数を当てるマジック、手の中にハンカチを隠すマジック、ハンカチをネズミに仕立てて生きているように身体を這わせるマジックなど、話術も巧みに次々と繰り出してくる。いずれもなかなかの手練れである。ハンカチのマジックなどは、指サックの種明かしまでしてくれた。話術もなかなか飽きさせない。ひとわたり公演が終わって退場。これで終わりかとおもうと、またまた登場し、今度はハーモニカ演奏である。レパートリーは、童謡やらイギリス国歌やら軍艦マーチやらと盛りだくさん。しかも、手ではなく舌先で音量調整するというトレモロや、オクターブを一斉に吹いて重層感を出すオクターブ奏法など圧巻である。彼の技術を見聞すべく宮田東峰もこの地を訪れたことがあるという。ところどころ音を端折ってはいるものの、同じくハーモニカをものする冨山さんも感嘆の態。たしかに79歳という年齢を考えるとあの肺活量は驚異的である。最後に、今日は暇だし、お宅達が店へ入ってきた瞬間にピンと来るものがあってサービスした、とは泣かせる。料金以上にたっぷり楽しませてもらったが、(相当有名なそば屋らしいのだが)肝腎のそばは評するにあたわず。そばも趣味だったのだろうが、ほかの楽しみに目を奪われて舌がなまってしまったようだ。もしかしてハーモニカのトレモロ奏法のせいだろうか。

さて肝腎の慈恩寺へ向かうと、まず三重の塔が出迎えてくれる(14:31)。塔の本尊は大日如来。山寺の三重小塔でも本尊は大日だった。塔は仏舎利を納める建物のはずだが、なにかいわれがあるのだろうか。彩色は完全に剥げ落ちて古色蒼然を通り越してさびれた印象すらある。だがこういうのはいい。現在にあっては、金ぴか極彩色の寺院なぞ、成功した集金組織の証左とはなっても信仰心の象徴にはなるまい。本堂は屋根の茅を葺き替えている途中で、全容は見られなかった(去年の甲府探訪の清白寺を思い出す)。伽藍の構成は、三重の塔、仁王門、鐘楼、本堂、大師堂、釈迦堂、薬師堂、阿弥陀堂と本格的である。瑞宝山本山慈恩寺の宗派は、法相から天台へ移り、終戦後独立して慈恩宗総本山となったという。ほかのお堂も三重の塔に同様でみなの評価はあまり高くなかったようだが、風化しつつある人工物の幻影を見ているようで悪くはなかった。一番奥の住居をかねた庵を出るとき、その門の端に、蜘蛛の巣にかかったトカゲのミイラがぶらさがっているのに気付いた(本当のニホントカゲでカナヘビではない)。クモもさすがにトカゲは敬遠したかと、よくみるとミイラではなく生きている。まだ幼虫のトカゲであまりに細身だったのでそう見えたのだ。このままではクモの餌食になってしまうと思い、糸を切って地べたに放してやった。金谷氏はなお、蜘蛛の糸を丁寧にはらってやったようだ。仁王門の横にある鐘楼の鐘は自由に撞けるらしい。境内散策の途中で観光客が撞いているのを耳にしたが、帰りがけにも続けて二度の鐘声を聴いた。金谷氏だった。彼の評ではこの鐘はいい音がするという。これには賛成だった。さきの一声から感じていたが、深くて柔らかな澄んだ音は気持を和ませる。Webの後調べでこの寺には舞楽がいまに伝えられていると知った。であれば、先日急逝した野村万之丞はさぞかしここを訪れたことだろう。彼の狂言は30年ほども見てきただろうか。狂言師としてはさほどの輝きはなく芸質も好きではなかった。が、別の大きな才能に恵まれているようだったのに。

仙台への帰りは一般道を行く。トンネルで面白山の北を抜けて作並街道を通り、途中にあるニッカの仙台工場へ寄った(16:20)。緑の多い広大な敷地に、すべてアカ茶の煉瓦造りで統一した倉庫や工場がゆったりと配置されている。もう時間が遅くて工場見学はできなかったが、試飲だけは間に合ってウイスキーのオンザロックを一杯。試飲は工場見学をすませてからにしてくださいと張り紙があったが、このさいやむを得ない。試飲をすませて工場を出ようとすると、にこやかな守衛のおじさんが最敬礼で見送ってくれた。短時間だったがすこぶる好印象の残る見学であった。

カメ邸に帰着する(17:18)と、すでに大森氏はTVを見ながらうたた寝をしていた。釣場探索は不調に終わったという。ひなびた海岸を想像して行ったところ、どこもかしこも人と車で、海水浴する気にすらならなかったようだ。

帰途は、渋滞を避けようという大森氏の目論見でカメ邸を6時過ぎの出発。金谷氏も同乗するつもりだったが、そうなると愛車を別送せざるをえず、ついに、その惜別こらえがたく、同伴して新幹線で帰るという。ついては、そのまえにカメちゃんと仙台のイタリアンを楽しんでゆくことになったのである。大森作戦は見事に的中し、那須SAの軽食で多少の時間調整をして、まったく渋滞に遭遇することなく、無事帰着することができた。カメ邸発18:01、新井宿着22:01で、所要時間はぴったり4時間であった。


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