道草Web

八甲田春スキー2005

八甲田へ池田夫妻にさそわれてはじめて参加したのは、1979年(昭和54年)だった。それから、母の発病などで2回いっていないだけで、延々とつづいてきた。楽しいからつづいたわけだが、この時期の他の山の可能性を排除しているという思いもある。八甲田も、池田さんがこられなくなって、そろそろ終わりかなあと思っていたら、大森氏を中心に梓のメンバーが参加しだして、今年も継続することになった。毎度同じような内容で、同じような写真になるとおもうが、多少の変化もあるので、こりずに報告する。

深夜の高速を青森へ

2005年4月28日

木曜日 晴れ。

ほとんど用意ができていなかったので、八甲田の準備で一日つぶれる。
らくだ坂にテラノ到着(23:50)。自炊用の大荷物を積み込んで出発。

2005年4月29日 金曜日

おおむね晴れ。

新井宿でチャウをひろい(0:32)八甲田へ出発。テラノはETCを装備したので浦和ICでは専用の入口を入る。
国見で最初の休憩(3:31〜47)。
仙台宮城IC通過(4:17)。すでに空は白んでいる。
北上江釣子IC付近で寒冷前線に突入、稲光が頻繁に地に落ちる(5:34)
紫波SAで給油(5:47〜55)
盛岡IC通過(6:14)
岩手山SA(6:28)。この前後、しばらく岩手山を左手に見ながら走る。やがて八幡平も姿を現す。
湯瀬SAで大森氏仮眠(6:57〜7:48)
大鰐弘前IC通過(8:23)。岩木山が全容を表す。
青森中央出口(8:46)をETC専用出口で通過(浦和から9400円也。もちろんETCの深夜割引)。はじめてなのではたしてゲートが開くか、緊張したが無事通過。

青森の駅前の地下の市場で、肉の成田直営の市場食堂で食事(9:06〜9:53)。以前は埼玉屋が通例だったが、最近は地下の市場に食堂がいくつもでき、どこでも同じようなもの。いままでの青森駅前市場団地がビルの地下に入って、アウガなるわけのわからん名前になった。

われらの行きつけはアウガでなく、少し離れた青森魚菜センター、青森生鮮食品センターのほうだ。いつもの八百屋、魚屋の田中、帆立屋の工藤で、食料を仕入れる。今回は車だから魚と野菜以外は、大森氏がほとんど出発前に買い出してある。八百屋(市場の脇の屋台のような店でとくに屋号はない)はずいぶん前から馴染みで買い物した野菜をつめた段ボールをバス停まで運んでもらったりしていたが、田中も工藤もお互い顔は見知っているが、あまり口はきいたことがなかった。しかし、なぜだが、今回は二軒ともしたしげに話しかけてきた。工藤のオバサンは二十年を超す付き合いだが、ぼくに話しかけてきたのは今回がはじめて。しかも、二言三言ではなく、いろいろな世間話を含めて、向こうから話しかけてきた。これには心底驚いた。いくら人見知りをするとはいえ、20年がかりは長すぎる。それと田中のオヤジさん(もちろんぼくより大分若い)も、今回は荷物を市場の前に止めたテラノまで運んでくれて、積んである板を見たからだろう友達のスキーガイドの話までしだした。両方ともには偶然だろうが、やっとこちらが認知されたのか、もちろんうれしくないわけはないが。

酸ヶ湯着(11:45)。断っておかなければならないが、昨夜からぼくはテラノのハンドルは一切にぎっていない。前回のこともあったので、一応、運転する覚悟はしていたのだが、大森氏に一蹴されてしまった。それにしても、東京から青森の長丁場を、途中、1時間ほどの仮眠だけで、独りで運転しきるとは、ぼくには別世界のひととしか思えない。尊敬!!!

今年は208号室だ。一昨年まで恒例だった隣の207号室はジモティに占拠されてしまった。ただし、チェックインと同時にチャウが申し込んだところ、来年は207号室がとれたとのこと。207号は二階の角部屋で、自炊棟では最高の部屋である(値段は同じ)。二面が廊下なので荷物の多いわれわれには願ってもない。今年の部屋は、ぼくが八甲田へ来だして2年目の1980年(昭和55年)に泊まった部屋である。そのときは、池田さんはもちろんだが岩岳の岳友荘の御主人でSAJの元デモ北林功男(つくお)さんが同行していた。

到着早々、一大事が発生した。今年から室内で炊事ができないという。なんでも消防署からの再三の指導で、室内のガスコンロを撤去してしまったのだ。かわりに卓上コンロは貸し出すし、階下の炊事場にガスレンジと電子レンジがあるので、そちらを使ってくれというのだが…………。最初はえらいことになったと思ったが、段取りに慣れてしまえばこれでもほとんど支障はなかった。最近は自炊客も少なくなっているので、自炊棟共通でたった2台のレンジでも競合しなかったこともあろう。

