道草Web

テーマは「星空の宴会」

梓編年

2005年7月23日 土曜日

曇り。

会津大内宿など。冨山、後藤、鈴木、中村、橋元

東川口、午前7時45分集合。

冨山さんの提案で「星空の宴会」をテーマに梓山行である。当初の目的は那須登山であったが天気が思わしくない。高速を走りながら周囲の低山を見ると雨雲がへばりついている。当然、那須岳は雨雲のなかであろう。行動計画に関してすこぶる柔軟性に富む梓であるから、急遽予定変更。後藤さんの提案で、会津方面へ転進し、塔のへつりと大内宿を訪ねることになる。

東北道を西那須野ICで下りて塩原温泉を通り、尾頭トンネルを越えて会津西街道へ出る。福島の天気予報は、「浜通り」「中通り」「会津」とわかれているが、この3つの地方ごとに天気が大きく異なるからという。ちなみに、目安として阿武隈山地より海側が浜通り、阿武隈と日光・那須連山のあいだが中通り、日光・那須より北西が会津である。鉄道でいうと順に、常磐線沿い、東北線沿い、只見線・会津鉄道沿いになる。今回は、中通りから会津へ入ったことになる。つまり、いいたいのは尾頭トンネルを境に、天気がはっきりと変わり、梅雨明けが嘘のようなぐずついた天気から、すっきりした青空と乾燥した空気に変じたことだ。もうこれだけで、予定変更は成功したようなものである。

自称?日本三大祇園祭でにぎわう会津田島のヨークベニマルで昼食用の買い物をする(10:35頃)。つまみ類はチャウが用意してあったので、オムスビ、ビール、冷却用の氷などを買いたす。会津田島からは会津線と平行する121号で塔のへつりへ向かう。このあたりは那須岳の北西側になるが、その稜線の北端にある二岐山(ぼくは行っていないが、あの逸話に富む二岐俣温泉を擁する)がよく見えると、後藤さんや善さんが話している。

国道の脇にある塔のへつりという看板を目安に右折する。看板では塔のへつりのへつりという字は、山冠に佛の旁を書いている。このあたりの物知りがでっちあげた造字ではないかと思ったが、あとで後藤さんが調べたところでは立派な漢字で、ちゃんとJISコードにもあった。すなわち「岪」である(失礼!)。道は蛇行する下りになり会津線の踏切を越えて明るいコナラの林を進む。すぐに駐車場が現れるが、先行車についてさらに下ると広場で行き止まりになる。広場の周囲にはどの観光地にもあるような食堂や土産物屋が並んでいる。広場内の駐車スペースはすでに埋まっていたので、引き返して林間のひろびろとした駐車場に車を止める。別に区画が切ってあるわけでもなし、どうぞ好きなところに止めてくださいとおおらかである(11:12)。

徒歩で土産物広場へ戻る。広場の端に『新観光名所福島三十景南会津郡下郷村湯野上温泉と塔のへつり』と標識がある。その先の階段を下ると、阿賀川の対岸に塔のへつりの奇観が展開している(この川は北上して越後平野へ出て阿賀野川に合流)。対岸に聳える砂岩の岩壁が長年の浸食によって分断され、幾多の塔頭のように聳えている。しかもその底部を流水がえぐって、あたかも黒部の下廊下のような回廊を形成している。こうして説明すると塔のへつりとはまさにそのままの呼称だ。吊橋がかかっているので、対岸へ渡って回廊のへつりを経験できる。すれた山屋にはさして面白くもないが、それでもやや外傾した回廊を歩く緊張感に負けて途中から引き返しているご婦人もいた。一巡して、少し上段の虚空蔵なる怪しげな祠などを見て回わる。

吊橋を戻って広場にあがると下手の端に展望台があり、そこから塔のへつりの全容を見ることができる。へつってから見るか、見てからへつるか、である。確かに奇観ではあるが、観光地と化しているので、そこかしこに手あかのついた人工の臭いを感じる。山屋にとってはマンマの自然が放射する興趣が感動であって、どうもこの手の景観には気持が乗ってこない。

駐車場の林に戻って昼食とする(11:20)。駐車場の脇の木陰に適当なテーブルがあって、そこへ陣取る。背の高いコナラの疎林を風が爽やかに抜けて、鬱陶しい虫もいない。絶好の宴会場である。上手を走っている会津鉄道の塔のへつり駅が林越しにわずかにみえ、ときおり色鮮やかな列車が発着している。高木の垂直線のかなたを列車が水平に横切り、森のトトロはネコバスであったが、なんだかネコ列車が走っているようだ。本来ならいずこかの山頂で食すべき行動食で宴会である。ビールはいやというほど冷えているし、ワインも二本ある。チャウが伊勢丹で買いこんできたつまみはいずれも質がよく、いささか贅沢にすぎるほどであった。後半を運転する善さんには申し訳なかったが、まことに心地のよい宴会で、その意味で塔のへつりは来てよかった(13:19)。