最近は顔見知りも少なくなってきたが、このところ炊事場で必ず顔を合わせるグループがある。今年は、長老格の長身で白髪の紳士然としたひとが見えない。その次の長老格の男はあまり好みでないタイプなので無視していたのだが、今年はじめて駅前の市場で出会ったときにうっかり会釈してしまった。この男が青森の田酒ファンで、それを入手するためこちらへ来た初日はあちこち探し回るという。まあ、新潟の八海山や久保田のようなものか。今年はさいわい田酒が豊富に入手できたという。うっかり、“おたくらはいつも田酒ですね”といってしまったのがまずかったか、あるいは、こちらからはじめて挨拶したのが嬉しかったのかしらないが、田酒を進呈するという。酒は十分あるので断ったが、どうしてもといってきかない。ちょっとしたおかず程度のやり取りならまだしも、二千円以上する酒をもらうほどの付き合いはない。しかし、あまりに執拗なので“有り難くもなく”受け取った。飲んでみるとなかなかいい酒である。以前飲んだときの印象より洗練されたというか。ただ、銘柄を限って探し回るほどの差異は日本酒にはないと思っているので、そのこだわりにはついて行けない。そういうのに限って意味もなく狭量だから、こちらの酒をお返しにしても、どうせ飲みはしまいと、しばらくほっておいた。しかし、もらいっぱなしはどうにも気分が悪いので、最終日の前日、開華という栃木の酒を部屋へ持参した。向こうは16人の大所帯で、一室にたむろして宴会を開いていた。いいたくもない世辞をいって酒を置いて帰ろうとすると、こんどはキンキの煮物とカスベの煮付けをお返しに持たされた。これもいやおうない。これを部屋へ持ち帰り、また器を返しにいって、つまらぬ愛想をいいっているうちに、何で欲しくもない酒をもらって、へらへらしなければならぬかと腹が立ってきた。あとできくと、この男、青森出身だった。それでなんとなく納得である。むこうは25年目だというので、こちらは27年目だといってやった。

赤倉大斜面と八甲田温泉コース

2005年4月30日 土曜日

晴れ。強風で気温は低い。

6時起床、8時半の酸ヶ湯のバスでロープウエイ。ロープウエイの駅舎が改装され、待合室に身障者用のエレベーターができて売店の位置が変わった。従来、待ち行列は改札から玄関へ直線的に伸びていたのが蛇行するようになった。

ロープウエイ終点からは、津軽湾を越えて恐山の釜臥山がよく見え、下北半島の山並みの先に北海道がかすかに見える。今回はほとんど連日恐山を見ることができた。

田茂萢岳(9:54)から赤倉岳(社前10:59)へ縦走し大井戸沢のコルへ。ここから北側へ迂回して赤倉大斜面滑降。今年は斜面に新雪がなく、気温が低いので雪が締まって、快適な滑降である。この時期の新雪は急激なブレーキとなるので危険ですらある。強風のためいつもの赤倉斜面下部での食事を諦め、大分雛岳寄りへ下って昼食(11:35?〜13:18)。これほどたっぷり時間をかけた昼食は八甲田といえどもめずらしい。昼食後は、斜面を右の雛岳よりにトラバース気味に降りて、ガイド標識87で通常の箒場岱コースへ合流する。

三浦敬三さんが設定した箒場岱コースは、赤倉の大斜面が終わる前に、右にそれて、八甲田大岳から張り出すプラトーの裾を巻いて、高田大岳、雛岳の麓を縫って箒場に出る。これはルートのわかりやすさと安全のためのコース取りであって、実はあまり面白くない(これはご当人から直接うかがった話)。赤倉の大斜面をそのまま下ったほうが長いコースが取れるのだが、そのまま滑り続けると、途中から沢が出て、時期によっては箒場方向へ渡れなくなる。沢を横断するポイントは積雪によって変わるのでコースには設定しにくいのだ。地形的には、ただ滑っていれば車道に行き当たるが、いつだか自衛隊の隊員が硫化水素で遭難した凹状地に入り込む危険もある。

箒場岱(13:40〜2:10)。バスを待つあいだに、この辺りではバッケとよぶフキノトウを大森氏が集める。このバッケは、晩のおかずとしてフキ味噌と天ぷらになった。

青森市交通部のスキーシャトルバスは、最終以外はロープウエイ止まりである(14:58)。酸ヶ湯に帰るには、大分待ってJRのバスへ乗り継ぐ必要がある。まだ時間も早いので、もう一滑りすることになった。いずれにしてもロープで上がって、宮様コースで酸ヶ湯まで帰るか、前岳コースで銅像前へ降りるか、あるいはまた八甲田温泉コースで田代岱へ降りるか。宮様コースは、直接酸ヶ湯へ帰れるのが利点だがトラバースが主で、面白くない。前岳コースは登りがあるので嬉しくない。結局、八甲田温泉コースを滑って田代平からシャトルバスの最終に乗って酸ヶ湯へ戻ることになった。

八甲田温泉コースは田茂萢岳から赤倉岳方向へ下り、赤倉への登り口から北側へそれて八甲田温泉方向へ下る。出だしはトラバース、途中に見晴らしのよい滑降コースが少しあって、後半は樹林帯を縫って田代平のバス停へ出る。一般のスキーヤーにとっては、このコースまで足を延ばすのが精一杯だから、昔はゲレンデのようにコブ斜面になったこともあった。われわれには、さしたる魅力はないコースなので、時間が余ったときとか、天候がすっきりしないといった状況でしか滑らない。予定通り田代平へ降りて、シャトルの終バスで酸ヶ湯へ戻った。

八甲田温泉コースのルート標識3番(15:33)。田代平バス乗り場(16:15?)。酸ヶ湯帰着(15:24)

八甲田大岳と大岳循環コース

2005年5月1日

日曜日 晴れ。風は弱く気温も昨日より高い。

今日は八甲田大岳を目指す。少し時間がおしたので8時50分のJRのバスでロープウエイへ出発。

田茂萢岳(9:57)
赤倉岳社前(11:15)
大井戸沢のコル(11:25)
大井戸沢を途中まで滑降し、井戸岳の東を巻いて、大岳・井戸のコルへ。
コルから大岳山頂(12:17)へ登り、大岳大斜面滑降(この斜面はあまり快適でないことが多いのだが、今回はまったくシュプールのない斜面が残っていたので、たっぷりと楽しめた)。
大岳沢の源頭で昼食(12:30〜13:58)。
食後は、大岳・井戸のコルへ登り返し、ガイド番号110番の避難小屋(14:39)で少し休憩し、大岳循環コース(滑降開始14:51)をとる(しょっぱな、例によって矮性化したオオシラビソの樹林の薮こぎとなった。板を外して突破。今年は積雪が多いはずだったが、やはりダメだった。ただ、距離は短い。途中から竹のポールのガイドを少し東側に外して、酸ヶ湯沢寄りに滑ってみたら、湯坂の途中へ出た。あとで、地図でチェックすると、もっと上で酸ヶ湯沢を越えてしまえば、循環コースの硫黄岳寄りの登り口へ出ることになる)。
酸ヶ湯帰着(15:23)。

カメちゃんがJRの最終バスで到着。これで全員が揃う。

毎年、八甲田で過ごす約1週間の前半は身体がきつく、後半やっと調子がでてきたところで帰宅となるのだが、今回は最初から調子がいい。このところ習慣として定着した、朝の1時間ほどの散歩が効いている。軽く汗をかく程度の運動なのだが、筋肉というより代謝機能が向上するのだろう。今回は、大森氏は眩暈で、チャウは腰痛で、カメちゃんは仕事でと、それぞれ運動不足がひびいていたようだが、こちらはひとり快調で、登りでもバテを感じることはなかったし、翌日もあまり疲れが残らなかった。ただ、散歩程度では体重は変わらず、それにもかかわらず腹のせり出しは止まらない。医者風にいえば、加齢により筋肉が体脂肪と化して容積が増え、かつまた、その分布の中心が移動するためと思われる。

金木町斜陽館と満開の弘前城趾公園

2005年5月2日 月曜日

朝方はガスで視界なく、昨夜の天気予報も芳しくなかったので、今日は観光ドライブとする。カメちゃんは、せっかく八甲田に来たというのに、出鼻をくじかれたことになるが、こころよく賛同してくれた。のんびり朝食をとって、大森氏の運転するテラノで出発(9:40)。

今日の目標は、まず金木町の斜陽館、次ぎに弘前の桜である。酸ヶ湯の古株の布団係のお兄さんによれば、今日あたりの弘前は最高だとか。途中で十三湖へ寄る話もでたが、金木町からすると弘前とは逆方向で、時間がかかりすぎるので立ち消えになった。

まず青森市内へ出て、ベイブリッジで青森の市街を越える。ベイブリッジとは名ばかりで、ただJRを跨ぐだけで、海の上はまったくとおっていない。そのあと湾岸にそって北上する。JR津軽海峡線の奥内駅の先で左折して県道2号に入る。この道はほぼ西行して、おだやかな丘陵地帯を越えて金木町へ至る。この時期の北国の里山は美しい。山を覆い尽くす浅黄色に、桜の赤やコブシの白が映える。

まずは津軽鉄道の金木駅へ立ち寄り観光パンフに目を通す。この駅には、交流プラザとか休憩コーナーがあり、どうやら金木町のコミュニティーセンターといった機能もあるらしい。そのうち走れメロス号というディーゼルカーまで入線してきた。

目的の斜陽館は駅から800mほどで、どうころんでも行き着く場所にあった。田舎の町にぽつんとある豪邸かとおもいきや、周囲は完全に観光地化されて、駐車場を中心に観光物産館、津軽三味線会館などが建ち並んでいた。太宰自体、教科書で読んだか読まないかくらいの記憶しかないので期待もなかったが、これで斜陽館の実物を見ることができた。太宰も田舎町の飯の種になるとは思わなかったろう。入場料が高いので却下しようと思ったが、せっかく来たのだからと押し切られた。地方の豪農が明治時代に建てた和洋折衷というか、和の中に強引に洋を押しこんだ、とくに趣味も感じられない大きな邸宅である。河鍋暁斎の弟子が描いたという襖絵がちょっと面白かったくらいか。太宰が川端康成に文学賞の推薦を乞うたという自筆の手紙を覗いてみたが、自負と卑屈とがない交ぜの、虫酸の走るような文面であった。その土間の一画にある休憩所に、自由にお使いくださいと貼り紙のあるパソコンがあったので、梓の掲示を出した。

津軽三味線会館は、道路と駐車場を隔てて、斜陽館と向きあっている。こちらは面白かった。津軽三味線には興味があったが、ここ金木町がその発祥の地ということくらいで、詳しい由来は知らなかった。会館の展示でわかったのだが、津軽三味線の歴史は浅く、明治以降に発展をみたという。徳川時代の厳格な職業制度が、明治になって崩壊し、盲人であれば比較的自由に技芸を身につけられるようになったからだ。津軽三味線の独自性は、門づけや戸外での民謡の伴奏という劣悪な環境のなかで、いやでも聴衆の注目を惹きつけるための工夫の集積からくる。叩きつけるような奏法はインパクトが強く、その奏法を支えるために義太夫の太棹を改良してさらに強固な構造としたのだ。

津軽三味線会館の横に奥津軽大観音雲祥寺なる寺があったので覗いてみた。参道に満開の桜が二本あり、山門は興味をいだくに十分の古刹を思わせたのだが、その脇にはできたてのピカピカの観音像があり、山門の中の仁王様はどうみてもプラスチック製だった。最近、彫像などはCGと3次元CADで簡単にできてしまうので、おうおうにしてこういう新発意のような仏像が出現する。

観光物産館の食堂で海鮮天ぷら丼という、たんなる海老天丼を食べて弘前へ(12:49〜13:15?)。

岩木山を右手に見て国道339号をひたすら南下する。津軽平野はリンゴ園が名物だが、このあたりは水田が多い。弘前に近づくと桜まつり駐車場の案内板が現れ、それに導かれるまま岩木川の土手にテラノを止めた(14:36)。カメちゃんが前回の八甲田の帰りにこの駐車場を利用したことがあり、彼の道案内で弘前城を目指す。あとで調べると、岩木川はお城のすぐ北西側を流れていた。