次ぎに大内宿を目指す。121号をさらに北上し湯野上温泉を過ぎて左折。大内宿着(13:35)。塔のへつりより高名な観光地とあって人が溢れているが、それを除けば、なぜこんな山中にこんな大規模な?と、思われるほどの集落が忽然として現れる。昔はさぞかし主要な街道の重要な宿場であったのだろうなどと勝手な推測をしていたが、後で調べてみれば、尾頭トンネルを下りてからずーっとお世話になってきた会津西街道の宿場であった。明治以降、主要道が阿賀川沿いの現121号へ移ってしまったので、取り残されてしまった。いまとなってはそれが売りとなるわけだ。

大内宿は、広い旧街道の両側に大きな茅葺きの民家が整然と並んでいる。もちろん、現在は宿屋ではなく、土産物屋であったり食堂であったりする。道路の両脇に清流が引かれ、野菜や果物、それにラムネやもちろんビールなどが冷やしてある。妻籠や馬籠の宿場もよかったが、ここもなかなか楽しめる。観光客はほとんどジモティーらしく、愛嬌のある明るい尻上がりの言葉が飛び交っている。街道の突き当たりにある神社の丘に登ると、大内宿の全景を眼下にすることができる。ここは、後藤さんがいつか掲示に出した傑作写真の撮影ポイントでもある。あれは積雪期だったので、さらに風情があるが。ここで、後藤さんが買ってきてくれたビールとラムネをご馳走になり、しばし撮影アングルやスケッチの位置取りなどを話し合う。あの木は邪魔だからきっちまえとか、冬場なら落葉するから目立たないとか、あの屋根だけ茅葺きでないのがいかんとか、勝手な話しに時間がすぎる。

帰りの道すがら気づいたのだが、途中右手に街道の外へ向いた鳥居があり、そこから街道と直角に小径が分岐している。鳥居のわきに高倉神社の標識が立っている。雑踏と別れてその径を入ると、旧街道の外に広がる田畑が目に入ってくる。径はそのなかをまっすぐに伸びてはるかの小高い森へ至っている。なんとなくそそられて、みんなで行ってみた。黒々とした森に神社の存在を示す鳥居があり、その周囲に赤い花を着けた木立が見える。ノウゼンカズラにしては色が違うなあと気にしながら近づいてみると桜のわくらばであった。わくらばがこれだけあるのは、樹勢は衰えてきている証左だが、美しくはある。

鳥居をくぐって山道を進むと、神域を回るように水量の豊富な清流が引き回してある。その流れと参道に交わるところに手水の石桶がある。ここで珍しいと思ったのは、流れを挟んだ石桶のむかいがわに、緑鮮やかな杉の葉で覆った四角い箱があったことだ。杉の葉は視線方向に向きがそろっている。箱ではなく杉の葉をただ長方形に積み上げたものだったろうか。とにかく、参拝するにあたって、心身を清めることに関わる装置なのだろうが、いままで見たことがないし、まったく用途の想像がつかない。観光地化されて人心が廃れ、意味を失って取り残された神社ではないなと直感する。うれしいことに、これがあたっていた。神社は古びて朽木の寄せ集めのように見えて、実はこまかく手入れされている。面白かったのは大内婦人会が雑巾15枚を寄進したとしたためた札があったことだ。雑巾の寄進自体は問題ではなく、それだけの枚数の雑巾を使って、この神社を清掃した労働奉仕のことをいっているのであろう。なんと質素で心のこもった寄進であることか。後藤さん曰く“ここでは信仰が生きている”のであった。歴史ある風土とはいえ、完全に観光地化した地元のひとびとのあいだに、いまなおこうした心情が保たれていることに嬉しさを憶え、大内宿を後にした(14:45)。

当初は那須の百村のキャンプ場を予定していたが、目的地が変われば宿営地も変わる。今夜のキャンプは、以前、後藤さん企画のマジカルミステリーツアーのとき、カメちゃんが案内してくれた古町のキャンプ場を目指すことになった。あれは快適なキャンプ場だったし、あのあとカメちゃんから幕営料が無料になったと聞いている。古町は、大内宿から田島を経由して檜枝岐方面へ南下する289号の途中にあるが、今日は祇園祭の渋滞が心配される。田島を通らないために、それより北側の山道を使うことにした。大内宿から林道を使って舟鼻峠経由で400号へ出て、昭和村から新鳥井峠を越えて289号へ出るのだ。このルートと298号の間に駒止湿原があり、ルートは湿原の北側を迂回することになる。途中、昭和町でお祭りに気を取られて左折点を行き過ごしたりしたが、おおむね予定通りに古町へ到着。キャンプ場は前回の記憶があるのですぐに見当がつき、夕食の食材をサンドリーム伊那店というスーパーで仕入れる(16:36)。