お城の北西側から入ると、まず西壕の春陽橋に行き当たる。なんとも花見にふさわしい橋の名前だ。そこから西壕の桜並木を散歩する。ここはお濠の両側が桜並木になっているので、ちょっと千鳥ヶ淵を思わせる。それをひとまわり可愛くしたようなスケールだ。今日が丁度満開宣言だったとあって、「散りもせず咲きも残らぬ」絶好の見頃である。東京近郊の人間としては、ヒョウショウジョーをもらいたいほどこの城へはきているが、これほどドンピシャのタイミングははじめてであった。

ここへきたときは恒例になっている蓮池沿いの屋台でおでんやツブ貝で軽く一杯。ここは、弘前城天守閣から岩木山を見晴らす展望台から、蓮池を隔てた真下にあり、城内では比較的静かな場所である。池を前にして、そぞろ歩く花見客を横目にくつろいでいると、じわっと花見の気分が盛り上がってくる。

飲み残しのワンカップを手に、搦め手から一挙に天守閣のある鷹揚公園へ登る。ここは、枝垂れ桜の楽園である。ソメイヨシノが終わったあとでも、ここには開花時期のこもごもの枝垂れ桜があって楽しめる。撮影班がいろいろ写していたので、写真も添えられるだろう。天守閣は復元のコンクリート製で無粋なので登ったことはないが、前回登ったカメちゃんによると、そこから見下ろす桜の苑もまた一興とか。

鷹揚公園からレクリエーション広場へ向かい、カメちゃんのお気に入りの三忠食堂のオジイサンとおかっぱの女の子の看板を撮影したり、下手物興業をひやかしたりしながらお城を一巡して春陽橋へ戻った(16:20)。

ここで、はじめてテラノが大森氏の手をはなれてカメチャンの運転となる。岩木川の駐車場(16:43)を出て黒石方面を目指すが、ここで選択を誤った。距離的には遠回りになるが、来た道を逆にたどって弘前市街を離れてから迂回すればよかったのだが、黒石方面の案内板に従ったためお堀横の通りに引き込まれ、もろに渋滞に巻き込まれてしまった。おかげであまりのんびり料理をしている時間もなくなり、途中のスーパーで買い物(17:46)をして帰る。酸ヶ湯帰着(18:33)。

赤倉大斜面から高田大岳

2005年5月3日 火曜日

快晴だが強風。

今日は、高田大岳を目指す。八甲田随一のスケールをほこる大斜面だから、一度は滑らずばなるまい。JRバスの8時50分で酸ヶ湯発。中村、亀村、橋元は、田茂萢岳(9:36)から赤倉岳(社前10:43)へ縦走して大井戸沢のコルへ出る(10:52)。大森は、シールを着装し山腹をトラバースして大井戸沢のコルへ。大森氏がやや早くコルへ到着。

大井戸沢はつまらないので、通常の赤倉大斜面を途中まで滑り、八甲田大岳方面へトラバースして大岳沢をつかまえ、大岳沢の小岳側をトラバースして高田大岳の下部へ。そこで昼食(11:32〜13:15)。今日はカメチャンが参加なので、ワイン二本、ビールロング缶3本にしたが、やや多すぎたようだ。ワインほとんど一本を無理やり片づけたカメちゃんは、昼食後の高田の急登で七転八倒となる。あとで聞くと、ぐるんぐるん目が回っていたとのこと。いつも高田は昼食後一気に登ってしまうが、このときは、雪の急斜面が終わって夏道へ出るところで休み(13:59〜14:12)、山頂で休み(14:36)、滑り出しで休み(14:53)と、3回も休んだ。

途中で、神経質そうな単独行の男が谷地温泉へのルートを訊いてきたので、前後するたびに分かりにくいところを教えてあげた。この男、われわれが休んでいるうちに先に滑り出した。しばらくしてからわれわれがスタートし、先行したぼくが、斜面で立ち止まっている彼を抜いた。猿倉へ向かってトラバースを開始する地点で止まり、後続を待っていると、まずチャウが、まだ立ち止まっているその男のそばを通って滑り降りてきた。2人で、カメちゃんや大森氏を待っている間に、その男が滑り降りてきてチャウに近づくや、文句をいっている。“こんなに広い斜面で、なんであんなに近くを滑るんですか、わざとやったでしょう”というのだ。チャウは“偶然そばを通っただけよ”と言い返している。チャウのことだからやりかねないと思ったので黙っていたが、この男、後発のオバサンに抜かれたのがよほど腹に据えかねたのか。それにしても、さんざんひとにルートを教わっておきながら、その同行者に文句をいうとは、恩知らずの変な野郎だ。

いつもどおり、そこから高田の裾をトラバースして、小岳から下ってくるコースに合流して猿倉へ降りた(15:59)。近年、JRバスの本数が減ってきたが、今年はまた思い切って減って1時間半の待ちになってしまった(バスは16:33の下り最終)。ちょっと遠いが猿倉温泉までビールを買いにいって、時間をつぶす。酸ヶ湯帰着(18:48)。

またも迷走、ひさびさの蔦温泉コース

2005年5月4日 水曜日

曇り。強風。

ロープウエイ休止。今日は、睡蓮沼から蔦温泉。

近年は雪が減ってきているので、蔦温泉へのツアーはできなかったが、今年は大分多そうなので久々に降りてみることにする。初日、ガイドの園田さんに訊ねてみたが、この時期に蔦へ降りたことはないらしい。蔦へは5回は降りているが、前回はコースを間違えて、さんざん迷った末に、十和田湖温泉までいってしまった。このときは手持ちの2万5千の地図の範囲外へ出てしまったので、それにこりて携帯する地図の範囲を拡げた。念のためカメちゃんの時計の高度計を酸ヶ湯の高度約900mと比較してもらった。誤差が20mほどあるが、補正のしかたがわからない。まあ、誤差がわかっていれば計算すればすむ。

蔦へのコースは、睡蓮沼から登って猿倉岳の山腹の広い雪原を登り、稜線を乗越していったん矢櫃沢へ下って、向かいの乗鞍岳へ登り返す。猿倉と乗鞍の山頂を結ぶ線が最短コースだが、途中に矢櫃沢が深く入り込んでいるので横断できず、上手(右)から大きく巻く必要がある。乗鞍山頂からは南側の大斜面を滑降し、その下部から赤倉岳(北八甲田のと同名異山)のすそ野を巻いて西へトラバースし、赤倉岳の長い稜線(崖線)を捕らえ、あとはその稜線に沿って下る。蔦温泉の周囲の長沼か菅沼を捉えれば、沼の周囲の遊歩道に従って蔦温泉へ出る。

どうせなら蔦温泉で汗を流したいと早立ちをするつもりだったが、バスが10時近くまでないのでテラノで出発(8:28)。睡蓮沼へ駐車する(8:40)。行動開始(8:56)。最初の目標は猿倉岳と駒ヶ峰(〜櫛ヶ岳)を結ぶ稜線だ。下から見て猿倉の右へ延びる稜線の樹林が途絶えて、雪原が広がるあたりを目指す。睡蓮沼から直線的にそこを目指すと、途中の起伏が多いので、いつも右から迂回して枝稜線通しの高低差の少ないコースを取る。斜度はあまりなく単調な雪面歩きが続く。オオシラビソがまばらになって広い雪原となったあたりで最初の休憩(9:58〜10:04)。

行動を再開するとやがて、稜線の手前で色や形の異なるガイド標識が3種類出てくる(赤251)。櫛ヶ岳コース202番で稜線へ出る(10:32)。

ここで矢櫃沢を隔てて、乗鞍の大きな山容をはじめて目にすることになる。ここから見る乗鞍は、山頂の東側に急な雪の稜線、西側になだらかな樹林帯の濃い稜線を延ばしている。左側の雪の稜線の裏側が、乗鞍大斜面である。どこをとっても登れそうであるが、オオシラビソの密な所へつっこむと要らない苦労を強いられる。

稜線から板をつけて西へ大きくトラバースして、矢櫃沢を右から回り込んで対岸へ出て、そこから乗鞍の下をトラバースぎみに滑り降りて、なるべく山頂へ近づいてから直接山頂を目指すことにした(通常は、西のなだらかな稜線へ早めにでて縦走して山頂を目指す)。

乗鞍山頂の下へほどほど近づいたところで登高開始(10:50)。猿倉方面をふり返ると、今年は残雪で矢櫃沢が埋まっていて、猿倉から直接ここまで滑り降りられるようだ。大分大回りになったが、降りてから沢に行く手をはばまれるよりはましだ。乗鞍の斜面は、先ほどの猿倉の登りよりはやや急だが、それほどきついわけではない。やはり単調な雪面歩きとなる。山頂30分ほど手前の雪原で昼食とする(11:33〜12:39)。今日は強風でロープウエイが止まったせいか、南八甲田へ入ってくるひとが多い。われわれの昼食中も、数パーティーが通り過ぎていった。

今日は長丁場なのでそうそうのんびり昼食をとっているわけにはいかない。1時間ほどで切り上げて行動再開。乗鞍山頂直下の稜線へ出る(13:13)。山頂では先行パーティーが滑り出す準備をしている。彼らは猿倉へ降りるはずだ。ここから蔦へ降りるパーティーはまずいない。すぐ左手に稜線つづきの赤倉岳が見えている。乗鞍と赤倉のコルからは、眼下に橇瀬沢が流れ出しているが、その源頭はダケカンバのまばらな広い雪の斜面となっている。最初にその源頭目指して、乗鞍大斜面を快適に滑降する。今年はどの斜面もほどほどに滑りやすく、悪雪に苦しむことはなかった。源頭を越えて赤倉の山腹へ滑り込み、あとは樹林帯を縫うように延々のトラバースになる。

赤倉の稜線へ出たとおぼしきところで休憩する(13:44〜13:57)。静かな樹林帯を、そうさっさと下るな。すこしはのんびりせいとの意見である。眼前に沢を隔てて小さなピークがある。乗鞍大斜面の下から、ここまでずっとトラバースである。蔦の下りで休んだのも今回がはじめてか。しばらく歓談したり、写真を撮ったりして休む。

今回は、ここから稜線の上を通らずに沢へ降りてみた。そうすると、長沼へ直接出られる可能性がある。沢筋を下るとだんだん深くなって、やがて水流が出てくる。赤倉の稜線が頭にあるので、進めなくなった場合は稜線へ逃げるべきだと思い右岸をたどった。なおも下る小規模な杉の植林へ出た。このあたりで少し疑念が湧いてきたが、そのまま下降を続けた。やがて、次の杉林へ入り、本流へ流れ込む枝沢が深く切れ込むようになる。ここで決定的にルートの誤りに気づいた。このままだと、前回の蔦と同じ間違いを犯す。つまり、この沢は赤倉稜線の下の沢ではなく、その手前に入り込んでいる滝沢だったのだ。

前回間違えたときは、すでに酸ヶ湯のツアーのトレールがあり、それを嫌って右へコースをそらして失敗した。今回は、さっき休んだ場所で、沢の窪みと稜線の崖を取り違えての失敗だ。あとで調べると前に見えた小さなピークが赤倉稜線の1003mピークだった。地図を見れば、沢と崖では等高線の密度の差は歴然としているのだが、後の祭りだ。同じ過ちを繰り返したが、前回の経験が多少は役だって、早めに誤りに気づいた。