久川キャンプ場(17:16)にはすでに数組のキャンパーがいたが、広さからすればガラガラといっていい。以前訪れたときは、まだできたてのほやほやという印象だったが、いまは落ち着いたというか、ややさびれた感じである。中央にある芝生も踏み荒らされてはいないので、今日に限らず利用者はあまり多くないようだ。時間も遅かったから管理棟には人がいなかった。トイレの脇に、無料にはしたが管理協力費として一人300円を払って欲しいと掲示があった。無料化したというのは、それなりの理由があったのだろう。温水シャワーや電源の完備した一泊数千円の最新カーキャンプに比べると、都会人には魅力に乏しいのかもしれない。しかし、このキャンプ場は、最低限の設備があって、きちんと管理されているし、ビン・カンと生ごみは収集してくれ、燃えるゴミだけを持ち帰ればよい。人が少なく自然が残っているほど山屋くずれには好ましい。

われわれは敷地の一番上手の草地にテントを張った。すぐ近くにとうとうたる水量の小川があり、その途中を岩でせき止めて、そこからキャンプ場内に分流を引き込んである。その流れの先は小さな池となって、ミニ庭園のしつらえである。炊事場は少し離れているが、近くにこの清流があれば問題ない。

後藤シェフのメニューが次々とサーブされて宴会は進行する。この季節だというのに風はさわやかで蚊や咬虫もいず、蚊取り線香は2つ点けてあるが、それもいらないくらいだった(少なくともこのときは)。宴会といっても、梓も以前ほどの勢いはないから、静かな歓談といってもいいだろう。そのうち善さんが“星が出てるよ”という。空を見上げるとまだ雲が多いが確かに星が見える。はじめはひとつだけだったが、だんだん雲が晴れたのか、まず白鳥座の見当がついて天の川が見えだし、その畔にいる彦星ことアルタイルも見えた。ついで、善さんがカシオペアが見えたという。それで、北極星もわかって、東西南北もはっきりした。ぼくの星の知識は、まあそんな程度で星が多くなりすぎてもわからなくなる。それ以降、どんどん雲が晴れて多数の星が姿を見せた。くしくも「星空の宴会」の実現をみたわけである。ここへくる途中、運転をしながら、冨山さんが“星空の宴会”なんてロマンチックなタイトルの掲示を出すもんだから、お天気が変になったなどと悪口を叩いたことが頭をかすめる。尾頭トンネルを越えてからは好天ではあったが、ここで完全に目的が達成されるとは予想外だった。重鎮はご満悦である。後藤さんが仙台のカメちゃんに電話すると在宅ですぐに出た。昔彼のガイドで来た久川キャンプ場にいるから、これから仙台へ行くかとか、いや、ここへこいよとか、冗談を交わして、ひとしきり久闊を叙す。秋の秋田駒は是非実現せねばなるまい。

後藤さんが最後まで頑張ったが、まず善さんが姿を消し、チャウが消え、そして起きてはいるものの、冨山さんもぼくも受け答えがうつろになって、やがて宴は果てた。最近はだいたいこのパターンである。  

2005年7月24日 日曜日

明るい曇り。

昨夜は、涼しいし虫はいないし、よい気分で寝入ったのだが、明け方がいけなかった。少し明るくなって、いったん目覚めたとき、耳元をプーンと羽音をたてて蚊が飛んだ。最初は、まあ一匹くらいはとおもって、止まった頃を見計らって頭や首を叩いているうちに寝込んだ。次ぎに目覚めたときに、またすぐ蚊の羽音がした。今度は少し慎重に蚊の行方を確かめた。大分明るくなっていたので、テントに止まると黒い点となって見える。それを見計らって叩く。鉛筆でなすったような汚れがオレンジのテントについて一匹退治した。ほっとして寝ようとしたところ、また羽音がした。あらためてよくみると、テントのいたるところに黒い点がたかっている。テントの出入口を見るとネットが開いているではないか。夕方、虫が気にならなかったので、開けたまま寝てしまったのだ。蚊取り線香はもう燃え尽きている。油断であった。そうなるともう寝られない。後藤さんも起きあがって蚊を叩くが、薄明ではいかんともしがたい。どうにかしようと表へでて、尚やんを呼んだ(これは嘘)。とにかく煙でいぶそうと、最初は散らかっていた紙を燃してその煙をテントへ送り込んだ。朝露で湿った紙は燃えにくい。息を吹いて燃え上がらせるとテントが熱でやられる。冨山さんも起きて、俎がわりのベニヤ板で扇いでくれたりしたが、紙はいかにも効率がわるい。そこでむかし祖母がヨモギをいぶして蚊遣りにしていたのを思い出し、ヨモギをチタンのコッヘルに入れてガスで焙った。これだと煙が多く出て功を奏した。ドタバタの末、蚊も嫌気がさしていなくなったようである。