気づいた時点でもはや沢の水量は渡渉を許さなかった。そこで、ルートを間違えたことをみんなに話して、トレールを引き返すことにした(14:30)。ともかくこの沢を左岸へ渡渉できるところまで戻らなければならない。引き返して、なんとか加重に耐えそうな雪のブリッジで沢を渡る(14:55)。渡渉できてひと安心した時点で、地図で現在位置を確認した。やはり、カメちゃんの高度計が役に立った。現在の標高は約700mで、前回懲りて買い足しした2万5千図の範囲だった。念のためが役立ったわけだ。幸いなことにまだ蔦より上にいる。そのまま高度を保って斜面をトラバースすれば、蔦の上部の赤倉稜線、つまり正常ルートへ出る。渡渉後は、板をザックに付け、カメちゃんの高度計を何度もチェックしながらなるべく水平に樹林帯を進んだ。これが深い薮だとアウトだったが、疎林で比較的歩きやすかった。やがて本来の赤倉稜線の崖へ出てシュプールも確認できた(15:29)。

ここから板を付けて崖に沿って滑る。すぐに長沼が眼下に見え、そこへ下降するポイント(2回目の蔦ではここから降りている)があるが、雪が少なく崖面が出ているのでチャウには無理そうだ。そのまま下りつづけると、やがて積雪がなくなり、枯れ葉の上に踏み跡が見えてきたので板を外して歩く。残雪でとぎれがちな踏み跡をたどると、やがて次の下降ポイントに出た。沼は見えないが、木立の要所要所に付けられた赤布が、残雪の下に隠れている下降路の存在を示している。雪が少なく斜度もあるので歩きやすくはなかったが、雪の消えたところに道が顔をだしていた。下りきるとすぐに沼が見え遊歩道へ出た。菅沼であった(16:13)。ほっとしたが、もう終バスは間に合わない。まだ明るい日差しのそそぐ樹間を鮮やかな黄橙色の目立つキビタキの群れが飛び回っていた。遊歩道には結構な登りもあったが、そのまま進むと蔦温泉の新館の裏へ出た。浴衣を着た泊まり客が、室内からものめずらしげにわれわれを眺めていた。新館とその右手の別棟の売店の間から蔦温泉の前の広場へでる。出たところが蔦温泉のバス停だった(16:30)。終バスは16:18。とりあえず売店でビールを買って喉を潤す。このころには日は傾いて、売店の辺りは日陰になり、風もまだおさまっていなかったので、ビールより燗酒だったが、売店のオヤジさんはわざわざ燗をするなど思いつきもしない風だった。

大森氏ひとりが睡蓮沼まで行ければいいので、駐車場の車に声をかけてみたがだめだった。しゃくだが、タクシーを呼ぶことにした。ここからだと十和田湖温泉からくることになる。電話をすると、出てきたオバサンがリラクタントな声でいま車はないという。終バスが出てしまったので、ほかに手だてがないのだと説明すると、十和田市から呼ぶから40分ほどかかるという。それでもしかたがないからと頼んで電話を切った。しかし、十和田市から呼ぶというオバサンの説明は真っ赤な嘘だったようで、ものの5分としないうちにタクシーが到着した。しばし寒風にさらされながら、大森氏がテラノを取って戻ってくるのを待った。どうやらこのときチャウは風邪をひいたようである。大森氏帰着(17:29)。酸ヶ湯帰着(17:59)。

これで蔦へのガイドは二度も失敗してしまい面目ない。ただ、今回の失敗で、はじめてあの辺りの地形の読みに自信をもてた。あとは崖下へ降りるルートがあるかどうかだが、地図で見る限りは一個所だけありそうだ。はたして試してみる機会が今後くるだろうか。

今日は酸ヶ湯最終日だから明日を考える必要はない。時間をかけてカレーを作る。カレーは酸ヶ湯滞在の後半、青森で買い出した食材がなくなったころの定番である。残りのニンニクをすべてぶちこんで泡立つバターで炒め、タマネギ3個分のスライスを加えて徹底的に炒める。ガスレンジは炊事場の横の廊下の張り出しのような場所にあるから、いくらファンを回していても、廊下を伝って一階はもちろん二階まで独特の香りが立ちこめることになる。まあ、他のお客さん、ご勘弁ください。いつだか、いまはなきTBS.Bの草津のマンションでこのカレーを作り、次の週にいったときにまだ廊下に香りが残っていたことがある。このタマネギの炒め方がぼくのカレーの神髄である。容積がもとの1割ほどになり、茶色く飴色になるまで炒める。ゆうに30分はかかる。その最後が難しい。火の止めどころを誤ると、一瞬で黒こげになる。実をいうと、いまは亡き伊丹十三のエッセイから盗んだレシピである。

通例、カレーの具は酸ヶ湯の売店常備の鶏の冷凍で、これが結構美味いのだ。でも、今回は、昨日鶏は炒めてしまったし、大森氏がむこうで買い出してきたブタのロースがたっぷりある。それをぶつ切りにして、タマネギのあとの鍋で炒める。ブタに火の通ったところで、タマネギを戻し、トマトとカレー粉を入れて煮詰める。水分はトマト(あるいはトマト缶)から出るものに、多少追加する程度だ。ここで、トマトのないことに気づいた。最後のトマトは、さきほどサラダに使ってしまった。トマトの酸味がなくては、しまらないことおびただしい。思案に暮れたが、缶ジュースのトマトなら表の売店にあるのではとチャウがいった。さっそく買いにいってもらうと、幸いあった。缶ジュース3本を入れるとほどほどの酸味がでて大助かりした。カレーが好評だったことは、いうまでもない。

小坂町を訪ねて仙台へ

2005年5月5日 木曜日

晴れ。

最終日。のんびり朝食をとる。今年は食料も酒も残り物があまりなく、丁度な加減だった。荷物を片づけて、テラノへ積み込む。今日は仙台へ寄り、カメ邸へ一泊させてもらう。

酸ヶ湯出発(9:44)。岩木山展望台で岩木山を、雲谷駐車場で青森湾の眺望を楽しむ(10:13)。

丁度見頃の雲谷の出入口にある名物ヤマザクラを撮影。といっても名物と思っているのはぼくらだけだが。そのあと、旧道へ入って、はじめてねぶたの里へ寄ったが、これほど大規模な行楽施設とは思わなかった。混んでいるし有料なので却下。周囲の山の山腹に新幹線のトンネルが口を開けている。もちろん工事中(10:35)。八甲田丸、買い物などで時間をつぶし、一八寿司(11:34)。われわれが入っていくなり、主人の西村さんがお待ちしていましたと、声をかけてくれる。板前の長谷川君らと久闊を叙す。酸ヶ湯へくれば、ここへ寄らないことには落ち着かない。向こうもそうらしく、今年は遅いなあと話しあっていたとか。飲み食いも昔ほど勢いはなくなったが、くつろいだ時間を過ごし、4合ビン2本の酒を土産にもらい、一八を後にする(13:05)。まことに感謝であるが、ここから仙台までは、カメちゃんの運転となる。

カメちゃんの希望で小坂に寄る(14:26)。ぼくはまったく予備知識がなかったが、最盛期は人口2万を超える大規模な鉱山基地だったという町だ。いまは閉山して、その歴史と史跡を観光の目玉にしている。そのひとつが康楽館という芝居小屋だ。説明はWebサイトをご覧ください。大森氏は経験済みというので、残りの3人が入場料を払って中へはいった。すぐに黒子姿の案内が出てきて、まず二階席へ通されて進行中の芝居?を見せられる。観客を巻き込んで、なかなかアイデアをこらしたエンターテイメントである。カメちゃんが、ゆっくり弁当でも食いながら芝居を見てみたいといっている。そのあと、舞台の奈落へ降りて、花道の説明や、実際にスッポンの上げ下げ、舞台の回しを見せてくれる。もちろん、頭上では芝居が進行中なので、それにあわせてまさに黒子の実演である。年に一回、本物の歌舞伎役者を呼んで興業があるそうだが、それが、今年は7月に魁春の襲名披露だそうだ。吉右衛門が座長である。写真を見ると、菊五郎や団十郎も来ているようだ。カメちゃんじゃないが、こんなちいさな小屋で吉右衛門が見られたら好いだろうなあと思う。いま吉右衛門は旬の役者だ。そのあと、鉱山の資料を集めた郷土館へ寄ってから小坂を後にした(15:55)。

話しはとぶが、うちの近所の八百屋にパートのオバサンがいて、彼女の話しぶりから青森出身かと聞いたら、いや秋田だという。秋田でもはじのほうで十和田湖の近くだといっていた。家へ帰ってから、そのオバサンに小坂へ寄ってきたと話しをしたら、なんと彼女は小坂の出身であった。

あとはカメちゃんの運転に任せて仙台へ。いつもは渋滞したことなどないらしいが、さすがに連休最終日で車が多い。渋滞というほどではないが、多少の速度低下はあったようだ。仙台宮城で降りて、カメ邸近くの西友へ寄り、今夜の食材を仕入れる。昼が寿司だから、夜は肉をメインにした。カメ邸帰宅(19:35)。

最終日、三春の滝桜と黒羽町雲厳寺

2005年5月6日 土曜日

晴れ。

カメちゃんは今日から通常勤務に戻る。家を出るのはNHKの連ドラを見てからだというので、こちらも6時に起きて朝食の支度をする。酸ヶ湯でも6時起きだったから、ごく自然にそうなる。今日は出勤ですからというカメちゃんにも少々ビールを付き合わせ、最後の朝食を済ませる。

カメちゃんの見送りを受けて出発(8:33)。昨日は、駐車スペースがなく、自転車置き場の前に止めてしまったので、管理人からクレームがあったが、いたしかたなし。ここは、頭を下げるしかない。

仙台駅に寄って、女川名物、高政のカマボコを土産にと思ったが、いかんせん時間が早すぎた。駅前から仙台南部道路を経由して東北道へ。そのまま帰るのもあじきないと、三春の滝桜に寄ることになった。花は散ってしまっているだろうが、花時にあの混雑をおしてゆくことはまずないだろうから、いまいってみようということだ。郡山JTで磐越道へ入り船引三春ICで降りる。

三春の滝桜(11:09)。船引三春ICからは7.3キロある。なだらかな丘の斜面に、少し窪んだような地形があり、その中央に滝桜がみごとな樹形で枝を伸ばしていた。もちろん葉桜だ。はつらつと芽吹いた若葉に比して、その樹幹は蟠龍というか臥龍というか、黒々とした幹が数本絡まり合うようで怪奇きわまりない。樹頂からZ字状に曲がって伸びた枝の先が、さらにY字状に分かれて、まるでカッパの盆踊りとは大森氏の評である。

桜の種類としてはエドヒガンということになるが、三春の近辺は枝垂れのエドヒガンが多いらしい。そういえば、三春近くで高速道からも立派な枝垂れ桜が見えて、もしかしてこれかと思ったほどだ。滝桜を周回する道路を通って背後の丘の上にでると、そこにもエドヒガンの群落がある。周囲は見渡す限りなだらかな丘陵地帯である。遙かに残雪の安達太良山がゆったりとした姿を見せている。

昼食のために三春の町を訪ねる。まず、道路から古びた山門が目に入ったので近くの保健センターに車を停め(11:51)て、その山門のある田村大元神社を訪ねた。山門と書いたようにもともとは寺で、明治の廃仏毀釈で寺が神社に転向したとあった。山門以外はさしたるものはなかった。