蚊騒動が収まって一寝入りしたが、流石に一日寝不足であった。朝は、冨山さんの食当で冷やし中華である。冷やし中華は梓の朝食では、はじめてのような気がする。これは成功だった。具は説明するまでもなく野菜やハムなどを刻めば簡単にできる。ただし、錦糸玉子はステンのフライパンでは無理で、ゆで卵に変じた。付属のタレも即席にしてはまあまあ。開々亭に匹敵するなどと、適当なおだをあげて、3杯もおかわりした(少し食べ過ぎ)。

善さんの運転で久川キャンプ場を出発(9:49)。まず汗を流そうと、古町温泉赤岩荘へ寄る。前回もこの温泉へはいっている。まだ早すぎるのでやっているかと心配したが、ここは8時半から営業していた。しかし、露天風呂は、昨夜落とした湯の水量が戻っていず、浴槽に身を沈めても腰くらいしか湯がない。しかもこの時間だというのに地元の団体が先にはいっていて落ち着かない。ここの湯は鉄分が多く、湧き出すときは透明だが、しばらくたつと赤茶ける。それに舐めるとしょっぱい。あまり好きなタイプの泉質ではないが、こちらは汗が流せればシャワーだけでも十分なので、少し浸かってそうそうに引き上げた。

今日は帰るだけだが、それだけではつまらないからと駒止湿原に寄った(11:58)。入口のガイドに3つの湿原から構成されているとあったが、そのうちもっとも大きな大谷地と呼ばれる湿原を散策した。乾燥したミニ尾瀬といった趣で、この時期、一番多かったのはミズギボウシでほかにはあまり目立った花はない。ミズバショウ、ツルコケモモ、ワタスゲ、サギスゲ、ショウジョウバカマ、ヒオウギアヤメなどいずれも実になっていて、咲き遅れたニッコウキスゲがわずかに彩りを放っていた。もう少し早ければ咲いている花の種類も多かっただろうが、花を楽しむには乾燥化が進みアシが茂りすぎている。間の悪いことにバスで乗り付けた団体が先行していて、狭い木道が一本だけとあって追い抜きもままならない。来なければよかったという思いのほうが強かった。狭いながらも待避場のようなものがあり、団体が道を譲ってくれたので、ようやく静かな歩きにもどった。それもわずかなあいだけで、すぐに湿原を抜けて広い林道に出た(11:36)。とたんに周囲が広く開けて遠くに森林が見える。どうも植生が不自然だ。木道を歩いている別のグループの話しを思い出したのだが、この辺りは牧場にしようとして失敗したのだという。確かに林道の周囲には外来の牧草が茂っている。帰って調べると、戦後この附近の開拓が試みられたが、いまは国の天然記念物に指定されてブナ林の復元が試みられているとあった。この湿原がどの程度有名なのか知らないが、いまでは訪れる人の多すぎて保護が問題になっているようである。

駒止湿原発(12:00)。帰りは会津田島の大元亭で昼食を摂る(12:26)。ここは、1994(H6)年、後藤さんのつてで奥只見の叶津番屋で2泊したときに帰りに寄った店らしい。後藤さんは鮮明に憶えていて、座った席まで指摘するが、ぼくはさっぱり記憶にない。ただ、このとき冨山さんが体調をくずしていたのはみんな憶えていた。当時の日誌を見ると、1994年6月3日(金)夜から土日にかけての総会を兼ねての梓の集まりだった。このときは、東京駅の集合に善さんが遅れてへべれけで到着したり(旧悪暴露)、田中君の新車がパンクしたり、ぼくが摘んだ山菜が毒草(いまおもえばホウチャクソウ)で、自分で試食して気分が悪くなったり、齊藤君が自宅からひとりで車を駆って参加したりと、いろいろあった。結局、大森氏は管理職研修、カメちゃんは南米出張の準備、池田さんは仕事、チャウは母上の看護と、不参加者が多くて総会は流れている。そのときの面白い記述がある。「今回は6升用意したので、酒は余るだろうとうっかり口走ったのが悪かったか、ぼくが寝ているまに、ほとんどはけてしまったらしい。一昨夜は遅く着いたので、2升も空いていないから、昨夜だけで4升近く飲んでしまったことになる」。参加人数も多かったとはいえ、往時の梓の勢いがしのばれる。大元亭発(13:14)。食後も善さんの運転で快適に飛ばし、こちらはうとうとするうちに、田島から2時間半もかからず東川口へ帰着(15:39)。

――――― 〇 ―――――

夕食に残りの冷やし中華を食べ、いまごろ痒くなった十数個所の蚊の刺跡を掻きつつ、これを記す。


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