車で三春の中心街へ入る。田村大元神社の辺りはひなびた田舎町のたたずまいだったが、三春町の役場を過ぎたあたりから、俄然様相が変わり、あからさまに観光目的で整備されたと見える真新しい建物の陳列場のようになった。その中心とおぼしき三春交流センターの広い駐車場へテラノを停めた(12:11)。飲食店は少なくないが最初から期待はない。センターの向かいの郷土料理店が臨時休業だったので、隣の五萬石という店へ入った(12:16)。幻の三春手延べ「索麺」のなんのとご託が並べてあるが、ようするに温麺か冷麺かしかないうどん屋であった。3人揃って、三春名物の三角油揚げ(厚揚げの厚さの油揚げ、つまり中がスカスカ)とホウレンソウのおひたしをつまみにビールを飲み、その幻と称する、できそこないの稲庭うどんのようなものを食べて店を出る。くそみそに書いたが、オバサンの客あしらいは悪くなかった。ホウレンソウのおひたしは、ぼくもチャウも茹ですぎたシドケ(和名モミジガサ)かホンナ(和名ヨブスマソウ)かと迷って、オバサンに確認したところ、にっこり笑って、ホウレンソウをフキノトウで和えたのだという。すっかり騙されてしまった。

五萬石を出てから、橋元園という茶屋へ寄る。橋本園でなく橋元園である。実はテラノで町を一巡したときに見つけてあった。そこで、お茶とヨウカンを買った。代金を払いながら、じつはぼくも橋元で、めずらしいので記念に買い物をするのだと話すと、最初に応接に出た手伝いのオバサンが若い奥さんを呼んでくれて、お互いに“あらめずらしや”の話しになった。考えてみると親戚以外で同じ姓のひとにあったのはこれが初めてだった。三春出発(13:08)。

大森氏が、芥川賞作家の玄侑宗久の福聚寺も三春で、そこにも有名な福聚寺桜があるとのことだったが、車の入れないところらしいので止めにする。戻りは、舟引三春ICでなく、郡山東ICへ向かう。郡山東IC(13:19)。

もう一個所くらいはよれそうなので、黒羽町の雲厳寺を提案する。赤旗日曜版の観光案内で山門の写真を見て以来、念願の寺である。西那須野ICから東へ15キロほどの山中にある。交通の便は極めてわるく、ドライブはあまり好きでないので、こういう機会でもないと訪ねられない。西那須野から大田原市を通過して黒羽町へ(14:52)。そこから低い峠を越える。地図をたよりに走ってゆくとしだいに森の気配が濃くなり、道は木立のトンネルを抜けるかのようになる。やがて、左手に苔むした石塀、右手にさして広くもない駐車場が現れる。そこに雲厳寺駐車場のちいさな看板があった。看板というより、その文字を書いた板が何かに立てかけてあった。駐車場には、戸を閉じたままの土産物屋と屋台が二台置き去りになっていて、ひとかげはない。さほど奥深い山地ではないが森閑として観光の気配はない。雲厳寺着(15:10)。

石塀の奥が寺の境内で、中程に門がある。これは山門ではなく、人家の塀の門のようなもの。そこを入るとすぐに深い川(武茂川 むもがわ)が行く手をさえぎり、赤く塗った太鼓橋がある。その先に急な石段があって、赤旗の写真にあった山門(禅宗では三門だそうだ)がある。写真で見たこの山門のたたずまいに、コロッと参ってしまったのだ。

この赤い橋を前景に、その奥の急な石段を中景に、最奥上部に山門を入れた写真はなかなか絵になる。三春の大元神社に山門とは逆で、寺になぜ神橋かとは大森氏の投げた疑問だが、写真になると、ああこれもいいなあと納得してしまう。山門は、入母屋の屋根に裳階をもつ二重門で、その大きめの屋根の存在感が好ましい。カメちゃんがいれば禅宗様式の三門を解説してくれるだろうが、いまごろは電話の応対か。山門の左の柱に「碧巌録提唱」、右の柱に「雲厳寺専門道場」とある。碧巌録が禅宗の重要な文書だくらいはかすかに記憶があるが、あとで調べると公案集として臨済宗のバイブルのようなものらしい。公案とは、落語で茶化されている、わけのわからない禅問答のことだ(失礼!)。山門を入ると敷石の中庭が広がり、手入れの行き届いた庭木がすがすがしい。右手に鐘楼、正面が仏殿で「東山」の額が掛かっている。その奥、一段高く方丈庫裡、その左手に本堂があり、その辺りから読経の声が聞こえてくる。まさに禅の修行道場である。

観光目当ての寺とは違って坊主が境内で商う土産物屋などもってのほか。観光パンフレット類は一切置いていない。ここへきても、この寺の名前が、「うんげんじ」か「うんがんじ」かもわからず。後で調べて後者と知った。とにかくわれらが境内を散策しているあいだ、ほかにひとかげを見なかった。ここには芭蕉の句碑もある。この寺のお坊さんと松尾芭蕉が知り合いで、一方が俳句を教わり、他方が座禅を教わったというので、奥の細道で芭蕉は黒羽町やこの寺に寄って、句を残している。いまの世の中、そんなことがあればほっとくわけがないから、黒羽町ではそれを観光の目玉にして句碑のガイドページまである。もっとも、この二人が知り合ったのは、その坊さんが鹿島神宮との間の領地争で江戸へ上り、深川の芭蕉庵の近くの寺にいたことがあったからだそうで、なにやら生臭い。

このお寺、ずいぶん、来にくい場所にあるが、来た甲斐はあった。ひさしぶりに寺らしい寺に出会った満足感をいだいて出発(15:35)。おおむね往路を戻り、途中から4号へでて矢板ICから東北道へ戻った(16:40)。新井宿でチャウを降ろし(18:13)、ラクダ坂帰着(18:18)。

無事、八甲田スキーならびに東北観光旅行終了。この間、終始ハンドルを握りつづけた大森さん、お疲れ様。カメちゃん、一宿二飯の恩義かたじけない。夏は、秋田駒、乳頭山を目指してまたごやっかいになります。よろしく。


 
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